44.セトスさまのとなり
侍女のイリーナ視点です。
「イリーナ、少しいいか?」
「はい」
珍しく主様に呼び止められた。
主様はご自分のことは何でも自分でやってしまわれるので、私達に頼まれることはあまりない。
そんな主様がわざわざ言われるということは、やはりお嬢様のことだろうか。
「アンジェのことなんだが」
やっぱりそうだ、主様はお嬢様が大好きでいらっしゃるから。
「もう、1人で歩けるくらいになってると思うんだ。俺の腕にもほとんど体重をかけてないし、普通にしてる時でも1人で歩いてるのと変わらないと思う。でも、一人で歩くのは怖いと言うし、実際させてみたらできないんだ」
影のある面持ちで、ふうっ、と息を吐く。
「単純に筋肉がつくところまでついてしまって、これ以上良くならないというところまで来たのかもしれないんだけど、何か気持ちの面で引っかかってるところがあるんじゃないかと思って。
別に無理に聞き出さなくてもいいから少し気にしておいてくれないか?」
「はい、かしこまりました」
私自身が何かに気づけてるわけじゃないけれど、なんなら直接お嬢様に聞いてみても良いかもしれない。主様には言いにくいこともあるかもしれないし。
翌日、主様がお仕事に行かれてから、お嬢様がピアノのお稽古を始めるまでの間に、何気ない風を装って聞いてみた。
「お嬢様は最近、主様とどこへでも出かけられるようになりましたね」
「うん!」
とても嬉しそうな笑顔が眩しい。
「イリーナはとても嬉しゅうございますよ。
こうなって欲しいと願い続けていたんですから。
本当に良い方とご婚約なさいました」
「ふふふ。そうでしょう?
セトスさま、ほんとうに、優しいから」
「そうですね。お嬢様が1人で歩けるようになったら、もっといろんな所へ行けるんではないでしょうかねぇ……」
すると、さっきまでの明るい顔が一変した。
うつむきがちな暗い表情。
「うん、そうだよね」
力ない呟きにしまった、と思った。
「いえいえ、怖いものは怖いでしょうし、できないことは仕方ないと思いますよ?」
「うーん、怖い。とても、こわい。
でもね……うーん……」
普段、お嬢様が私相手に口ごもることはほとんどない。
やはり、何か心の負担になってるんだろうか?
私達が何か言いすぎた?
「何か、気になることでもございますか?」
「うーん」
そう言って促してみても煮え切らない返事。
「主様に言えないことでも、私達に言ってみてはいかがですか?
相談することは案外大切ですよ?」
しばらく思案顔で考えていたけれど、ふと顔を上げた。
「あのね、ほんとに、セトス様に言わないでくれる?」
「もちろんです。お嬢様が申し上げたくないことであれば、私は絶対口外致しませんよ」
そう言いながらも、少し心が冷たくなった。
お嬢様は、誰よりも主様が大好きで、主様に全てを任せているような人で。
なのにその主様に言いたくないことがあるなんて……
「ダメなのは、分かってるんだよ。
自分で出来なくちゃダメだってわかってる。
うん、こわいのはあるんだけどね……
そうじゃなくて、わたしが、1人で動けるようになったら、セトス様のとなりじゃ、なくなっちゃうかもしれないから」
少し涙ぐんで悲痛な顔でそう訴えるお嬢様。
「そんな訳ないじゃないですか!」
反射的にそう言い返した。
「お嬢様が歩けるようになったって、主様の隣だってことは変わりませんよ?」
「でも、あるく時は、ぜったいセトス様じゃないといけないってことじゃ、なくなるもん」
もちろん、お嬢様は主様がいないと生きていけないくらい頼りにしてると思う。
でも、それと同じくらい、主様にもお嬢様が必要だと思う。
だって、あんなにデレデレのお顔でお嬢様を見つめてらっしゃるんだから!
「お嬢様が自分で歩けるようになったって、主様はお離しにならないと思いますよ。
たとえお嬢様が嫌がったって、お隣に置くようにされるんじゃないですか?」
「いやがることなんてないもん」
「物の例えですよ。そんなに気になるのなら主様に直接聞いてみたらいかがですか?
立てるようになったら一緒に歩いてくれなくなりますか?って」
「そんなこと、聞いちゃダメだよ」
「あら、夫婦の間に言ってはいけないことなんてないと思いますよ?
それよりも、そうやって主様に言えないことがある方が夫婦としたら良くないと思います」
「そうかなぁ?」
「そんなことでどうこう言うほど器の小さいお方じゃありませんよ。
お嬢様は不安に思ったことは何でも主様に聞いてみたらいいのです。
お嬢様はそうやってここまで来られたでしょう?」
「……そうかも。そうだね!」
ふっ、と何か吹っ切れたみたいな表情をした。
「やっぱり、1人で考えてるってよくないんだね。イリーナ、ありがとう。
帰ってきたら、セトス様に聞いてみる」
その日の夕方。
「あの、セトス様。ちょっと、いいですか?」
主様がお仕事から帰ってこられて、夕食までの束の間休まれている時に、お嬢様がそう話を切り出した。
「わたし、ひとりで歩けるように、なったほうがいい、ですよね?」
恐る恐る手探りで話を進めるお嬢様。
突然そう言われた主様はきょとんとしながらも、
「一人でできるようになった方がいいんじゃないか?」
「そうだよね、うん」
2人の間に沈黙が降りるけれど、私は心の底からお嬢様を応援する。
ぐっ、と決意した表情でお嬢様は話し始めた。
「わたしが、一人であるけても、セトスさまは、隣にいてくれる?」
「もちろん。なんでまたそんなことを?」
突然言われて、主様は驚いたようだったけれど、はっきりと隣にいると言ってもらえた。
お嬢様はこわばっていた肩の力を抜いた。
「よかった……ありがとう、イリーナ」
そう呟く。
「どうしたんだい?急にそんなこと言い出して。イリーナに何か言われた?」
「ちがう、ちがうの。わたしが言ってたの」
そこで言葉が止まってしまう。
否定はされなかったものの、主様のことを疑ってたような気持ちにはなってるのか、かなり言いづらそう。
でも、主様に先を促されてようやく話し始める。
「わたしがひとりで歩けるようになったら、セトスさまと一緒じゃなくても良くなっちゃうから……
それは嫌だなぁって」
「アンジェは1人で歩けるようになったら、俺の隣からいなくなっちゃう?」
「ちがう、ちがう。そんなことない」
「そうだろう?一応言っとくと、今みたいに俺の腕にアンジェの腕をかけるのは貴族社会ではかなり普通の姿勢だ。むしろしないと変だな」
「そうなんだ。よかったぁ……」
こわばっていた表情が一気に綻んでふわりと笑う。
その表情を見て、主様がお嬢様をぎゅっと抱きしめた。
「ごめんな、何も言ってなかったから不安にさせて」
「ううん。ぜんぜん。ありがと。
ちゃんと、ひとりで歩けるように、練習頑張るね?」
主様の腕の中でそう言ってふわりと笑う、お嬢様はとても幸せそうだった。