第十一話 「過去の悪夢」
●事件発生より遡ること約百年前 東京日本橋 美術の白蛾堂
「ご存じでない方がいらっしゃるとは存じませんでしたので」
ある夏の夜。
化物絵ばかり百点以上を集めた展覧会にあわせ、店の主が呼びかけた百物語の会の席上、飛び入りで壇上に登った小柄な老人がはげ上がって広い額を手ぬぐいでぬぐった。
盆提灯の弱い灯りが、歪に、しかも薄く映し出すのは、壇と向き合う聴衆達。
見る人が見れば、その中には名だたる文士や著名人が多数混ざっていることがすぐわかる。
皆、そういう人々の口から語られる怪談話を目当てで来ている。
飛び入り、しかも老人の話に興味はない。
それを承知の上で、老人は語り続ける。
「そうですね。そうかも知れません。河内時雨なんてご存じないですよね。失礼いたしました。何しろ、関係者だと、自分のご先祖様が絡む人物は皆、世に知られていると思いこむものでして……」
皆、そんな老人の声を聞くともなしに弁当を口に運ぶ。
壇上の声より、蓮飯に芋幹という亡者向けの弁当の献立の方にこそ興味があるようだ。
「河内時雨は、名前の通り女性で、幕末を生きた人物です。
熱烈な勤王家でして、幼少の明治大帝の乳母を任じられたこともあります。
かなりの美人としても知られていたそうです。
それで……
……それで、ですね?
ううむ。
……いや。
語るというものは難しいですな。勢いでここまで登ったものですが、今になっては後悔さえしています。
さて……どこから話したものか……。
……
ああ、池田屋事件や寺田屋事件はみなさんご存じでしょう?
それと同じような事件が、やはり京の都であったのです。
紅屋事件……知らないですよね。
知っていたら、それこそ歴史通も歴史通だ。
……ははっ。申し訳ないですな。
紅屋事件とは、朝廷に対するクーデター未遂事件です。
その頃、河内時雨は、勤王の念強く、それ故に宮中を辞し、志士達の中へと身を投じていました」
一体、怪談なのか歴史の講釈なのか全くわからないような話が続く。
短くまとめると、河内時雨とは、美貌と知識で知られた元女官上がりの勤王家で、京都に集まる志士達の間では、知る人ぞ知る人とまで呼ばれるようになった人物だ。
美貌と知識、そして残忍さで。
その思想は苛烈で、敵対者は容赦しない。必ず残忍な方法で、しかも周囲への見せしめ同然のそれは非道い方法で殺す。
志士だろうが誰だろうが、彼女の意志にそぐわない者は、全て殺される。
それ故に周囲に次第に疎まれるようになった。
後に明治新政府を率いる者達が台頭する中、志士の間で急速に立場を失いつつあった彼女は、一部急進派の志士と共に、宮中に忍び込んで帝を誘拐、倒幕の軍を挙げようと企てたが、身内の裏切りにより、企てはすぐに露見した。
彼女の仕打ちを恨み、あるいは恐れた者達により、いわば売られたのだ。
そんなことは露ほども知らないまま、彼女は常宿にしていた紅屋で新撰組により拘束され、江戸へと送られることになった。
老人の話は、ここから段々とおかしくなってくる。
それまでの、岩から染み出すような淡々とした口調はなりを潜め、ポツリポツリとした口調になっただけではない。
恐ろしく話が下手になったどころではなく、話にさえなっていない。
まるで言葉が一々喉に詰まるような、そんな様子で喋る。
皮肉なもので、話の順序も何もかもすべてを無視する格好が、逆に聴衆の興味を引いた。
老人の断片的な話を続ける。
河内時雨を江戸まで運ぶ任に就いたのは、京都にて金で雇われた浪士達。
彼女は彼らによって街道から外れた場所に監禁された挙げ句、女としての生き地獄を味わうことになった。
拷問に等しい男達の嬲りの繰り返し。
最後には、酒に酔った浪士達が嬲り者として切り刻まれて殺された。
高尾太夫の吊し斬りの方がまだ可愛げがあるほどの陰湿な方法により殺された河内時雨の亡骸の有様は、翌日、酔いの醒めた浪士達でさえ震え上がったほど。
その死体はそのまま米俵に押し込められ、近くの洞窟へと放り捨てられたという。
表面上は、逃走を企てたため、やむを得ず殺害したとして。
この話が怪談なのは、これから先。
―――この事件の後、浪士達は次々に奇怪な死に方をした。
河内時雨の怨霊のなせる技だと、話を知った人々は恐れを抱いた。
これだ。
……
……よくある古いタイプの怪談。
そういえばその程度の価値があるかどうかの程度。
何しろ話し方が支離滅裂すれすれである。思い出したことをただ口にしているようにしか思えない。
ただ、不思議とそれが真実味を産み出しているとでもいうのか、聞く者の心を掴むのも皮肉なことに事実だ。
それ故か、最初こそ問題にしなかった聴衆達も、知らず知らずに聞き耳を立てずにはいられなかった。
老人の口からポツリポツリと語られる河内時雨の怨念のみがなせる技としか言い様のない浪士達の死に様。
聴衆達は、いつの間にか弁当にのばした手を止めている。
そして―――
この話が、本当の怪談話であることを、聴衆達は目の当たりにすることになる。
「……こうして浪士最後の一人が亡くなりました。この時、河内時雨は」
浪士達の死を一通り語りきった老人がしきりに額の汗をぬぐう。
「この時……河内時雨は」
汗を拭く手ぬぐいが老人の手から落ちた。
「この……時……かわ……れ……は」
弾に立った老人の足が、まるで崩れ落ちるように老人は壇上に倒れた。
「もしもし?」
驚いて壇上に登ったのは司会担当者。
彼に語りきった揺すられた老人はハッとして起きあがると、再び語り出した。
「この時、河内時雨は」
老人が語り出したのは、既に語った場面―――つまり、河内時雨が自らの死を悟り、常人には計り知ることさえ出来ない怨嗟を込め、口を開く所だ。
そこはもう聞いた。そうは言いたいのだが、老人の様子を前に、聴衆からは野次さえ出ない。
不気味、不可思議、異常―――
虚ろにして血走ったような老人を表現する言葉を聴衆は既に失っていた。
「この時……河内時雨は……このと……かわ……れは」
老人の顔が蒼白になり、まるで壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す。
さすがに聴衆達からもざわつきが起きる。
わざと同じ言葉を繰り返して我々を担いでいるのか?
それにしては、あの老人の様子は一体?
「かわ……は」
「もしもし?」
聴衆が騒ぎ出す以上、司会としても放ってはおけない。
壇上に上がると、司会は老人の肩を揺すった。
「それからどうしたんです?河内時雨はどうなったのです?」
返事がない。
司会はもう一度、怒鳴るように注意する。
「ちょっと、あなたね―――えっ!?」
老人は、演壇にしがみつくようにして絶命していた。
老人の死は、当時の新聞によって世間の話題に登ったのは言うまでもない。
そしていつしか、誰が言い出したのか、世間には暗黙のルールのようなものができあがった。
曰く―――
河内時雨の話は呪われていると―――