獣狩り 十 ~ 呪われた杯
「先程の予言は、予言ではなかったのではないか」
バルトリーニ氏と別れて宿に戻ると、先生は静かに言った。先生は自分の鞄から古びたタロットを取り出した。グラウバー女史が使ったカードと同じ絵柄が揃っているセットのようだ。
「実はただの勘だったとか、ですか?」
「もしかすると、そうかも知れん」
「いや、カードは二十二枚あったんですよ。勘だけで二回も連続で選ばれたカードを当てるなんて芸当はありえないでしょう」
僕の言葉に先生は頷きながらタロットを床に広げていく。二十二枚のカードにはそれぞれ暗示めいた絵柄が描かれている。かなり使い込まれているようで、絵柄はあちこちが掠れていたが、先生は意に介していないようだ。お気に入りの品なのかも知れない。
「だからこそ、カードの扱いを工夫したのだろう」
「どういう意味?」
卯月も前に乗り出した。僕たちの見ている前で、先生は奇術師のようにタロットを素早く一つに束ねた。
「ベリャーエフがカードの束を手渡し、そして混ぜ合わせていた。カードに触れていたのは彼女と、カードを選んだ者だけだ」
先生はベリャーエフがやったように、カードを二つの束に分けて混ぜ合わせた。そして、卯月に束を差し出した。
「とりあえず一枚、引き給え。私には見えないように」
卯月が引いたカードは『恋人』のカードだった。卯月が一目見てカードを覚えると、カードは先生が差し出した束に戻された。
「さて、再びカードを混ぜる」
先生はカードを混ぜ終えると、カードを表向きにした。
「よく見給え」
「これは!」
変化は明らかだった。二十二枚のカードの中で、唯一『恋人』のカードだけ絵柄が逆転している。どうして選ばれたカードだけが逆転したのだろうか。
「実に単純な話だ。選ばれたカードを束に戻す時に、そのカードだけが反転するように戻せばいい。後はただカードを確認するだけで、選ばれたカードを当てることができる」
分かってしまうとあまりにも簡単な仕組みだった。カードを戻す際に束を逆さまにしていただけなんて。まんまと騙された自分が哀れに思えるほどだ。やはりベリャーエフの双子とグラウバー女史は示し合わせて、このようなトリックを仕組んでいたに違いない。
「こんなの単なるイカサマじゃないですか」
僕が憤慨すると、先生は意味深な含み笑いを浮かべた。
「そうだとも。連中はイカサマ師だ。予言など嘘に過ぎん。勿体ぶった集会など開いているが、いずれ化けの皮を剥がしてやれるだろう」
先生の自信に満ちた言葉に勇気づけられ、僕と卯月は大きく頷いた。
その後、夜の集会を待つまでの間に、ローランの村に住む二人の女性が僕たちを訪ねてきた。長い金髪を結った浮かない顔の女性と、灰色の髪の大人しそうな女性。どこかで見た顔だと思ったら、集会に出席した人々の中に二人がいたことを僕は思い出した。
「あの、私たち、ダニエラから獣の呪いを受けたと言われたんです」
先生が姿を現すと、そのあどけない顔とバリトンの声の落差に驚きながら、灰色の髪の女性が怖ず怖ずと言った。
「この村で頼れるのは皆さんしかいません。獣を探して、呪いを止めてください」
金髪の女性も切羽詰まった様子で話し始める。先生は二人に水出しした茶を出しながら、落ち着いて話すように促した。
「お二人の名前は?」
「アリアンナです」
金髪の女性が名乗ると、灰色の髪の女性は「アデラインです」と続いて名乗った。
「以前、アデーラと私たち二人は、ダニエラ・グラウバーに獣の呪いを受けたと宣告されたんです。それから本当に、アデーラはあんなことに……」
アリアンナは伏し目がちになって口籠った。
「グラウバーに脅されているということですか?」
「分かりません。彼女から何かしてくることは今までありませんでした。ただ、いきなり彼女に呪われているだなんて言われて、不安で不安で仕方ないんです」
「あの、このままだと私たちも獣に殺されるかも知れません。皆さんにどうにか助けて欲しいんです。お願いします」
アデラインの懇願を聞きながら、先生は懐から香水の小瓶を取り出すと、小瓶を掌の中で弄んだ。
「あの、真面目に聞いてますか……?」
「聞いていますよ。ですが、私たちよりもバルトリーニ氏に頼んだほうがよろしいでしょう」
「彼は頼りになりません。昨晩と合わせて四回も獣が出ているのに、殆ど手がかりを掴めていないんですもの」
二人の先生は首を傾げながら僕のほうを見た。どうやら意見を求められているような気がする。まずは状況を整理しなくては。
「つまり、これまでに獣によって四人が殺されているということですか?」
「いいえ。最初に現れた時、獣はシャンティ族の村人を襲ったんです。その人は手当てもあって助かりましたが、あっという間にシャンティ族の間で噂が広まっていって、ローランの村でも噂が広まりました。獣の噂を聞きつけて、エドガール・バルトリーニが近隣の村からローランの村に来たのはその頃です」
「あの、噂なんて村の人は誰も信じていませんでした。ですが、その後、ダニエラの父が殺されたんです……バルトリーニさんがバラバラになった屍体を発見しました……」
「グラウバー女史はどうですか? 集会はいつから始まりましたか?」
「父のヨハネス・グラウバーが殺された後、ダニエラは予言めいたことを始めました。彼女の父に仕えていた下男が獣に殺されると予言して、実際にその通りになったんです」
僕の質問に対して、これまでの経緯を話すと、二人は肩を落として俯いた。獣は四回の出現のうち、三回にわたって人を殺している。それを聞けば誰だって単なる噂ではなく、危険な獣がいると判断するだろう。
「どうかご安心を」
先生は穏やかに深いバリトンで二人に声をかけた。先生は香水の小瓶を二人に差し出して、獣除けの香だからと言って二人に香水を付けるように指示した。二人が香水を付けると、濃厚な薔薇の香りが広がった。
「お二人は獣を見ましたか? 他に獣を見た人がいるなら、それが誰か教えてください」
「あの、えっと、ごめんなさい……。噂ばかりで、私たちは獣を見たこと無いんです。それに、どれだけの人が獣を見ているかは分かりません。シャンティ族はどんな獣がいるか頻りに話していますが、多分、部族の間で伝わっている話だと思います」
「獣は一匹だけですか? 何匹もいるとか?」
「あの、ごめんなさい。それも分かりません。何しろ誰が見たのかも分からないので……」
「皆、口を揃えて『湖の獣』は大きくて黒くて牙と爪を持っていると言ってるんですから、他にどんな獣がいるって言うんですか?」
先生の質問をまどろっこしく感じたのか、アリアンナが逆に先生に問い返した。そこには自分たちの身の危険を案じる悲痛な響きがあった。
「どうやら獣の情報は一貫しているようです。こういう噂は話に差異が出てきて、色々な情報が混じり合うものなのですが」
先生が話を続けようとしているところで、宿の主人がいきなり部屋に入ってきた。主人はベリャーエフの双子が迎えに来たとだけ言って、すぐに帰っていった。
「集会に参加しましょう」
先生が話を打ち切ると、僕たちは集会に行く支度を始めた。先生たちが出発の準備を整えて部屋を後にすると、アリアンナと僕だけが部屋に残された。
「カミルさん」
アリアンナは声を潜めて僕に耳打ちした。
「昨晩の捜索で、ベリャーエフは獣を除けて密林を歩いていました。きっと誰にも明かしていない秘密があるはずです。彼女たちの獣除けの方法を調べてください」
***
集会には僕たちの他にバルトリーニ氏も参加していた。しかし、アデーラの死で恐れをなしたのか、参加者は大幅に減っていた。グラウバー女史が二度も村人の死を予言したとなれば、その集会自体を恐怖する人が増えるのも必然だった。
「今夜も獣は呪われた者を襲うでしょう」
開口一番、グラウバー女史の言葉に、集まった村人たちに動揺が広がるのが分かった。今夜の集会でも、グラウバー女史の調子は昼間とは打って変わって、まるで占星術師のように振る舞っている。しかし、タロットの予言が詐術だった。僕たちの不信に満ちた眼差しに気付いたのか、グラウバー女史は妖しげな笑みを浮かべた。
「誰が襲われるのかは、この杯が示してくれます」
グラウバー女史は用意したガラスの杯を全員に配るように、ベリャーエフの双子に指示した。僕たちの下にも無色透明な液体が半分ほど入った杯が配られる。杯が手渡されると、卯月はすぐに杯に指を入れて慎重に舐めた。
「ただの水だと思う」
予想外の行動に僕は驚いたが、卯月はまるで動じること無く、グラウバー女史の次の動きを待っている。
「これから皆さんの杯に、この聖水を足していきます。皆さんには主の加護があるはずです。……今夜、狩られる者以外は」
グラウバー女史が付け加えると、アリアンナとアデラインの二人が小さく震えるのが見えた。ただの水に聖水を加えたところで変化があるとは思えない。グラウバー女史は水盤から水差しに移した聖水を、順番に杯へと注いでいく。僕の杯にも聖水が加えられた。しかし、聖水が加わっても杯に変化は無かった。他の者たちの杯にも何かが起こった様子は無い。
グラウバー女史は最後にアリアンナの杯に聖水を注いだ。すると、杯の水は忽ち黄色く変色した。アリアンナの悲鳴が小屋の中に響いた。同時に、小屋の外から獣の遠吠えが聞こえてきた。先生やバルトリーニ氏が声を掛ける前に、恐慌状態になったアリアンナは杯を放り出して小屋から逃げ出してしまった。杯は床に落ちて粉々に割れ、明らかに水とは異なる鼻をつく嫌な匂いが広がった。
「待った!」
アリアンナに続いて村人たちが立ち上がると、先生は大声で彼らを止めた。
「小屋から出ないで、私の言うことに従ってください」
「どうしたのかしら、ワーズワースさん」
「杯に聖水を加えたくらいでは、獣から逃れることはできないということです」
先生は立ち上がった村人たちを再び筵に座らせていった。
「ここでは獣除けの香が焚かれている。全員、この小屋にいたほうが安全だ。誰もここから出るべきではない。グラウバー殿も、ベリャーエフのお二人も」
「し、しかし……」
先生の指示に対して、バルトリーニ氏は同意しかねるようで目を泳がせていた。先生は明らかにグラウバー女史とベリャーエフの双子を疑っている。昼間はまんまとトリックに引っかかったが、今回は彼らの思い通りにはいかせない。アリアンナは逃げ出してしまったが、この小屋に閉じこもっていれば、本当に獣でもいない限り、グラウバー女史たちがアリアンナを手に掛けるような真似はできない。
「よろしいでしょう。ワーズワースさんは私を疑っているご様子。朝までここにいることにしましょう」
「それでは私たちも」
「ワーズワース様に従います」
グラウバー女史もベリャーエフの双子も、慌てることもなく落ち着き払っていた。その自信に満ちた態度が逆に不気味だった。
「私だけでも外に出させてくれないか? 今度こそチャンスなんだ」
他の村人たちをよそに、バルトリーニ氏だけは先生に縋りついて頼み込んでいる。先生は少し逡巡したものの、根負けしたかのようにゆっくりと首を縦に振った。
「そこまで言うのなら、仕方ありませんね。しかし、もし獣がまた人を襲って、取り逃がしたことになったというのなら、今度こそ運がなかったということです」
これで何かが起これば、恐らくバルトリーニ氏にも先生は疑いをかけるつもりなのだろう。バルトリーニ氏は先生の言葉の裏にある真意にも気付かなかったようで、何度か礼を述べると猟銃を手に取った。バルトリーニ氏のためにベリャーエフの双子が小屋の扉を開くと、熱帯の生温い空気が小屋の中を巡った。




