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吸血鬼狩り 作者注

 本連載作品「迷信狩り」の第五章「吸血鬼狩り」について、設定上の注釈をまとめた。

 後書きとしては長くなってしまうため、一編分を以下に記載する。ただし、この注釈をメモとして執筆開始したのが2018/6/20のため、書いているうちに本編との齟齬が出ている可能性がある。ご容赦願いたい。

 この注釈が、読後の読者の皆様における疑問の解消、細かい表現への理解の手助けとなることを期待する。

 ※ネタバレ注意



歴史、都市および舞台:

 ジェピュエル総督府の都市クルジュヴァール市はトランシルヴァニア(ルーマニア)のクルジュ=ナポカがモデルである。

 現在の地図でチェントル(Centru)として示されている地域が元々、市壁で囲われていた都市部である。

 その中にカトリック、正教会、カルヴァン派の教会堂が同時に存在した。市街の中央の聖ミカエル教会では度々、トランシルヴァニア公が選出された。作中の描写と異なり、聖ミカエル教会にゴシック様式特有のファサードや飛び梁は存在しない。


 都市部の北には「Someșul Mic River(日本語名不明)」という河が西から東へと流れ、アプセニ山脈から流れる二つの水源の合流地点となっている。

 当時、河の北側には要塞があった。現在では公園とホテルになっている。


 なお、史実上の当時のトランシルヴァニア総督はハラー・ヤーノシュ伯爵二世だった。ハラー家はハンガリー貴族である。

 今回、バートリ家を総督としたのは処女の血で満たした風呂に浸かったという伝説を持つバートリ・エルジェーベトの名前を彷彿とさせるための演出である。


 クルジュ=ナポカの地図はWikipediaの1769年のものを参照した。

 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1b/Josephinische_Landaufnahme_pg083.jpg


 また、ベルグラード市はクルジュ=ナポカから南100kmにあるトランシルヴァニア公国の公都、アルバ・ユリアが、トルダ市はクルジュ=ナポカから南50kmにあり、地下岩塩坑が存在するトゥルダ市がモデルである。



宮廷、実在の人物:

 ゲオルギウス・フラーテルはフラーテル・ジェルジの遺した署名の一つである。

 フラーテルはクロアチア出身でハンガリー、トランシルヴァニアの軍人、修道士、政治家。司教、大司教、枢機卿を歴任した。


 彼はトルコとオーストリアからの外圧を最も強く受けていた、十六世紀のハンガリー、トランシルヴァニアで外交を担っていた政治家であり、東欧の趨勢(すうせい)を大きく変えた重要人物である。

 軍事、財務、東方の文化や政治などの知識に優れ、長年に渡ってハンガリーにおける国家運営の中枢にいた。


 フラーテルは目まぐるしく変わる危機的状況に対して、ハンガリー、トランシルヴァニアの国益を優先した対応をとり、トルコとオーストリアを翻弄した。

 カトリック諸外国からは援助を受けられず、トランシルヴァニア伯サポヤイ・ヤーノシュがハンガリー国王として承認されなかった後も東ハンガリー、後のトランシルヴァニア公国の主権を維持するため双方と数々の条約を結んだ。

 教皇庁はフラーテルがトルコと通じていることを理解していたが、彼は聖職者でありながらトルコの将軍やスルタンと軍事的な交渉を行うことができる稀有な人物だった。そこで、教皇庁は彼を大司教枢機卿という重要ポストに置いた。

 結果的にフラーテルの外交戦略は概ね成功を収めた。しかし、何度も態度を急変させていたため、トランシルヴァニア公の母イザベラからは変節漢に見られ、クーデターや暗殺の危機に晒され続けた。


 トルコ軍を撃退した英雄フニャディ・ヤーノシュ、フニャディの息子でハンガリー王マーチャーシュ1世、トルコ軍と激戦を繰り広げたヴラド・ツェペシュ、ゲームなどで知名度の高いバートリ・エルジェーベトほど有名な人物ではないが、近世の東欧において最も大きな政治的影響を遺した人物の一人といえよう。


 本作ではフラーテルに敬意を表し、彼をモデルにゲオルギウス・フラーテルを登場させている。


 他、本作に登場するハンガリーの主な貴族家門についても触れておく。

 ハンガリーのエステルハージ家とバートリ家は公爵、ハラー家とクロブシツキー家とギュレイ家とカーロイ家は伯爵、ボルネミッサ家とフィッシャー家は男爵に相当する貴族家門である。彼らはオーストリア支配下においても要職を務めており、登場人物や領地は実在の貴族をモデルにしている。エステルハージ家以外はすべてハンガリー語のページを参照した。


 エステルハージ家

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B8


 バートリ家

 https://hu.wikipedia.org/wiki/B%C3%A1thori-csal%C3%A1d


 ハラー家

 https://hu.wikipedia.org/wiki/Haller_csal%C3%A1d


 クロブシツキー家

 https://hu.wikipedia.org/wiki/Klobusiczky_csal%C3%A1d


 ギュレイ家

 https://hu.wikipedia.org/wiki/Gyulay_csal%C3%A1d


 カーロイ家

 https://hu.wikipedia.org/wiki/K%C3%A1rolyi_csal%C3%A1d


 ボルネミッサ家

 https://hu.wikipedia.org/wiki/Bornemisza_csal%C3%A1d_(k%C3%A1szoni)


 フィッシャー家

 https://hu.wikipedia.org/wiki/Fischer_csal%C3%A1d



内政、商業:

 そういう店について。

 そういう店とは、娼館に行きづらい男が利用していた店である。主に女性向けの装飾品店を装っていた。男は目当ての針子が身につけている装飾品を買う振りをする。そして、後ほど針子が注文された装飾品を届ける振りをして、男の下を訪れる。十八世紀のデリバリーとは、そういう店なのである。


 美術品のオークションについて。

 いわゆる競売自体は紀元前の古代バビロニアから既に行われていた。商品の売買や仕事の受発注などで価格を決める方法として、競売は現代まで採用されており、そのルールは多岐に渡るが不正の温床でもあった。


 イギリスでは最初のオークションが1595年に行われたとされている。十七世紀後半にはそれが一般に行われることになった。オークション会社による美術品の競売は十八世紀後半には始まっている。

 まず、オークション会社は出品物候補を査定、鑑定する。そして、出品物を紹介するオークション・カタログを作り、参加予定者に販売した。この時に作成されたオークション・カタログは、当時の美術品や骨董品を記録した美術誌、博物誌としても価値が高い。


 オークションのルールはいくつかあるが、落札価格を参加者全員に公開した状態で、言い値を上方へと修正していき、最も高い価格をつけた者が落札するというイングリッシュ・オークション方式が最も有名であろう。

 美術品における真作、贋作にまつわる問題は多く、他にも談合、入札価格の操作など、昔から不正は絶えなかったようである。



化学・錬金術:

 ガラスに近い屈折率(1.46)を持つ無色透明な液体として四塩化炭素が存在する。理論上、四塩化炭素の中にガラスを入れると透明になって見えなくなる。

 四塩化炭素はクロロホルムの副産物として生成する化合物である。特有の芳香がある。


 メタンと塩素を混合して光を照射した際に、塩素が過剰に存在する場合、塩素ラジカルによる連鎖反応が引き起こされてクロロメタン、ジクロロメタン、クロロホルム、テトラクロロメタン(四塩化炭素)を生じる。


 メタンは天然ガスとして、地上では火山や沼地の付近に存在する。


 塩素を単離する方法として、1774年にスウェーデンのカール・ヴィルヘルム・シェーレが塩酸と二酸化マンガンを加熱して生成する方法を発見した。自然産出する二酸化マンガンは軟マンガン鉱である。これは古代ローマから用いられてきた資源鉱物であり、大プリニウスの博物誌にも記載されている。


 塩酸については、十七世紀に高濃度の生成方法が発見されている。1654年にヨハン・ルドルフ・グラウバーは食塩と硫酸を混合することで塩酸が生成できることを発見した。 


 硫酸は緑礬(りょくばん)を乾留して得られる。この方法は八世紀にジャービル・イブン=ハイヤーンによって記されている。十四世紀以降は硫黄と硝石を燃焼させることで、効率よく硫酸を生成する方法が取られた。


 つまり、食塩+硫酸→塩酸、塩酸+二酸化マンガン→塩素、メタン+塩素→四塩化炭素となる。


 なお、水の屈折率は1.33であり、水の中にガラスを入れても透明には見えない。


 ガス爆発による被害について。

 あまり例に出すのも良くないが、アパマンショップの事故のように、巻き込まれた人が生きているパターンもあると、作者は考えている。



医学:

 序話でアーチボルドが語る心拍と血液循環の説明は、1628年にウィリアム・ハーヴィによって発表されたものである。

 ハーヴィはガレノスが提唱した肝臓における血液産出が誤りであることを示すために、作中のような説明を行った。数値はガレノスの権威に配慮し、過小に評価した形跡が見られる。

 彼の学説はイギリスでは王立協会によって好意的に受け入れられた。一方で他のヨーロッパの地域では瀉血の効果を疑問視する内容だったため、利益を損なわれた医師たちに怒りをもって受け止められた。


 輸血について。

 血液型と輸血について明らかになったのは十九世紀になってからである。十八世紀、血液型の概念はまだ知られておらず、血液型の異なる血液の輸血によって死者が出ることもあった。


 当時の助産について。

 十六世紀あたりから伝統的な産婆による助産だけでなく、床屋兼外科の助産師が登場する。

 産婆は薬草などで陣痛促進を行ったり分娩台を用意したり、娩出後のへその緒の切除など伝統的な助産を行ったが、それでも出産時の母親の死亡率は1~2%程度あった。

 ヨーロッパでは鎮痛薬としてヒヨス、中国では漢方薬としてアサの葉を燻したり、その実や油を使って鎮痛、麻酔作用を得た。

 メキシコではキフアパトゥル、ゾアパトゥルなどに陣痛促進作用があることが明らかになっている。

 魔女狩りの注でも一部書いているが、これらの薬草は子宮収縮を引き起こすこともあり、堕胎薬としても利用された。


 十七世紀に入って栄養不足による骨盤異常が増えると、胎児が産道に引っかかることが多発した。

 これに対して、ユグノー教徒で亡命者のウィリアム・チェンバレン、息子のピーター・チェンバレンらチェンバレン家は鉗子を使って胎児を引き出す手法を考案した。

 それまでは胎児の頭に鉤を引っ掛けてバラバラにするか、砕頭器で頭を砕いて引きずり出すしかなかった。鉗子の発明は画期的で、チェンバレン家は多くの助産を成功させた。しかし、助産の最中、鉗子を見られないように妊婦に目隠ししたり、囲いを作って太鼓を鳴らすなど、チェンバレン家は鉗子の存在を隠し続けた。

 鉗子は百年に渡ってチェンバレン家の秘密とされたが、子孫は最終的にオランダの外科医に働きかけ、鉗子の使用を産科免許の条件に加えることを提案し、鉗子の権利を売却しようとした。

 鉗子の構造が明らかにされたのは1732年のことだった。


 鍼灸について。

 鍼灸は少なくとも二千年にわたって中国で利用されてきた。

 鍼灸は単純な臨床治療法であり、身体に鍼を刺して刺激を与えることで、内科、外科を問わず病気を治療したり、痛みを軽減することができる。

 鍼による鎮痛は1958年から外科的手術を行う場合にも利用されている。


 通常、鍼は15~30分程度またはそれ以上、身体に差し込まれている(留針)。さらに、鍼を手で回したり押したり引いたりといった操作を行う(捻転行針)。

 針には毫鍼、三稜鍼、梅花鍼、耳針があり、通常すべてステンレス製である。毫鍼は臨床治療で最も利用頻度が高く、サイズは長さ1.0~15[cm]、直径0.27~0.46[mm]など多種に及ぶ。

 どの鍼を用いるかは患部の位置や深さ、筋肉や皮膚の厚さ、深さによって決められる。

 鍼灸における灸はモグサの葉をすり潰して綿状にして、それを鍼の頭に乗せて焼くことで鍼を熱する。


 鍼麻酔では温度、触覚、圧迫などの感覚を残すことができる。よって、麻酔というよりは鎮痛と呼ぶべきであろう。

 中国における鍼鎮痛による外科処置の成功率は70~80%と言われる。



文化、宗教:

 教区の割当について。

 トランシルヴァニア内での教区の割当は以下のページの地図に基づいている。

 https://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Catholic_Archdiocese_of_Alba_Iulia

 実際はトランシルヴァニア公国の公都だったアルバ=ユリアがカルパチア山脈に囲われた一帯の大司教座である。

 クルジュ=ナポカは作中ではクルジュヴァールだが、ここは司教座でも何でも無いため、司教総代理を置いたという設定にしている。


 作中では総督府として格下げさせられたという印象を与えるために、一旦は司教座としている。

 史実上のトランシルヴァニア教区の司教あるいは大司教のリストは以下のページである(ハンガリー語)。

 https://hu.wikipedia.org/wiki/Erd%C3%A9lyi_katolikus_p%C3%BCsp%C3%B6k%C3%B6k_list%C3%A1ja

 当時の大司教はクロブシツキー・フェレンツだった。クロブシツキー家の一族はマリア・テレジアに仕えたハンガリー貴族である。


 カトリックでは司教区、大司教区には司教を補佐するため、司教総代理が置かれた。司教区では主に司祭一名が司教総代理を務めるが、大司教区では最大二名程度の補佐司教が置かれ、彼らが司教総代理を担うこともあった。


 オークションの作品と作者について。

 グイド・レーニは教皇領ボローニャで活躍した実在の宮廷画家である。

 『ソロモンを訪問したシバの女王』はレーニと同時期に活躍していたラヴィニア・フォンターナの作品である。

 二人ともバロック期を代表する画家であり、ともにボローニャ派として知られる。画風が似ていたことから、フォンターナの作品がレーニの作品として売られていた時期があった。


 ジャック・ド・ヴォーカンソンは実在したフランスの発明家である。ヴォーカンソンは機械人形の制作を開始して有名になり、織機の改良や工作機械の設計を行った。織機の自動化やパンチカードのシステムを考案した先駆的発明家だったが、職人から猛反発を受けたため、彼の発明が存命中に取り入れられることはなかった。

 『笛吹き人形』、『タンバリンを叩く人形』、『消化するアヒル』など多数の精巧な機械人形を制作し、発明品はルイ16世に遺贈した。しかし、フランス革命などで破壊に遭い、現存するオリジナルの機械人形は一つもない。

 『消化するアヒル』のみが復元品としてオートマタ博物館に展示されている。



吸血鬼:

 吸血鬼とは何か。

 今日、吸血鬼の存在を信じるアメリカ人が描くような、黒いマントを翻してコウモリに化け、不老不死にして超常の力を操り、美女の生き血を吸う高貴な貴族の如き外見の吸血鬼像は完全に後世の創作である。

 というか、なんで吸血鬼になると若返ったり、やたら人間を弄ぼうとしたりするんですか! 平野耕太先生!


 元を返せば吸血鬼、即ち夜になると墓場から起き上がって害悪を及し時に人の血を吸う化物の存在は、東欧の民族伝承に端を発する。

 以下にセルビアの吸血鬼について記す。

 死者に悪霊が入り込んで蘇った者が吸血鬼であり、彼らは家々を回って人や家畜を襲う。吸血鬼になるのは悪人や自殺者、水死者の中でも、特に聖ゲオルギウスの祭日などに死んだ者である。

 吸血鬼は昼間は墓に横たわっているが、月が満ちる時期に現れ、夜な夜な人を襲う。墓を見て穴が空いている場合にはそれは死者が吸血鬼になった証拠であるという。

 死体が吸血鬼である痕跡を見つけた場合(腐敗しておらず、膨らんで赤みがかっているなど)、死体を焼いたり、首を切り離したりする。

 また、死体が吸血鬼にならないように、埋葬時に死体の顔の穴に粟などの穀物、尻の穴にニンニクを詰め込んだ。

 いくら吸血鬼の弱点だからって、尻にニンニクは無えだろ……。


 こうした初期の吸血鬼に関する伝承はセルビアからオーストリアへと伝わった。

 十七、十八世紀にかけて、セルビアなどのバルカン地域を統治下においたオーストリア人は彼らの吸血鬼伝承に影響を受け、西欧にこれを伝えた。

 当時のワラキアと接するトランシルヴァニア、現在のルーマニアでは吸血鬼、ストリゴイを指して死んだ魔女と呼んでおり、血を吸う化物全般が死んだ魔女と呼ばれた。

 ボスニアやモンテネグロなどでも吸血鬼の俗信は強く、現地の人々は伝染病などが流行ると吸血鬼を見たなどと言って、死体を掘り返して焼いたり、杭を刺すなどの「対策」を取ろうとした。

 こうした無知な対策係の迷信に対してオーストリアの行政官や司祭は、農民たちがこうした行動をとらないように現地の領主に手紙を送るなどしている。

 また、迷信に協力した司祭の位階を剥奪するなど、吸血鬼対策禁止令のようなものも存在した。


 ここからヨーロッパ全土に吸血鬼ブームと呼べるほどの流行が始まる。

 ちょうど魔女狩りが沈静化しつつあったフランスやドイツで、魔女という社会病理の穴を埋めるように、吸血鬼は一気に広まった。その中で十九世紀には吸血鬼文学とも呼べる作品が次々と西欧で生まれた。

 新大陸を「発見」したように、西欧の知識人は吸血鬼を「発見」したのである。


 ただし、同じトランシルヴァニアでもハンガリーではこうした伝承や事件は存在せず、せいぜい、魔女狩りやドイツからの狼男の影響が見られる程度である。

 しかし、それにも関わらず、吸血鬼の伝承が残る地域では、当地で死んだ外国人もまた吸血鬼になると信じられていた。

 ハンガリー人は吸血鬼を気にかけていなかったが、ルーマニア人は死んで吸血鬼になったハンガリー人は正教徒ではないために聖水や祈りが効かず、恐るべき存在になると考えていた。

 トランシルヴァニアにいたハンガリー人の中には死者を掘り返して焼却するような風習はなかったが、一応、吸血鬼対策の風習には従っていたようである。



フィクション:

 初登場時に察しのいい方はお気付きかも知れないが、ペスト医師アーチボルドは漫画「メイドインアビス」の登場人物、ボンドルドを参考にしている。また、序話の構成は「メイドインアビス」の某エピソードのリスペクトである。


 首だけで生きているというモチーフの原典は、アレクサンドル・ベリャーエフによる古典SF小説「ドウエル教授の首」である。このモチーフは他のSF作品でも頻繁に持ち出されている。

 冲方丁のSF小説「マルドゥック・スクランブル」、アニメ「コヨーテ ラグタイムショー」などでは鳥籠の中で首が生かされているシーンが出てくる。「ぶっ壊して差し上げますわ!」


 どんな民主的な議会も、所詮は少数が支配権を握っているだけに過ぎないという総督の台詞について。

 銀河英雄伝説の登場人物で、秘密警察(内国安全保障局)の局長ハイドリッヒ・ラングの台詞である。ラング自体は久々にワロタというアスキーアートで一世を風靡し、現在ではLINEスタンプもつくられるという公式も公認のネタキャラになっている。


 地球の鉱物を採掘している謎の生物について。

 ミ=ゴである。詳しくはラヴクラフトをお読みいただきたい。


 ミュラー曹長について。

 >ハンス・ディンケル少尉の同僚の士官にも、ルドルフ・ミュラー曹長という名前や設定があったが、こちらも没に。

 没ネタを採用した結果、こんな結末に……。



本作の執筆の際して、前章に追加して、主に下記の書籍、作品を参考とした。

そのため、一部のシーンでは、その影響が大きく出ている個所がある。

また、今後も参考とする可能性が高い。


・「吸血鬼伝承 『生ける死体』の民俗学」著:平賀英一郎

・「50の事物で知る 図説 医学の歴史」著:ギル・ポール 訳:野口正雄

・「世界伝統医学大全」著:R.バンナーマン、J.バートン、陳文傑 訳:津谷喜一郎

・「ラヴクラフト全集4」著:H・P・ラヴクラフト 訳:大瀧啓裕

・「新しいオークションの理論と実践」著:川又邦雄、馬場弓子

http://www.jbaudit.go.jp/koryu/study/mag/16-5.html

・「大学への橋渡し 有機化学」著:宮本 真敏、斉藤 正治

・「TRICK劇場版ラストステージ」監督:堤幸彦

・「THE BEST OFFER(邦題:鑑定士と顔のない依頼人)」監督:ジュゼッペ・トルナトーレ



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