獣狩り 八 ~ 密林の奥
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「皆さん、どうかお静かに。獣を追ってはなりません。神の導きに従うのです」
グラウバー女史の厳かな声色が小屋の中に満ちた。その姿はさながら聖職者のように映って見える。それまで小声でひそひそと不安気に喋っていた人々も、グラウバー女史の言葉に合わせて沈黙した。だが、先生は狼狽えている人々を掻き分けて小屋の出入り口へと歩み始めた。その後を僕と卯月、そしてバルトリーニ氏もついていく。
「この世で最も悍ましいものを見ることになりますよ。それでも構わないのですね?」
僕たちの背にグラウバー女史の声が突き刺さった。
「もし手遅れになって結果的に悍ましきを見たとして、それが果たして呪いによるものなのか、確かめたい」
笑顔を浮かべて振り返った先生に対して、バルトリーニ氏は眉をひそめた。
「そうでしょう? バルトリーニ殿」
「私は……獣の正体を突き止めるのが仕事だ。獣を見つけなければ」
獣という単語に、人々が恐怖に引きつった表情を浮かべた。誰もが僕たちから目を逸し、僕たちについてくる気のある者は誰一人いないようだった。
「そういうわけで、我々は参ります」
先生はほんの少しの間だけ三角帽を取ってグラウバー女史を見た。先生を見返すグラウバー女史の目は据わっていて、先生の軽い態度への敵意にも似た感情が垣間見えた。それは村の人々を物理的にも精神的にも支配している、稀代の錬金術師としてのプライドによるものなのかも知れない。
先生がグラウバー女史からの視線を受け止めて出入り口へと向かうと、その前にベリャーエフの双子が立ちはだかった。
「獣探しというのならば」
「私達もお供いたしましょう」
「きっと獣は湖にいますから」
「そこまでご案内いたします」
双子はこれまでと同じく親切丁寧な物腰で述べた。湖までの道に獣がいるのかどうかは定かではないが、村の周辺の地理を知っているのはバルトリーニ氏しかいない。少しでも地理に詳しい者がいてくれるほうが探索は容易になるだろう。
「危険があるかも知れないが、人手は多いにも越したことは無いな。不慣れな道のりでもあるし……」
マイラとレイラは先生の言葉を最後まで聞かずに、すぐに小屋の外へと出ていった。僕たちは慌てて彼女たちの背を追った。双子は懐から角灯を取り出すと、密林の闇に入り込んでいった。その小さな明かりが消える前に、先生は小屋の外に立っていた村人から猟銃と松明をもぎ取り、双子の跡についていった。
「愛想が良いが、せっかちな連中だな」
「昼間はこんな調子ではなかったんですが」
「では気まぐれも追加しておこう」
僕たちは松明を持つ先生を中心に双子の後ろを歩いていく。双子は昼と同じように密林を突っ切って湖まで行くつもりらしい。
「さて……今まで聞きそびれていましたが、獣の姿を見た人はこれまでにいるのですか?」
先生がバルトリーニ氏に尋ねた。
「目撃した者によれば雄鹿くらいの大きさで……比較的俊敏な獣のようだ」
「大きさ以外に特徴は?」
「神出鬼没で人を襲う。闇夜で目が緑に光ったという話もある。確証はないが、狩人の目には映らないとまで言われている」
そんな生き物が実在するのだろうか。やはり獣はシャンティ族が信仰するように、神獣の如き存在と言えるのかも知れない。
「まるで人間の天敵というわけですか」
「……まぁ、一言で言えばそうだ」
先生のぞんざいな結論に、バルトリーニ氏は猟銃を握り締めながら答えた。そのように危険な獣がいるとすれば、誰も捜索に付いてこないのも頷ける。次々に人が襲われ、殺されているとなれば尚更だろう。しかし、恐れ知らずの先生や獣を調査しているバルトリーニ氏は別として、ベリャーエフの双子が危険も顧みずに僕たちに協力してくれるのは何故だろうか。
「ベリャーエフの二人はこれまでも調査に協力しているんですか?」
「いや。ワーズワース殿たちがいるからか、妙に親切というか……」
僕が視線を向けるとバルトリーニ氏は口籠った。急に協力を申し出た双子の態度に心当たりがなく、バルトリーニ氏は戸惑いを隠せないようだ。双子が協力してくれる理由としては昼間と同じく、先生の持つ鉱脈を司る者たちの加護とやらが関係しているように思えた。しかし、その加護が持つ意味は依然として不明のままだ。
「まぁ、今は捜索に集中しよう」
先生はそう言って前方に松明を向けたが、その先に双子の姿は既に無かった。密林のど真ん中で僕たちは取り残されてしまったらしい。
「……二人はどちらに行った?」
「わからん。ローランからボシュムトイ湖までの道は何通りかあるんだが……」
先生とバルトリーニ氏は渋い表情でお互いに顔を見合わせた。
「とりあえず、湖まで最短の道に出よう。湖まで行けば合流できるはずだ」
バルトリーニ氏は夜空を見上げて星の位置から方角を割り出すと、ゆっくりと密林を歩み始めた。昼間とは違って夜の密林は視界も悪く、より一層息苦しく感じられる。そこら中に生い茂った蔦や蔓が手足に絡みつく感触で、僕は何度も虚しい恐怖に取り憑かれた。先導するバルトリーニ氏は猟銃を構えて闇の中へと進んでいくが、その足取りは重々しく、双子の案内とは比べ物にならないほど遅かった。
いつどこから獣が飛び出してくるか分からない茂みを掻き分けながら、僕たちは身を寄せ合って歩いた。暑苦しいが、どこに危険が潜んでいるか分からないという不安が勝っていた。四半刻ほど歩いただろうか。前方の茂みががさがさと揺れ動くのが見えた。前を進むバルトリーニ氏が息を飲む音が聞こえた。先生が松明を卯月に渡して猟銃を構える。
先生とバルトリーニ氏はお互いに目配せすると、無言のままじりじりと茂みへと近寄っていった。僕はただ緊張で硬直したまま二人の背中を見ているしかなかった。その時、茂みからぼんやりとした光が発せられた。
「誰だ?」
先生が茂みの中に向けて声をかけた。茂みが二つに分かれて、ベリャーエフの片割れが角灯の光を伴って現れた。その姿を見て、その場にいた全員が安堵の吐息を漏らした。
「驚かせないでくれ……全く」
バルトリーニ氏が忌々しげにベリャーエフの片割れに言った。
「申し訳ございません。何しろ、急いでいたものでしたから。最悪の事態が起きる前に獣を探したい、そうですよね?」
「確かにそうだが、急ぎすぎだろう。もう一人の……誰だったか、どこに行った?」
マイラとレイラは外見からでは区別がつかなかった。しかし、今は一人しかいない。
「レイラは先に行ってしまったようです」
「一人では危険なのでは?」
「そうですね。もしよろしければ、レイラも探していただけませんか? きっと、湖までの道のどこかにまだいるはずですから」
「……いくら双子でも相方の考えまでは読めない、か」
先生は空を見上げながら、溜息混じりに言った。案内役のはずが急にいなくなるとは。湖までの道は複数あるとバルトリーニ氏は言っていた。レイラがどの道を使っているのかはマイラにも分からないようだった。仕方なく、僕たちは道の分かる人に従って二手に分かれて湖まで行くことになった。一組はバルトリーニ氏と僕、もう一組はマイラと先生と卯月。
「それでは湖で落ち合おう。何か異変があったら狼煙でもあげてくれ」
「異変というのは……」
「何でも、だ。獣に限らず。よろしく頼んだぞ」
マイラと先生は頼りない角灯の光とともに密林の闇へと溶けていった。僕たちは松明を手に、湖へと通じる道を目指した。
「さっき集会の最後に言っていたことだが」
先頭を行くバルトリーニ氏が前を向いたままぼそりと言った。
「ワーズワース殿は獣の呪いを信じていないのか?」
「獣はいるかも知れないですが、獣の呪いと呼ばれるものが果たして本当なのか、分からないということではないでしょうか」
「獣の呪いではなく、何か別の……誰かの仕業とでも?」
結論から言えば、先生はそもそも獣の呪いというものを信じていないのだろう。その姿勢にバルトリーニ氏は良い印象を持っていないのかも知れない。
「先生でも、まだはっきりとしたことは言えない段階だと思います」
「私は獣が存在すると考えている。そうでなければ……説明しようがないんだ」
バルトリーニ氏の言葉には一種の畏敬の念のようなものが感じられた。それは獣に対するもののように思える。これまで調査を行ってきた博物学者であるバルトリーニ氏に、それだけの考えを抱かせる何かが『湖の獣』にはあるということだろうか。
汗まみれになりながら密林を歩いていくうち、再び茂みから小さな光が漏れているのが見えてきた。
「レイラさん?」
僕は茂みに向かって名前を呼んだ。草の擦れ合う音がして、茂みからレイラ・ベリャーエフが姿を現した。
「探しましたよ。無事で良かった」
「……」
「どうかされましたか?」
レイラの声は聞こえなかった。唇が小さく動いているのは見えるが、その囁きの内容は定かではない。一体どうしたのか聞こうと思った時、微かに血の匂いが漂っていることに僕は気付いた。僕は急に肌は粟立つような感覚に襲われた。バルトリーニ氏も血の匂いに気付いたらしく、周囲を気にし始めた。
「この先に……」
レイラが小声で囁き、密林の奥を指差した。僕とバルトリーニ氏はレイラの指示した方向に向かった。悪寒が背中を這い上がり、暑さから来る汗が冷や汗に変わりつつあった。茂みを抜ける時、何かが僕の肌を濡らした。松明の明かりで確認すると、僕の腕には赤斑が付着していた。間違いなく血だった。茂みの先にある大きな樹木を照らした時、僕たちは悲鳴に近い声を上げた。
今まさにここで惨劇が起こったことを意味するように、乾いているはずの樹皮は大量の血で濡れていた。バルトリーニ氏は慎重に樹木に近づいて血痕を確認した。巻き尺を取り出し、樹皮の表面を測っていく。
「二十センチほどの傷が四本ある……。きっと爪痕だ。恐らく獣の仕業だろう」
絶望的な思考が頭を巡った。血の匂いは濃く、吐き気すら催しそうになってくる。バルトリーニ氏が樹木の反対側へと回った時、その考えは現実であったことが明らかになった。
「おい!」
バルトリーニ氏が低く叫んだ。僕が樹木の下を覗き込むと、そこには腕、足、胴体――解体された人間の身体と黒い修道女の服が無残に転がっていた。




