獣狩り 一 ~ 青褪めた月
帝都から大洋を渡って四千キロメートルの遠方。暗黒大陸には黄金海岸と呼ばれる地域が存在している。黄金海岸では帝国、北方の連邦共和国、そしてアルビオンの連合王国が主体となって、内陸部の熱帯雨林を治める地元部族であるシャンティ族が採掘する金や鉄鋼、それに現地の奴隷を主要な交易品として売買していた。
海岸沿いには各国の要塞が立ち並び、商船が忙しく出入りしているが、そこから一歩先は見渡す限り緑の海が広がっている。シャンティ族は黄金海岸から密林を流れる河を百キロメートル以上も遡った内陸を治めていた。彼らはクマシー鉱山という聖なる山とボシュムトイ湖という聖なる湖を崇めており、それらは確かに地元部族が信じるだけの御力を誇っているようだった。
クマシー鉱山とボシュムトイ湖から産出される鉱物は博物学者の興味を惹き、錬金術師や製鉄業者らと共に彼らの拠点の一つとなった。シャンティ族が交易に利用する鉱物を増やす見返りに、彼らはシャンティ族の王から土地と奴隷を与えられたのだ。
今、僕たちはそのような鉱業拠点の一つ、クマシー鉱山の近くの村であるローランを訪れていた。ローランは移民も多く、その生活風景は些か面食らうところもあるが言葉が通じない者は殆どいなかった。村で人々に仕える奴隷たちはどこか別の地域から捕らえられた人々で、シャンティ族は彼らを小火器や鋼鉄の武器と交換している。しかし、僕たちの望みは鉱物でも奴隷でも無かった。
顔も分からぬ贋作師、六本指のエルミールを探し出すために、わざわざ奴隷船に乗って遠路はるばる暗黒大陸までやってきたのだ。先生の眼を欺き、ダレス卿に偽の剥製を売り捌かせた贋作師はユーリヤの所属する『算法修道会』から追われていた。僕たちは密林深くに分け入って、ようやくその緒を掴むことになったのだった。
先生は僕から見ても極めて個人的な関心から、ユーリヤの話に乗った。詐欺師である贋作師エルミールの尻尾を掴んで正体を暴き立てるのだと、先生は途上の船上で語っていた。
***
「貴方……死相が出ています」
獣除けの香が焚かれた茅葺きの小屋の中で、凛とした女の声が響いた。背の高い女は純白のブラウスに黒い長丈のスカート、さらに気取った小さな黒マントを羽織っている。熱帯に似つかわしくない淑女然とした女、エルミールの弟子を自称する錬金術師ダニエラ・グラウバーは先生に不吉な予言を突きつけた。
先生は床の上に敷かれた筵に座ったまま、いつものバリトンの低音で堪えるように笑った。馬鹿げた指摘に抗するが如く、先生は少女の顔に満面の笑みを浮かべて答えた。
「人は生きながら次第に腐っていく存在に過ぎない。私はまだ君ほど腐っていないつもりだがね」
「ワーズワース殿……!」
グラウバーの集会を紹介したローランの博物学者、エドガール・バルトリーニ氏が先生を睨んだ。村での絶対的な権力者である錬金術師にして、贋作師エルミールの鍵を握るグラウバー女史に逆らうことは最善とは思えなかった。それでも、先生は彼女の挑戦的な言葉を真正面から打ち返した。グラウバー女史も先生の皮肉を小さな微笑みで受け止めた。
「私には貴方の知らない知識があるのですよ、ワーズワースさん。どうかそれをお忘れなきよう」
「知識を持っているのか、知識を持った振りをしているのか。その点をはっきりさせてくれたら私も忘れないだろう」
小屋の中の小さな空間は緊張感に包まれた。集まった村人たちは神妙な面持ちで二人の顔色を伺っている。唯一、いや実際には二人だが――入口に立っている双子、マイラ・ベリャーエフとレイラ・ベリャーエフだけが瓜二つの無表情で、その視線をグラウバー女史に向けていた。双子の顔は造り物めいており、僕は彼女たちを見るだけで不安な気分になった。
「では貴方には無い知識を証明してご覧に入れましょう。今夜、『湖の獣』の呪いがこの村に降りかかるかどうか、私は見通します」
グラウバー女史はそう言って、背後にある小屋の窓辺に歩み寄った。
「今夜、獣が呪いを受けた者を狩るのか否か……天が示してくれるでしょう」
窓からは松明の煙に揺らめく月の光だけが静かに差し込んでいる。グラウバー女史はゆっくりと鎧戸を閉め、月の光を遮った。窓から循環する空気が無くなったことで、鼻をつく獣除けの香の匂いが一際強くなったように感じた。隣からバルトリーニ氏が咳き込む音が聞こえてきた。
先生は僕に「グラウバーの動きを一瞬たりとも見逃すんじゃないぞ」と小声で指示した。僕は徐々に強まってくる香の匂いに抗いながら、先生の指示に頷き返した。
『湖の獣』。その獣から呪いを受けた者は八つ裂きにされて殺されるという迷信が、ボシュムトイ湖周辺の村々に広まっていた。それはローランの村も例外ではなかった。確かにシャンティ族は『湖の獣』に畏怖を抱いていたが、獣の呪いは獣について知らない移民であろうと無関係のようだった。
最初に殺されたのはグラウバー女史の父であるヨハネス・グラウバーだった。それ以後、獣の呪いを受けたと宣告された者が次々に密林の中で殺されていた。彼らは皆、巨大な獣に襲われたとでもいうように、八つ裂きになって死んでいたのだ。獣を鎮めるため、シャンティ族の霊媒師がボシュムトイ湖に生贄として牛の血を捧げる度に、周辺の住民は誰かが死んだことを知ることになるのだった。
実際にはローランのグラウバー女史が獣の呪いを予知できると公言し、人々に呪いを宣告していた。彼女だけは次に死ぬ、呪われた者を知っている。それを恐ろしい奇跡と共に明かすのだと、バルトリーニ氏は集会の前に話していた。先生はエルミールと同じく弟子も詐術を使っているに違いないと言っていたが、果たして彼女が本当に詐欺師なのかはまだ分からなかった。
呪われた者が誰で、いつ獣に殺される分かったとして、それを防ぐ手立ては無かった。しかし、次に何が起こるかだけでも知りたいという者たちが、彼女の開く集会に参じるのだった。小さな小屋にはローランの村中から集まってきた移民や地元部族の人々が、緊張した面持ちでグラウバー女史の言葉を待っている。
「死を予告された者の姿が見えます……嗚呼。森の奥のその片隅で、彼女は獣の眼に捉えられている」
黒い祭壇の上に置いてある福音書を読み上げていたグラウバー女史が、不意に両手を広げて嘆き始めた。彼女の挙動は占星術師にも似て、不思議な力が宿っているように思える。学者たる者が錬金術師風情に踊らされるとは情けないことだと言って、先生はバルトリーニ氏の言葉を一顧だに値しないものとして退けていた。だが、先生の自信とは裏腹に、僕は奇妙な香の匂いの中で集中力を失いつつあった。
揺らめく香の白い煙の中で、グラウバー女史は祭壇に置かれていた羊皮紙を一枚取り上げた。そして、羊皮紙を煙の中を何度も通し始めた。すると、羊皮紙に不気味な獣の影らしきものが浮かび上がってきた。「獣の印だ」と誰かが呻くように言った。僕は身体から血の気が引いていくのを感じた。
「ただの炙り出しだ……」
先生が小さく呟いた。確かにその通りかも知れない。しかし、ただ闇雲に村人を怖がらせたところでグラウバー女史に何の利益があるというのだろう。それに実際に獣の呪いを受けた者は予知された通りに死んでいるのだ。彼女の力が虚偽だと疑う余地がどこにあるというのか。
「今夜、獣は呪われた者を襲うでしょう。夜闇に紛れて、その者の命を狩るのです!」
そう言って、グラウバー女史は窓の鎧戸を勢いよく開け放った。そこに、先程まで夜空に浮かんでいたはずの月の影は無かった。窓の外には漆黒の闇と頼りない小さな松明の明かりだけが残されている。村人たちは皆、己の眼を疑いながらも恐怖に顔を引きつらせ、両手を組んで天に祈っていた。
――獣の呪いだ……
――呪いが降りかかる!
――今夜も血が流されるぞ……!
村人たちは筵の上で拝むように膝をつき、グラウバー女史に向かって折り合わせた両手を掲げている。僕と卯月は周囲の空気に気圧されていた。僕の隣に座っていたバルトリーニ氏も月の消失を眼にして、必死に胸の上で双十字を切り結んでいる。どうして月が消えたのか、誰一人として説明できる者はいなかった。それはグラウバー女史の言う通り、獣の呪いによるものだとしか考えられなかった。
「次に死ぬのはアデーラだ……」
バルトリーニ氏が眼鏡に汗を垂らしながら言った。呪いを宣告され、焦燥しきった修道女の顔が思い出された。昨日の夕刻に出会った時、彼女は何かを恐れてどこかに向かっていたようだった。まさか本当に彼女が今夜、死ぬというのか。
「どうか、力無き我らに神の御加護を……! 呪いを受けざる者に御加護を……!」
グラウバー女史は指先でページをめくり、福音書を読み上げた。彼女の息遣いは荒く、知りうるべきでない悍ましい知識を前に狼狽しているようにも見えた。僕は不安になって先生の顔を覗き見た。先生は三角帽を目深く被って俯いたまま身じろぎ一つしていない。
「先生……?」
僕が先生の肩を叩くと、先生はゆっくりと顔を上げた。
「え? あぁ、すまない。慣れない姿勢で座っていたせいで、疲れていたようだ」
「……寝ていたんですか?」
「で、彼女の儀式は終わったのか?」
先生は悪びれた様子もなく三角帽の角度を直すと、グラウバー女史が立つ祭壇に向き直った。祭壇にも窓辺にも特に変わったところはない。しかし、僕たちの前で獣の呪いとしか思えない現象――月の消失が起こったこともまた事実だった。
「先生が見ていないうちに、月が消えました」
「……」
僕の言葉に先生は小さく何度も頷いていたが、その表情からして得心しているとは思えなかった。先生は相変わらずグラウバー女史を始めとするエルミールに関わる事柄すべてを疑っているようだった。
小屋の中でしばらく人々の祈祷は続いた。その最中、突然、獣の遠吠えが響いてきた。人々の祈りも虚しく、か細いがしかし確かな遠吠えが、静まり返った小屋の中を震わせた。そして、同時ににわかに外が騒がしくなってきた。人々が駆け出すような物音が聞こえ、小屋の入口に松明を持った村人が顔を出した。
ベリャーエフの双子を除いて、小屋にいた村人たちは波が引くように入口から遠ざかった。まるで呪いを恐れるかのように。
「獣が出たようです」
顔を蒼白にした村人の報告に、隣に座っているバルトリーニ氏がシルクで眼鏡の汗を拭き、立ち上がった。
「様子を見に行かねば……」
「私たちも行くとしよう」
バルトリーニ氏に続いて先生も筵から立ち上がる。しかし、香のせいか、それとも長く床に座っていたせいか、先生はよろめいて僕のほうに寄りかかってきた。それでも先生はなんとか姿勢を立て直し、僕を見下ろして言った。
「獣を狩ることこそ、狩人の務めというものだろうからな」




