第十三話 女の子の下心と男の子の事情
「災難だったね」
美奈子はそう言うと、そっと水瀬の前にコーヒーカップを出した。
「うん」
車のトランクに押し込められたと勘違いした理沙によってボコられた挙げ句、ようやく身の潔白を納得してもらったばかりだった。
顔には青あざや平手の後、ひっかき傷が走る。
「尋問と拷問の区別をつけて欲しいなぁ……理沙さんって」
「カンカンだったものね」
いいつつ、美奈子は水瀬の顔を見て噴き出した。
「笑い事じゃないよぉ」
恨み言を言う水瀬がコーヒーに口を付けた。
「……おいしい」
「よかった」
その一言に、美奈子は嬉しそうな顔になった。
「インスタントだけどね」
「おいしいよ?」
水瀬は小さく微笑む。
そんな些細なことが、美奈子にとっては何より嬉しい。
……ただ。
「1909年7月、ダーバンからケープタウンに向け航行中に、200名を超える乗員乗客と共に消息を絶った貨客船ワラタ号は、“オーストラリアのマリー・セレスト号”とも呼ばれ―――」
ガランとした家の中。
テレビの音だけがやたらと大きく感じられる。
家の中にいるのは、自分と男の子だけ。
普段なら狭いとさえ感じる家が、妙に広い。
世界中に、自分達だけしかいないんじゃないかと、錯覚してしまう。
のどが乾く。
心臓が妙にドキドキする。
普段、学校で一緒にいる時とは全く違う。
学校では服のことなんて、何も意識したことはないのに。
今は違う。
服じゃなくて、何故か下着のことが気になってしまう。
お風呂はどうしよう。
お風呂入ってもらって……それから……。
ふと、そんなことをとりとめもなく考えている自分に気づいて、慌てて首を左右に振って、考えを振り払おうとする。
「……どうしたの?」
「え?」
水瀬に首を傾げられ、美奈子は慌てて笑って誤魔化そうとした。
「な、何?何かヘンなの流れた?」
「……?」
水瀬は怪訝そうな顔になった。
「ずっと立ったままだし、すごく慌てている」
「や、やぁねぇ!」
美奈子は笑いながら言った。
「そ、そんなことないわよ!」
「ふぅん?」
水瀬はそれでも言った。
「テレビ、一緒に見よう?」
「う、うん」
テレビの前に置かれたソファーに座った水瀬が、ポンポンと軽くソファーを叩く。
美奈子は、まるで地雷の上に座ろうとしているように、恐る恐る水瀬の横に座ると、注意深く水瀬との距離をとろうとした。
「……あの」
水瀬は、困惑したように言った。
「僕、席、離れたほうがいい?」
「そ、そんなことないっ!」
美奈子は思わず出た大声に、自分で驚いた。
「い、いいのよ!?その場でデーンとしていて!」
「そ、そう?」
水瀬は何とか話題を作ろうと話しかけた。
「お弁当、おいしかったね」
「う、うん」
言われた美奈子は泣きたくなった。
男の子と二人きりの食事だ。
未亜あたりなら、手作りの料理がテーブルを飾っているはずだ。
それに引き替え、水瀬が来ると聞いた途端に、コンビニ弁当をホカ弁に格上げするだけしか発想出来なかった自分が悲しすぎる。
何度も料理を学ぼうと思っても、そう思うのは後悔するその時だけで、後になればどうでもよくなってしまう。
瀬戸綾乃は、アイドルとして忙しい中、いつも水瀬にお弁当を作ってくるし、水瀬はそれを楽しみにしている。
それをパンをかじりながら見ている自分が水瀬においしいと言ってもらえるのが、ホカ弁やインスタントコーヒーでは―――。
私は本当に、水瀬君に女の子として意識してもらえているんだろうか。
美奈子は、それが本気で不安になってきた。
ふと、水瀬の横顔を見る。
美奈子の横で、コーヒーを飲む水瀬は、料理番組に熱中している。
視界に美奈子が入っている様子はない。
はぁっ。
美奈子は小さくため息をつくと、左手の薬指を見た。
本当なら世界中で一番輝くべき銀色の輝きが、なんだか冷たく感じられてしまう。
あなたにとって、一番大切な人。
婚約指輪とは対。
由忠の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
水瀬君は、この指輪の由来を知っているの?
何度も、そんな言葉が脳裏を横切り、そして喉で消える。
その答えを知りたいような、知りたくないような。
複雑だった。
答えを知ることで、水瀬との関係が進展すればいい。
二人きりの、今の時間と世界は、そのためにあるようなものだから―――
だけど、
拒まれたら?
自分の勘違い……いや、自意識過剰だと、この場で思い知らされたら?
それが―――怖い。
このままでいい。
このまま、友達でいよう。
水瀬君に拒まれた後、私は友達でいられる自信はない。
なら……。
そう思いつつ、体は異性としての水瀬を意識しつづけている。
水瀬君は、今のこの状況をどう思っているんだろう。
私との関係をどう思っているんだろう。
それが気になる。
……そんなことが次々と頭に浮かんでは、消えていく。
結局、友達という微妙なラインでダンスを踊る美奈子の周りで、じれったいような、それでいて、心地よいような、不思議な時間がゆっくりと過ぎていくだけ。
つまり
いつも通りだ。
ピンポーン
不意に、チャイムが鳴ったのは、21時の時報が鳴った時だ。
思わず、ビクッとなった美奈子は、席を立った。
「こんな時間に?」
水瀬は時計を見て怪訝そうな顔になった。
「未亜ちゃんかな?」
「まさか」
美奈子は言った。
「あの子は結構、そういう所、モラルがあるのよ?」
「ふぅん?」
ピンポーン
ピンポーン
チャイムの音は続いている。
誰かが出るまで鳴らし続けるつもりだろう。
リビングから玄関に向かおうとした美奈子を止めたのは水瀬だ。
「―――まって」
「えっ?」
「僕、出るよ」
「で、でも」
「自分の立場、わかってね?」
「……あっ」
そう。
何故、水瀬がこの場にいるのか、それで思い出した。
自分の護衛。
それなのに、ここで不用心な振る舞いをすれば……。
「ご、ごめんなさい」
美奈子は神妙な顔で謝った。
「でも……いいの?」
チャイムは未だに続いている。
「うん。ただ、桜井さんは、ここにいて?」
「う……うん」
水瀬はチャイムが鳴り続ける玄関で、ドアの前に立った。
「……」
そっと、ドアノブにのばしかけた手を止める。
「……」
恐る恐るという顔でリビングから顔を伸ばして水瀬の背中を見守る美奈子の耳に、ドアノブが回された音がした。
―――その途端。
バンッ!
その瞬間。
美奈子には、何が起こったかわからなかった。
目の前が真っ白になった。
とっさに目をつむったはずなのに目に何も映らない。
誰かが自分を抱きかかえたのはわかるが、それが誰なのかがわからない。
ギィンッ!
ギンッ!
ズンッ!
ガシャァァァンッ!!
何かが連続して壊れる音がする。
「ち、ちょっと!?」
美奈子は見えない目のまま、慌てた様子で怒鳴った。
「い、今の、何の音!?」
「ごめんね?桜井さん」
すぐ近くで水瀬の声がした。
どうやら、抱きかかえているのは水瀬だと、それで美奈子は見当をつけた。
「窓ガラスとドア、後で弁償させるから」
「な、何?割れたの?」
「……割られた」
「―――それは言いがかりです」
きっぱりとした、それでいて優しげな女の声が美奈子の耳に入ったのは、その時だ。
まるでチョコレートケーキを連想させる、甘い声。
「ドア越しに魔法矢を撃ち込まれたのはそちらでしょう?」
「ちがっ!」
「なっ!?」
水瀬の慌てた声に、美奈子が血相を変えた。
美奈子の眼がようやく復活しつつある。
美奈子の眼に、ぼんやりと水瀬らしい人物の輪郭が映りだした。
「こちらのお家にご迷惑がかかってはと、私達はきちんとこちら窓に対しても、解除魔法で入ろうとしましたのに。そこにまで魔法矢を撃ち込まれたのは……」
クスクスと笑う声が後の声を消した。
「水瀬君っ!」
美奈子の手が水瀬の口を容赦なく引っ張った。
「私の家、何だと思ってるの!?」
「ご、ごめんなひゃいっ!」
「修理費、全額負担してもらうからね!?」
「は、はいっ!」
「―――さて」
痛む眼を酷使して、美奈子はようやく、その声の主を見ることが出来た。
金髪の眼鏡をかけた、自分達よりやや年上の女性。
白いスーツ越しに見事なボディラインがみてとれる。
優しげな眼が、美奈子に微笑んでいる。
その美しさに、思わずポカンと見とれてしまう。
「お話はまとまりましたか?」
「……あ、あの」
美奈子は、それが自分の家に侵入してきた相手であることを、ようやく思い出した。
水瀬に抱きかかえられたままの美奈子は、やっと答えた。
「……どうぞ」
「感謝いたします」
物腰優雅に会釈するだけで、これほど魅力的に見えるものかと、同じ女として嫉妬を越えた感情さえ抱く美奈子の前で、金髪の女性は言った。
びっくりするほど、一言一句がはっきりと聞き取れる声だ。
「―――では、同道をお願いいたします。桜井様」
「……えっ?」
狙いは、自分だと美奈子は知った。
「先日の贈り物は、お気に召していただきましたか?」
「あ、あなた!」
驚く美奈子に、女は微笑んで言った。
「桜井……えっと」
「桜井……美奈子、です」
美奈子は、思わず答えてしまった。
「……ああ」
女は、美奈子が見とれるほど慈しみにあふれた眼を微笑ませた。
「感謝いたします。桜井……美奈子様」
「……同道って、どこへ?」
「あなたは別です」
水瀬の声に、女はきっぱりと言った。
「我が主より、同道を命じられているのは、桜井美奈子様ただお一人」
「一緒に僕も行きたいな」
「……妨げるものあれば」
不意に、女の声に冷たさが走る。
怒っているのは間違いない。
この緊迫した中、不謹慎だと思いつつ、美奈子は、
―――美人が怒ると怖いなぁ。
そう思った。
「殺せと―――そう命じられています」
「じゃあ、その主さんの所へは、僕は僕で行くことにするよ」
水瀬は言った。
「名前と住所、教えて欲しいな」
「……はぁ」
何故か、女はため息をつくと、優しい口調ながら、有無を言わさぬ強い声で言った。
「お・こ・と・わ・り・し・ま・す」
「交渉は決裂……かな?」
水瀬はむしろ楽しげに言った。
「この前言った通り、僕は女の子と戦わない主義なの」
「……」
それまで微笑んでいた女の顔から感情が消えた。
「女の子とは戦わない?」
その声には明らかな侮蔑が含まれていた。
「よくもそんなことを、私達の前で言えますね……」
「だから」
水瀬は言った。
「僕、君達と出会ったことないんだけど」
「……なら」
女は小さく、まるで自虐的なまでの笑みを浮かべ、言った。
「思い出して差し上げましょう」
「思い出す?」
「ええ」
女は微笑みながら頷いた。
「ただし、お願いがあります」
「……」
警戒する美奈子と水瀬の前で、女は言った。
「美奈子様」
「わ、私ですか?」
突然、声をかけられた美奈子は、思わず自分を指さした。
「はい」
女は微笑んで頷くと、美奈子に意外な事を言った。
「少し―――眼をつむっていて下さい……耳も塞いでいてくださるとありがたいのですが」
「は、はい」
美奈子は目をつむり、耳を塞ぎかけ、自分の体勢にようやく気づいた。
「水瀬君」
「何?」
「降ろして」
「はい」
言われた水瀬は、抱きかかえていた手をそのまま離したものだから―――
「お待たせしました」
数分後。
右手の甲をさすりながら、鼻を赤くした美奈子が言った。
その真横では、水瀬が壁にめり込んでいた。
「目をつむっていますから、どうぞご自由に」
「……拳が顔にめり込んだの、初めて見ました」
女のあきれ顔を後目に、美奈子は目をつむり、耳を塞いだ。
その仕草にクスリと小さく笑った女は、つぶやくように言った。
「そういう律儀な性格の方は、嫌いではありません」
そして、その視線を、ようやく壁から剥がれて床に落ちた水瀬に向けた。
「―――水瀬様?」
「痛たたっ……はい?」
美奈子の必殺技“めりこみパンチ”をモロに喰らった水瀬は、顔を押さえながらつぶやく。
「いつも、何で避けられないんだろう……」
「よろしいですか?」
「あ……戻った。どうぞ?」
「これを見ても―――」
シュルッ……フワッ……。
衣擦れの音がして、女の体から脱がされた衣服が床に落ちた。
女が、自ら衣服を脱いだのだ。
白い陶器のような艶めかしい、一糸まとわぬ肌が、水瀬の前にさらけ出される。
形のいい双丘。
絶妙にくびれた腰。
茂みに見え隠れする女の証。
突然の出来事に、水瀬の視線は、女の肌に釘付けだ。
「思い出していただけませんか?」
女がゆっくりと水瀬に近づく。
「あ……あの……」
水瀬は目を見張って女を見続ける。
ゴクリ
水瀬の飲み込んだ生唾の音が妙に高く響く。
「―――この体は」
何故か、一瞬だけ泣きそうな顔をした女が、自らを抱きしめるような仕草をする。
その細い両腕の中で、豊かな双丘が、男を狂わせんばかりに歪む。
「あなただけに抱かれた……あなただけのものなのに……」
「だ、だから」
自分が誘われていることはわかる。
だが、女の言っている言葉の意味がわからない。
女は、自分と肉体関係があったと。そう言っているのだ。
「僕は祷子さん以外の女の人は―――えっと」
水瀬はどもりながら言った。
「ナターシャさん位しか……えっと」
「まぁ……」
女の手が、そっと水瀬に伸びる。
「私達は……女の数に入らないのですか?」
「っ!」
水瀬の喉が、自分でもびっくりした程素っ頓狂な声を上げた。
女の手が伸びた先。
そこは、水瀬の男性として最も弱い部分だったのだ。
そこをはい回る女の手。
それは、水瀬にとっては久しぶりに快楽であり、快楽に慣れていない水瀬という男の子には刺激が強すぎた。
水瀬は、自分の体が、その手に正直に反応したことを、嫌が上にも悟った。
「……まぁ正直ですこと♪」
水瀬の男性としての反応を楽しむように、女の手が艶めかしい動きを見せる。
「ご立派ですね……これが……」
時に強く、時にいとおしむように動くその動きに、水瀬はもう動けなかった。
―――祷子さんだけ祷子さんだけ。
水瀬は何かを呪文のようにつぶやくだけだ。
ただ、それが決壊前の堤防に過ぎないことを、水瀬自身がもう悟っていた。
「私の……純血を……」
「あ……あの……」
半分泣きそうなまでの水瀬の声に、女は楽しげに答えた。
「これは罰です」
不意に、女の手が水瀬から離れた。
「私は、あなたに復讐します」
「へっ?―――んっ!?」
水瀬は、不意に自分の唇がふさがれたことに驚いた。
女の顔が、びっくりするくらい、近い。
女に抱きしめられ、その体の柔らかさと、言いようのない香しい香りが、水瀬の男性としての本能を狂わせようとしていた。
―――祷子さん。ごめんなさい!
水瀬は心の中で叫んだ。
―――ちょっとだけ!
―――ちょっとだけ!
水瀬の腕がそっと女を抱きしめようと動く。
だが、女はその手から逃れるように、水瀬から離れた。
「え?」
「……今晩は、ここまでです」
いつの間にか床に落ちていた衣服を手にした女は、晴れやかに微笑んだ。
「お仕事がありますので」
「……へ?」
お仕事。
その言葉に、我に返った水瀬は、とっさに美奈子を見た。
水瀬の目の前で、いつの間にか、女と同じスーツを着た別な勝ち気そうな黒髪の女が、まるで汚物を見るような眼で水瀬を睨んでいる。
その腕の中に、ぐったりとした美奈子がいた。
「しまっ!」
水瀬が腰の霊刃に手を伸ばした時には遅すぎた。
フンッ。
勝ち誇った様な視線を残し、美奈子を抱きかかえた女が水瀬の目の前から、かき消すように消えた。
瞬間異動だ。
「私達は、今回の契約が履行される限り、この国にいます」
女の声に、水瀬は目を見開いた。
「ま、待って!」
「―――ではいずれ」
優雅な仕草で挨拶する女の姿が、水瀬の前から消えようとしていた。
「こ、こんなの困るっ!」
女は答えることなく、その姿を消した。
後には、ガラスや家具が散乱する部屋と、風に揺れるカーテンだけが残された。
「ぼ……僕」
テレビの音だけがむなしく響く部屋で、水瀬は悔しそうに、困ったように言った。
「……僕」
その視線は現実を見ていない。
水瀬が見ていたのは、脳裏に焼き付けられた、あの女のみせた胸であり、下半身の茂みであり、そこから連想した、女との、それこそ「小説家になろう」の通常版では表現出来ないレベルの激しい妄想だった。
「ぼ……僕……」
はぁ……はぁ……。
水瀬は、荒い息のまま、消えた女に救いを求めるように言った。
「ばっきんばっきんなんですけど……」
その姿勢は、無様なほど前屈みだった。