38.はじめの
随分長くお待たせしました。
外出出来ない今のご時世、家の中で少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
「大丈夫そうなら、前に進んでみようか。俺が支えてるから。アンジェは今まで自分で前に進んだことないし怖いと思うけど、俺がいるから大丈夫」
だから安心して、1歩を踏み出してみてほしい。
どうやったらいいのかと、とても戸惑った顔のアンジェ。
そうか、彼女は『前に進む』ということをしたことがないから、わからないんだ。
「いつも足踏みの練習をする時みたいに片足をあげて、普通におろすとこより前に下ろしてみて?」
軽く頷いて左足を上げる。
そして、つま先がほんの3センチくらい前に出るように足を置いた。
「そうそう。ちょっとだけ前に出れるだろう?
それを繰り返していけばいい。
逆側の足を上げて、同じことをやってみて?」
歩くとは言えないくらい、前に進める距離は短い。ほんの3センチくらいずつだから。
でも、いま無理に歩幅を大きくしていく必要はないと思う。
それよりも前に進むという動きに慣れてもらうほうが先なんじゃないかな。
もともと足踏みはできていたから、ほんの少し前に進むということはさほど難しくないんじゃないかと思っていた。
でも俺達にとって普通の、「歩く」っていうことは色んな動きはいっぺんにしてることだっていうことがわかった。
足を前に出す、体重をその足にかけることによって前に体重が動く。それから、重心が動いて前に進む力になってるんだと思う。
でもアンジェは前に足を動かすのと重心を動かすのをバラバラにするせいでとても動きがぎこちなくなるし、その間にバランスを崩しそうになってしまう。
「アンジェ、1回感覚を変えてみよう?
前に進むんじゃなくて、俺に向かって倒れるみたいにしてほしい。それでその倒れそうになった体を足を前に出すことによって支える。
言ってる意味わかる?」
「……うん、ちょっと」
倒れるときにそれを支えるように足を出す。
俺は足を出すことによって進むと思ったけど、そうじゃないみたいだ。
「前に倒れるみたいに……そう。
アンジェは、足を出すのと体を動かすのが別々だからフラフラしてしまうんだ。
だから、体を先に動かしてそれに足をついてくるようにしたらちょっとはマシになるかもしれないと思って」
「わかった」
アンジェの体重が俺の腕にかかる。
大した重さではないけれど、前に倒れそうになった瞬間に、アンジェの足は前に出た。
ほとんど本能的な動きだと思うけれど、彼女にとって大きな1歩だ。
「……あっ」
微かに驚いたような声が出た。
「こういうこと……?」
「そうだな」
さっき歩こうとした時は、足がほんの数センチ前に出ただけだった。
でも、いまは1歩と言えるくらい進むことができたのだ。
「わかった、わかったよ!
みんな、こうやって、歩いてるんだ。
わたしにも、できるんだ!」
アンジェは高揚して頬を赤くしている。
そして弾むような声で喜んでいる。
「そうみたいだな。
正直、俺は歩く時に前に倒れてるか足を出しているかなんて、全く考えたことはなかったけど、アンジェのおかげで新しい発見ができた」
その時、ふと気づいたことがある。
「これ、車椅子を押した方が動きやすいんじゃないか?」
「なんで?」
「車椅子の方が細かく動けるし、俺がいなくてもできるし」
「……セトス様がいい」
少し俯きがち細い声でそう言うアンジェ。
「ダメじゃないなら、セトス様がいい」
物事は効率ばかりを追い求めていてもいけないんだな。
ふと、自分がよく指摘されることを思い出した。世の中は効率だけで動いてるんじゃない。
動かしてるのは人間なんだって。
「ごめん、そうだね。アンジェが良いと思うやり方が良いに決まってる」
「じゃあ、続き!」
明るい声で、アンジェはそう言う。
足に負担がかかりすぎないように気をつけないととは思うけど、アンジェは自分が歩けるということに感動して、どんどん前へ進みたかっている。
俺の腕にしがみつくように体重をかけて、ぎこちないながらも足を前にだそうとするその顔には満面の笑みが浮かんでいて。
その笑顔を眺めたいのは山々なんだが、アンジェの足が俺の足を踏んでしまわないように気をつけるだけで俺は精一杯。
だけど今日は、彼女にとって記念するべき日だ。
はじめの1歩を踏み出した日。
ようやくここまで来た。
長くかかったようにも思うけれど、俺達が歩んでいく時間に比べればほんの一瞬だったと思う。
これからの長い長い間に、2人で色んな『初めて』を経験していくんだろうな。