第十六話 慰霊碑
河内時雨の慰霊碑を見つけるのは、正直、骨の折れる作業だった。
理由は簡単。
地図も何も用意せず、ただ当てずっぽうで村内を歩き回った挙げ句、慰霊碑の前を何度も通り過ぎたことに、水瀬が気づかなかったからだ。
このままなら、おそらく慰霊碑を見つけるだけで半年はかかるだろう。
自分の方向音痴ぶりを嫌でも自覚している水瀬はそれを考えるだけでうんざりして、道ばたの石に腰を下ろした。
「……ふう。いい風だなぁ」
田圃を渡るさわやかな風は、東京では忘れかけていた感触で水瀬を包んで汗を抑えてくれる。そして、見上げた空では、雲を流してゆく。
今の水瀬に出来ることは、歩き回るか、それともこうやって空を見上げるだけだ。
「……」
水瀬は空が好きだ。
どこまでも広がる無限の空の果てに何があるのか想像するだけで心が癒される。
空を眺めているだけで、イヤなこと全てを忘れることが出来る。
たとえば、無茶ばかり言ってくる上司とか、嫉妬に狂う彼女とか、すぐ暴力を振るう姉とか、金に細かい親とか……。
忘れたいと思うのに、なぜか忘れたいモノが地獄の淵からはい出してくる錯覚を覚えた水瀬は、その場にひっくり返ろうとして―――
「わわっ!?」
自分が石に座っていたことに気づいたが、後の祭りだった。
「何をしてるんだね。君は」
モノの見事にひっくり返った水瀬の顔を、あきれ顔でのぞき込むのは、警察官の制服を着た中年のオトコだった。
「い、いえ……ちょっと」
痛たたっ……。後頭部をさすりながら水瀬は何とか起きあがった。
ウィンドブレーカーのフードが少し、草の汁で緑色になっていた。
「考え事を」
「……この辺では見ない顔だな」
あからさまに疑わしいという顔で、警察官―――村の駐在―――は水瀬から視線を外そうとしない。
「はぁ……学校が休みなので、少し旅行を」
「学校、どこ?」
「東京です」
「東京からこんな所へ家出か?」
「―――は?」
家出?
水瀬はその言葉に嫌な予感を覚えた。
「まさか……あの、駐在さん?」
「親御さんに迎えに来てもらうから、駐在所へ来なさい」
「あ、あの?」
駐在は水瀬の手を掴むと、近くに止まっていた自転車に向かって歩き出した。
「駐在所はすぐそこだから」
「……」
それから10分後。
「……ここにあったんだぁ」
額に浮いた汗をぬぐいながら、水瀬は慰霊碑の前に立った。
慰霊碑といっても、それほど立派なものではない。
村の戦死者を奉る顕彰碑の影に隠れるようにして立つ石塊は、よほど注意しなければ何かの石碑だなんて、気づくはずもない。
その辺に転がっていた、墓石にもならないような石塊を、村の石工が見習いに削らせたといわれれば、そのまま納得してしまうほど、恐ろしく稚拙なシロモノが、生い茂った草の中に埋もれていた。
「御苦労様」
「はっ!」
ニコリと微笑んで振り返った後ろには、しゃちほこばって立つ駐在がいた。
「恐縮でありますっ!」
年季の入った敬礼に、水瀬は質問で答えた。
「あと、学者村ってどこ?」
「そこのたんぼ道を抜けた先であります。塀がずらりとならんでいますから、すぐわかると思います」
「今は閉鎖されている?」
「はい。あの村に喚ばれたら我々警察の力も及ばない厄介な所なので」
「……話が見えない」
「あっ。失礼しました。学者村についてのご説明がまだでしたね」
駐在は一礼の後、続けた。
「学者村は通称名です。我々はこう呼んでいます。“呪い村”と」
「呪い村?」
水瀬は眉をひそめた。
「随分、ご大層な名前だね」
「はい」
駐在は頷いた。
「ご指摘はごもっともです」
「何か由来でも?」
「少し前まで、学者村一帯は鬱蒼と茂る森でした」
駐在は語り出した。
「あの辺は、昔は森ではなく、田畑だった。
そして、その中心には大きな神社があった。
この神社にはどん欲な神主がいて、近隣の百姓に金を貸しては法外な利子を取り立て、私腹を肥やすことにばかり熱心だった。
神社の持つ田畑も百姓から取り上げたもので、百姓は皆、この神主を鬼や悪魔として忌み嫌っていた。
ある日、百姓から巻き上げられる金に見切りをつけた神主は、神社に封じられていた魔物と契約して大金をせしめようとして失敗した。
契約の失敗により、神社と田畑は一晩で鬱蒼とした森に変わり、村の人々は、その森を恐れて“呪いの森”と呼び、何があっても枝一本採ろうとしなかった。
「でも実際には?」
「採った者はいたのですがね……なぜかその木を燃やして作った料理を食べると死ぬとか、不審火が起きるとか、災いをもたらすともっぱらの評判が立って」
「で、誰もその土地を?」
「ええ。誰も近づく者さえありませんでした。ところが」
駐在は顔をしかめた。
「その神主の子孫であり、土地の所有権は自分にあると言い出した者がいました」
「勝沼財閥?」
「そうです。あの死に神連中です。村の者の抗議に耳も貸さず、森を破壊してあんな閉鎖都市を造った。挙げ句にゃ自前で警備員雇ってるから警察は不要だとぬかしおって。ワシら警察もよう入れなかったですわ。財閥が警察上層部を抑えてましてね」
「へえ?で、そんな森に作られたから」
「そうです。誰が言い出したかは知りませんけどね?“呪われてしまえ!そんな村”が短くなって“呪い村”となったんだろうと、ワシなんか想像しております」
「成る程……でも、奇妙なのはそこじゃないよ。巡査長」
「は?」
「勝沼財閥はもう既に解体され、学者村は閉鎖されていると聞いているよ?それなのに、巡査長は、行方不明者があの村に向かったと聞いただけで捜査を止めた。何故?」
「……」
駐在は困ったように視線をさまよわせた後、それでも答えた。
「……お笑いになるかもしれませんが」
「どうぞ?」
「……その……実はいろいろと厄介な事件がありまして」
「事件?」
「思い出せる限りで20人ほどが、あの村にかかわって行方不明に」
「……どういう、こと?」
「この村一帯も、あの戦争の時は一時的に放棄された場所です。戦争被害は、狩野粒子を含めて、被害は本当に軽微で済みましたが……戦後、ワシらが村に戻ってすぐです。学者村にはかなり金目のモノを学者センセイ達が残していったと、ウワサが立ちまして」
「まさか―――泥棒?」
「そうです。
あの学者村を取り囲む塀の外でウロウロとする不審者を何人しょっ引いたか……。
ところがです。
学者村は4メートル近い塀と深くて広い堀に囲まれています。
素人が入り込めるシロモノではないですし……実際、そんなウワサが立ってからすぐに、“学者村に行くと行って出かけたまま戻らない”と警察へ相談するケースが何件も寄せられまして」
「それがみんな行方不明?」
「ええ……村の連中の証言で、何人かはこの村に来ていることはわかっているのですが、何しろ、その後がわからない。学者村に入り込んだ形跡さえ残していないケースがほとんどで」
「かといって、学者村は所有権問題から警察としても入り込めない」
「はい。あの戦争で、土地の所有権がこんがらがって、同じような事態に陥っている所は多いと聞きますよ?」
「4メートルの塀なんて、素人が越えられるシロモノじゃないしね」
「はい。警察としては、行方不明は行方不明として、ことを荒立てて学者村の捜索なんて騒ぎにしたくなかったのです。何しろ、戦後のこの混乱のご時世です。余計な騒ぎは、警察だって御免です」
「それでも、君たちは、どこかでわかっていた。方法はともかく、みんな学者村に入って―――殺されたか、とにかく死んだって」
「あの村にかかわって生きていた者はいない。
それに、この村はヨソ者を何かと嫌う。
私が駐在でいられるのも、この村の出だからに過ぎません。
他の者は半年と勤まりません。
ですから、本当は行方不明者の重要な情報を知っていたとしても、例え目の前で死体が転がっていても、それがよそ者のことなら関わろうともしませんです。
ヨソ者の事なんて知るものかというのが、この村のモンの本音ですから」
「……」
呪われた森を切り開いて村を作ったから、呪われた村になった。
バカな話もあったものだ。
水瀬は苦笑するしかない。
そこに自分から向かうしかないとなれば、もうどうしていいのか想像さえ出来ない。
「巡査長」
「はっ」
「御苦労様。駐在所に戻ってすぐ横になりなさい。そして、僕のことは全部忘れて」
「はっ!」
「―――さて」
自転車に乗って走り去る駐在の後ろ姿を見送りながら、水瀬はため息をついた。
「催眠術って、こういう時のために使うものだよねぇ」
駐在にかけた催眠術は服従系の簡単なものだから、昼寝でもしてくれればすぐに忘れてしまうだろう。
「えっと……?」
とりあえず、水瀬はペンキのはげかけた慰霊の由来書を見た。
河内時雨 生没年不明(?~1863か?)
京都四条畷に生まれ
幼少の頃、宮中に入る。女官として頭角を現した後、明治大帝の乳母を勤め、後に幕末の混乱を憂いて下野。その志を同じくする者と共に尊皇攘夷運動に加わり多大なる活躍を示すも、仲間内の裏切りにより幕府に捕縛され、江戸へ運ばれる途中、この地にて殺される。
死体は発見されなかったが、様々な証言から、河内時雨がこの村で殺害されたことは間違いないとされ、恐れ多くも明治大帝の河内時雨慰霊の御意志を受け、当時の村民の出資により慰霊碑が作られる。
なお、殺害された場所はここより離れた場所、旧秋津浦神社付近とされ、慰霊碑もその地に存在したが、土地改良作業に伴い、この地へと移転された。 H村教育委員会
「ああ……殺されたの、ここじゃなかったんだ」
へえ?水瀬は感心したようにリュックからペットボトルを取り出し、口を付けた。
中身は既に空だ。顔をしかめた後、水瀬は飲み物を求めて慰霊碑の前を離れた。
時津百貨店
古ぼけてほとんど読めなくなった看板の下、店先に商品らしきモノが並ぶ商店は、水瀬が迷子になった時、目星を付けておいた村内唯一の店だ。
他には自販機すら置いていない。
「……」
自販機でペットボトルの水を買った水瀬は、キャップを開けながら、あたりを見回した。
―――見られている。
家々の窓の隙間から、いくつもの視線を感じる。
興味による視線ではない。
間違いなく、敵意にあふれた監視の視線だ。
―――でも、何故?
冷たい水ののどごしを味わいつつ、水瀬は内心で首を傾げた。
僕が警察だとでもいうなら、まだわからないでもない。
桜井さんが失そうした後だし……。
でも、それならそれで、どうして隠れて僕を見るの?
僕がよそ者だから?
よそ者なら、そろそろ誰が“出ていけ”とでも言ってくるはずなのに……。
水瀬は意を決して商店の閉まったままのドアを開こうとした。
普通のアルミサッシのドアはびくともしない。
「?」
中に人の気配はするのに、ガラスに貼り付けられた「営業中」の札が揺れる下、サッシの鍵がかかっていた。