35.腕の中の宝物
「ただいま」
「おかえりなさい!」
離れに帰るとアンジェが出迎えてくれる。
この時は本当に生き返る気がするな。
「遅くなってごめんな?」
「だいじょうぶ。連絡、くれたから」
イリーナからアンジェの車椅子を押す役を代わる。
イリーナは自分がやると言ってくれるのだが、なるべくなら俺がやりたい。
いずれアンジェが立てるようになったらしなくなることだから、余計に。
「すぐにご夕食を準備いたします」
普段なら俺が帰ってから少ししてからご飯なのだが、今日は遅かったからすぐにご飯らしい。
ダイニングテーブルの椅子が置いていないところに車椅子を止める。
俺が向かいに座ると、夕食が供され、2人で話をしながら食べる。
アンジェが1人で食べるための献立になっていれば、自分ひとりで食事も出来る。
彼女が自分で生きていく為に日々進歩していることが実感できて、嬉しくなった。
「それでね、セトスさま、今日は……」
アンジェが楽しそうに今日あったことを話してくれる。
ピアノのこんな曲をした、ティアとこんな話をした、イリーナにこんな物語を読んでもらった……
様々なことを並べて報告する姿はまるで子供みたいだ。
「今日のピアノは、ティアが、今習ってる曲をしたの。でもね、ティアも、あんまり、まだ弾けてないから、私も、あんまりわかってないの。
次の、レッスンで、ちゃんと聞いてきて、くれるって、言ってたから。
次が楽しみ。私の、レッスンじゃ、ないけどね?」
ふわふわ笑って楽しそうだ。
こうやって報告してくれるのは可愛いだけじゃなくてきちんと理由がある。
今アンジェに何ができるのか、何が必要なのかを知るためにとても大切だから。
「そうか、もうティアのピアノに追いついたかぁ。俺が思ってるよりめちゃくちゃ早かったな。
一応、母上に目が見えない人にピアノを教えられる人を探してもらっているんだが、そこまで行ってるなら普通のピアノの先生でも大丈夫そうだな。
次のピアノのレッスンの時に部屋に入れるように頼んでみようか?
アンジェはもう聞くだけでも十分だろう?」
「うん! ティアは、上手なんだけど、ちゃんと覚えてない時が、あるから。
直接聞きたい、かも」
「じゃあ頼んでおくな? いつやるかも聞いておくから」
「ありがと」
こうやってアンジェが言ってくれるから、俺がしてあげれることもあるんだ。
まあ、一生懸命話してるのが可愛いからそれを俺が楽しんでるっていうのもあるんだけどな。
食事が終わったら、2人だけののんびりタイム。
俺が1日で一番好きな時間で、しかも今日はアンジェが喜びそうな話があるし。
どんな反応をしてくれるかちょっと楽しみにしていると……
「セトスさま、何か、いいことあった?」
いつも思うが、表情が見えないのにどうやって感情を読んでるんだ?
「いいことあったよ」
「どんな?」
アンジェをソファーに座らせて、自分もその隣に座る。
肩を引き寄せてあげると、甘えるように身体を預けてくれる。
「アンジェといつ結婚式しようかって考えてて、父さん達と話し合ってきた」
ビクッとアンジェが背筋を伸ばす。
ミーアキャットみたいだ。かわいい。
「ほんとの、ほんとに?」
「本当だよ」
そこまでびっくりするほどかと思っていると、突然ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「えっ!? どうした? えっ!?」
突然すぎて対応できていない。
「ありがと、ありがと」
俺は何も言えず、ただアンジェの涙を拭ってあげることしかできない。
でもよく見ていると彼女も自分の涙に戸惑っているようだった。
「うれしい、うれしいのに、なんで泣くの? なんで?」
少しパニックになりかけているみたいだ。
「嬉しい時に涙が出ることだってあるよ」
アンジェは今まで感情が少なかったのに、突然感情の揺れにさらされて対応しきれていないのかもしれない。
優しく背中を撫でていると、少しずつ落ち着いてきたみたいだった。
「大丈夫?」
「うん。もう、だいじょうぶ」
目の周りが赤くなっているけれど、ふわりと笑う表情はいつものアンジェと同じ。
「あのね、ほんとの、ほんとに、私と結婚してくれる?」
顔を見られたくないのか、俺の首筋に額をこすりつけるようにしてるから背中をゆっくり撫でてあげる。
「本当にアンジェと結婚したいんだ。アンジェは俺と結婚してくれる?」
「うん、したい。したいです」
こくこくと頷くアンジェ。
「あのね、わたし、ずっと、結婚なんて、できないと、思ってた。
だって、わたし、普通じゃないから。
でもセトスさまは、わたしでも、いいって言ってくれたから。すっごく嬉しいの!」
「アンジェ『でも』いいんじゃなくて、アンジェ『が』いいんだよ」
「ありがとう、ございます。セトスさまの邪魔、しないように、頑張るから。
会ってからでも、だいぶ、普通になったでしょ? なるべく頑張るから、いらないって、言わないでね?」
小首を傾げてそういう姿はかなりクるものがあったが、言っている内容は暗い。
実家とは決別して前を向いてくれたと思っていたが、実の親にあれだけ言われたのはアンジェにとってかなりのダメージだったのだろう。
「俺は、絶対アンジェがいらないなんて言わない。だって、アンジェはいつか俺がいらなくなる?」
「そんなこと、ない」
「そうだろ?それと同じぐらい、俺にもアンジェが必要なんだから」
「ありがと」
ぎゅっ、と抱きしめてくれたから抱きしめ返す。
アンジェの香りに包まれて、この手の中の宝物を生涯守り通そうと、改めてそう思った。