3.できるかな
パンを食べ終わってしばらくまた本を読んでいたが、お腹を壊すことはなさそうなので軽く運動してみることにした。
「歩けないのは不自由だろうし、午後は少し、歩く練習をしてみないか?」
アンジェは小さく、本当に小さく首を縦に振った。
「したことないことをするのは怖いだろうからね。ゆっくり練習しよう」
「普段はどのくらい動けているんだ?」
侍女に軽く聞いてみる。
「ベッドから椅子へは誰かが抱き上げて移動しておりますので、ほとんどご自分で立たれることはありません」
マジか。思ってたより動けなかった。
「じゃあ、とりあえず立てるようになろうか」
だけど、俺たちは意識するまでもなくやっていることすらできないとなると……大変そうだな。
「一旦ぬいぐるみ離しても大丈夫か?」
軽く声をかけてからぬいぐるみを取り上げる。
「…………ロッシュ……」
「クマの名前ロッシュにしたんだね。大丈夫、ロッシュがいなくても俺が目の前に立ってるから」
アンジェの両手を取って、確認するように握る。
すると力は弱いものの握り返してくれて嬉しくなった。
「な?俺がいるから大丈夫だ。足に力を入れて、立ってみて欲しい。出来るか?」
軽く頷いて、立とうとする。
しかし、長年使っていなかった足の筋肉は衰えてしまっているようでうまく立てなかった。
「アンジェ、立てないからといって焦らなくていい。
時間はたっぷりあるんだから、ゆっくり練習しような。」
この子は目が見えないだけで様々なハンデを背負わされている。
少しでも楽しく過ごせるようになるには、できることを少しずつ増やしていくしかないだろう。
「1回、俺に掴まって立ってみようか。たぶん、椅子から立つ方が筋肉を使うと思う。立ってしまえばあんまりキツくないかもしれないから」
また少し頷き、両手を俺に伸ばす。
まるで抱っこをねだる幼子のようで、とんでもなく可愛かった。
「痛かったら、俺の体どこでもいいから叩いてくれ。
こんな風に他の人を立たせたことなんてないから、失敗するかもしれないから」
アンジェの背中に手をまわし、力を込めて抱き上げるようにして立たせる。
彼女の身体は思っていたよりずっと軽くて、あまり苦労せずに抱き上げられた。
弱い力ながらも必死に俺のシャツを握っているのがあまりにも可愛くてたまらない。
小さいと思っていたが、立ってみると案外背は高かった。
俺の顎の辺りに頭のてっぺんがあって…………ちょっといい匂いがする。
いやいや、冷静になれ、俺。
今はそういうことを考えている時じゃない。
「少し力を緩めるよ。なるべく頑張って立ってみて。
俺はちゃんとアンジェの身体を支えてるから、不安にならなくても大丈夫だからな。」
頭が少し縦に振られるのを肩の辺りに感じてから、支える手から力を抜いてみた。
プルプルと震えながらも懸命に立っていようと頑張るアンジェ。
限界が近くなる前にそっとソファに座らせてあげる。
「大丈夫か?どこも痛くない?」
ほんの少しだけ口角の上がった微笑み、たぶんアンジェ的には満面の笑みを向けてくれる。
軽く頭を撫でてやると仔犬が甘えるかのように、俺の手に頭を擦り付けてくる。
「大丈夫そうならもう一度するか?」
返事の代わりに俺のシャツを掴み、引き寄せられる。
腰をかがめて近づくと、首に腕を巻き付けられた。
彼女なりに頑張って立とうとしているらしい。
残念ながら、立つには筋力が足りないみたいだが。
少し力を入れて立たせてやると、さっきと違って首に腕を巻き付けているせいで、アンジェがよりいっそう近く感じる。
…………緊張するな、俺。子供じゃないんだから。
「……立て、た」
珍しくアンジェが口を開いた。
蕾が綻ぶような笑顔と共に。
俺の補助ありとはいえ、自分が立てるなど思っていなかったんだろう。
感動しているアンジェには悪いが、ほどほどのところで座らせる。
足を痛めてはいけないからな。
「そうだな。アンジェは目が悪いだけで足はなんともないんだ。毎日少しづつ訓練しよう。
いつか、自由に歩けるようになるから」
「…………もう一回」
アンジェお得意の、もう一回だ。
彼女の頼みは聞いてやりたいんだが、これ以上は身体の負担になってしまう。
なんせ、幼少期以来ほとんど使っていない筋肉なのだから。
「1日で続けてしても効果はないよ。むしろ足を痛めてしまう。毎日少しづつ頑張ろう」
ああ、アンジェを家に連れて帰りたい。
そうしたら毎日俺が一緒に練習できるのに。
この家では、大切にされているとは言い難いし、むしろ邪魔者扱いだ。
それ自体は貴族家としては普通のことだし、家に対してなんの貢献も出来ないアンジェが幽閉まがいの扱いを受けていたことも、異常なことではない。
でも、俺ならアンジェの目が見えないことなんて気にしないし、大切にするのに。
婚約したのが遅かったとはいえ、アンジェの事情もあるしあと2年ほどは結婚できないだろう。
それまでは休みの日にこうして通うしかない。
残念だが、仕方ない。
アンジェの足が少し回復するのを待って、侍女にも訓練の仕方を教えておく。
残念ながら俺は医者じゃないし、専門的なことはわからないけれど、スポーツと一緒だと思う。
日々の積み重ねが大事なんだ。
そうやって楽しく練習してるとあっという間に夕方になってしまう。
「アンジェ、しばらく忙しくなるからあんまり来れなくなるかもしれないけど練習頑張って。
いつか一緒に遊びに行けるようになろうな」
「そと?」
「アンジェは外に行きたくない?」
「……わからないけど、行きたい、かも」
「なら、どんなものなのか知る為にも、練習頑張ろう」
ヤバい、帰りたくなさすぎる。
「バイバイ、また来るな」
軽くアンジェの髪を撫でてから、部屋を出る。
出会った時と同じように、椅子に座っているアンジェ。
でも、彼女自身は前とは違う。
頬には少し赤みが差し、笑顔で見送ってくれる。
あの子が笑顔で応援してくれるなら、どんな仕事だって頑張れる気がした。
恋人の為にがんばると言う友人を馬鹿に出来ない。
しばらく会えないだろう彼女の姿を網膜に焼き付けてから、扉を閉じた。
次に会える日を楽しみにしつつ。
矛盾が起こったため、最後を少し変更しました。