74.ホテルへ
アンジェだけでなく侍女たちも一緒に、予約していたホテルへと向かう。
この温泉街を代表する大きな旅館で、先程会ったルイーネの実家だ。
ライナーは代官家の人間だが、そこへ娘を嫁入りさせる程にこの街で権力を持っている老舗。
このホテルのウリは充実したサービスと伝統的で荘厳な建物で、変な捻りはない。
その分お値段も張るが、人生に一度きりの新婚旅行なのだから、アンジェに一番良い思い出を作って欲しいんだ。特に、彼女は今まで一度も遠出をしたこともないのだから、余計に。
「ここが、今日、泊まるとこ?」
「そうだよ。気に入った?」
「うんっ。なんだかとってもいい匂いがするの〜。それに、人がたくさんね? みんな、楽しそう〜」
歌うようにリズムを付けて話すのは、相当テンションが上がっている印。
香りのものが好きなアンジェは、ロビーに焚かれたお香が気に入ったらしい。
「この匂い好きか? お土産に買って帰る?」
「うん、好きよ? でも、買って帰るのはねぇ……。ティアちゃん、好きかな?」
「どうだろう。ティアは香りの強いものはあまり好きでは無かったと思うけど」
「じゃあ、やめとく」
「お土産って言っても、自分用に買っても良いんだよ?」
「おうちに? それは、イヤかも」
「そうか? なんで?」
「だって、セトスさまの匂いが、なくなるじゃない? それは、とっても、イヤだもん」
その言葉がとても嬉しかった。
目の見えないアンジェにとって、香りが好みだというのは見た目が好きだということとほぼ同じ。
「今の香りを気に入ってくれてるなら嬉しいよ」
「セトスさまの匂い、だいすきだもん。それに、匂いが変わったら、遠くから分からなくなって困っちゃう」
ふふふ、と楽しげに笑うアンジェを眺めている間に手続きは済んで、部屋へ案内される。
「ここ、足元がふかふかね? それに、部屋の大きさも、なんか変? 音が聞こえにくいよ」
「ここは、大きな吹き抜けになっているんだ。だから、天井が高くて反響が普段と違う感じになってるんだよ。音が良く響くのは、結婚式をした教会と一緒かな。
普通より音が大きく聞こえるから、たくさんの人が歩いてもうるさくないように、音のしにくい分厚めの絨毯が引かれてるんだよ」
「なるほど〜! ちゃんと、意味があるのね!」
一人だと意識しないだろうことも、アンジェと一緒にいると考えるし、説明するために頭を使う。
「それに、ここはこのホテルでも一番有名な、大きいステンドグラスが飾られているんだ。アンジェは、ステンドグラスって知ってる?」
「知らない、かな? キレイだってことは、しってるけど」
「光が入りやすい方の窓に、光を通すけどきれいな色が付いている色ガラスをはめて、絵を描いてあるんだ。
特に若い女の子は夢中になってるな」
俺の視界の隅でも、うっとりと見上げている子がいる。横の男は飽きたのか暇そうだけど。
「へぇえ。覚えとこ。それで、今度、ティアちゃんにも聞いてみるの。セトスさまとは、ちがうこと、教えてくれるかも」
「何か不足があった?」
「ううん。セトスさまは、理由とか、作り方とか教えてくれるじゃない? でも、ティアちゃんは、どう思ったか、とか、気持ちを教えてくれるのよ。
どっちも、とっても大事なの!」
「なるほどな。アンジェは、そうやって情報を貰う人も使い分けているんだ。えらいえらい」
褒める気持ちが伝わるように頭をなでてあげると、これ以上ないほど得意げなドヤ顔を見せてくれた。
「わたしも、言われるばっかりじゃないのよ?
ちゃんと、考えてるの!」
ほめてほめて、とアピールするように俺の腕にぎゅーっと抱きつくのは甘える子どものようでとても可愛かった。アンジェの気が済むまで褒め倒してあげるくらいに。
「じゃあ、賢いアンジェにはまた別のことも考えてもらおうか」
ステンドグラスのあるホールから離れ、部屋へ入って落ち着いてから。
「んー? なになに? 覚えたいよ」
積極的に聞いてくれそうだし、ちょっと堅苦しいことも言っておこう。
「ここの建物はとーっても大きいってことは分かった?」
「うん。歩いたとこだけでも、けっこう広かったよね?」
「昔はここが王族の離宮だったからこんなに綺麗で大きな建物なんだ。それを領主に下げ渡したものを代官家が借り受けて、商人が実際に運営してる、って感じの仕組みだな」
「うんうん。元々は、王さまのものだったけど、ライナーの家の上のおうちが貰ったから、ライナーのおうちに貸した? それを、ルイーネのおうちが使ってる、ってことだよね?」
「そう。ちゃんと分かってるな」
「わたしね、話すの苦手だけど、聞くのは得意なんだよ? 父さまと兄さまのお話し、ずーっときいてたから」
「わざと難しく言ってみたけど大丈夫だったね。アンジェに考えて貰いたかったんだ。
これで、ルイーネの家は貴族じゃないけど王さまとも関われるすごい家だって分かっただろう?」
「うん!」
「それに、今は別のところにある王族の離宮も管理しているから、素晴らしい技術と、良い仕入れルートを持っているんだよ」
「へえぇ?」
何故俺がこの話をし始めたのかすらよく分かっていないようだが、とりあえずは進める。
「ミラドルト領のものも幾つか使って貰っているんだ。例えば、季節の果物とか高級な木材、あとは海の珊瑚とかね」
「そうなんだ! 凄いね! お得意さまなんだ?」
「そうだね。特にこういうお金持ちが使うところは高くてもきれいなものを欲しがるから、よく儲かるんだ」
さっきはクイズっぽくしたいからアンジェには慣れない言葉遣いをしたけれど、今度はなるべく簡単な言い回しにする。
「領地の木材は質が良くて安定していると、評判が良いんだ。高級な木材は数を揃えにくいからね、良い収入源になっているんだよ。
うちの領地は平地が少ないから、小麦を沢山は作れない。その分、他でお金を稼いで領民を食べさせて行かないといけないんだ」
「なるほど、分かった!」
こうやって、日常の些細なことから少しずつ領地のことを学んで欲しい。そうして、いつかは。
「いつか、夜会で領地のことをアピールできるくらいになってくれたら良いんだけどな」
「今、セトスさまが言ったみたいに、誰かに、説明出来るように、なるんだね。頑張るよ!」
アンジェは新しいことを学べて楽しそうだけれど、人によっては『楽しい新婚旅行なのに無粋な話をした』って怒られそうだ。
当のアンジェは俺に言われたことを反芻して色々と考えているみたいだけど。
色んな話を聞いて考えるのが好きなアンジェだから、俺は好きなんだな、ってそう思った。