吸血鬼狩り 十三 ~ 狂気の山脈にて
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私はカミルと別れると、クルジュスコールの中で先生を探し始めた。カミルが分娩室のあった地下、私が迎賓用の階層にいたことを考えると、先生はさらに別の階層にいるように思えた。私は昇降機が動く機会を見計らって、下の階層を目指した。昇降機の中にいても時折、分娩の際にペスト医師たちが歌っていた聖歌が耳に入ってくる。彼らは昼も夜も関係なく、手術に臨んでいるようだった。
昇降機は分娩室の階層を通り過ぎ、さらに地下へと潜っていく。明かりすらない暗い昇降機の中では、どれだけの距離を移動したのか定かではない。やがて、昇降機は最下層と思われる階層に到着した。しかし、到着するやいなや下りてきた昇降機を待っていたと思しきペスト医師と鉢合わせになってしまった。昇降機の中には隠れる場所など無い。
私は動揺していると思われないように、静かに相手を見据えた。ペスト医師の仮面に取り付けられたガラスの目が、私を睨み返してくる。どうすればよいのか相手も思案したまま、硬直しているようだった。このままでは埒が明かない。ペスト医師をよく見ると、その体格は少女のように華奢なものに思えてくる。私は思い切ってペスト医師に話しかけてみた。
「あの……先生を探しているんですが、どこにいるか知らないですか?」
「え?……」
仮面を通してくぐもった少女の声が聞こえてきた。どうやらペスト医師の中には子供も含まれているらしかった。彼らの存在について益々、訳が分からなくなってくる。
「先生……というのは、マスター・アーチボルドのことではないのですか?」
今度は小さなペスト医師が私に尋ねてきた。
「アーチボルドは、先生じゃない。私たちの先生は、女の子みたいな顔で、声が男性歌手みたいに低音の人なんだけど」
「あ、その人なら、この奥にいます……」
小さなペスト医師は廊下の先を指差した。似たような部屋が並んでいて、どこに先生がいるのか判然としない。ペスト医師は燭台を手に取り、付いて来いというような仕草をした。
「先生はこの先にいるのね?」
「はい。丁重に扱うようにと言われていますが、それ以上は何も……」
先生は程なくして、ペスト医師が案内してくれた部屋で見つかった。この緊急事態にも関わらず、先生はぐっすりと眠っていた。やはりこの人は只者ではないのかも知れない。私は拘束されていた先生を叩き起こし、今の状況を説明した。
「まあ仕方あるまい。我々は洞窟修道院を見つけ出して、先に隠れているとしよう」
先生はカミルのことなど知らぬ存ぜぬという顔だった。彼のことは全く心配していないようだ。
「洞窟修道院に行かれるということは、司教様にお会いになるのですか?」
小さなペスト医師が再び尋ねてきた。
「そうだな。司教殿がおられるのであれば、挨拶しておかねばならないな」
先生はペスト医師に話を合わせた。どうやら、洞窟修道院に総督府司教ゲオルギウス・フラーテルがいるという補佐司教の言葉は本当だったようだ。洞窟修道院に行けば、司教に会えるかも知れない。私たちは案内役となったペスト医師に付いて、洞窟修道院に通じるという研究室を目指した。
研究室の前まで来ると、ペスト医師は鳥の嘴の仮面を取り、澄んだ声で扉に向かって呼び掛けた。
「ヨハンナです。お客様をお連れしました」
「貴女がヨハンナ?」
「えぇ……そうですけど……」
「ヴァルド市の近くの村から連れ去られたと聞いたけど、大丈夫なの?」
ヨハンナは表情を隠すように頭を垂らして答えた。
「……確かにそうです。ですが、ここから出るよりも、ここでの生活に慣れてしまいました」
「戻りたくないの?」
「『彼ら』はすべてを見通しています。皆さんのことも。逃げることはできないんです」
その時、徐に研究室の扉が開き、中から鍔広帽の飾り紐を揺らしながらアーチボルドが現れた。
「おやおや、皆さんお揃いで。実に素晴らしい。歓迎いたしますよ」
アーチボルドは私たちがどうやって拘束から抜け出したのか、理由も聞かずに部屋へと迎え入れた。研究室には手術台があり、そこには顔に清拭が掛けられた何者かが横たわっていた。
「今は何をしていたのかね?」
先生がアーチボルドに尋ねた。
「これですか? これは生きたまま屍人形を作る手法を試していたのですよ。なかなか良い被検体が手に入らず困っていたのですが、補佐司教が用意を進めていたおかげで助かりました」
そう言うと、アーチボルドは被検体と呼ばれた者の顔から清拭を取り去った。その下には総督、バートリ卿の虚ろな顔があった。私は思わず後ずさりした。これは一体どういうことだろうか。
「そんなに怖がることはありませんよ。東洋の鍼灸術を真似て我々の開発した無痛手術のおかげで、殿下は生きたまま屍霊術の鐘に反応するようになったのです。尊大な自我が取り除かれ、常に鐘の音に対してのみ従順な、文字通りの人形となったわけです。言わば、半死半生の状態と呼ぶべきでしょうか」
半死半生とはいうが、この状況では個人としての総督は既に死んでいるように思えた。
「折角ですから、殿下に司教殿との面会の許可書を書いていただきましょう」
アーチボルドが鐘を鳴らすと、総督は羽ペンを握り、前に差し出された許可書に自分の署名を書き加えた。その動きは緩慢で、屍体を無理やり動かしているようなぎこちなさが見られた。
「さて、洞窟修道院は研究室の先にあります。皆さんにどうか命の奇跡と血の祝福を」
アーチボルドに促され、私と先生は研究室の奥へと進んだ。そこには教皇庁の所有物を示す鍵の印が刻まれた重厚な扉があった。私が扉を押し開くと、鱗光灯の薄緑の光が漏れ出してきた。扉を開くと、岩壁を削って作ったと思しき広々とした空間があった。洞窟修道院はまさに洞窟を利用した施設であり、自然のままの岩壁がせり出している。
「すごい……」
薄緑の光で満たされた洞窟修道院は岩肌の壁に聖布が掛けられ、宗教上の儀式にも堪えうるようになっていた。壁掛け聖布は一枚一枚が福音書に記された聖人やシーンを模したものだ。冷たく荘厳な修道院の奥には小さな祭壇があり、祭壇の上には鳥籠が置かれていた。
「……ああ、父よ……あなたが与えるならば……私が与える……」
祭壇の近くから祈りの声が聞こえてきた。よく通る澄んだ男声だった。岩肌を歩く私たちの足音にも気付いていないようだった。
「暗闇への……水の……銀……」
不意に祈りが止み、鳥籠の中で何かが蠢いた。香炉から立ち上る煙が揺らめき、仄かな香りがこちらまで届いたような気がした。
「司教殿?」
先生が祭壇に向かって声をかけた。いつものバリトンの声が一段と低く洞窟に響く。
「悩める子羊たちよ……待っていた」
その声は確かに鳥籠の中から聞こえてきた。目を凝らしてよく見ると、男性の頭が奇妙な機械の台座と共に鳥籠の中に据えられていた。私は自分の口から悲鳴が出るのを抑えるのに精一杯になった。
「そのように驚くのも無理がなかろう……私はゲオルギウス・フラーテル。ジェピュエル総督府の総督府教区司教」
「これもペスト医師の悪趣味な悪戯かね? こんなもので私たちが引き下がるとでも思ったのか?」
先生は鳥籠に向かって叫んだ。先生の声も若干の震えを帯びていた。その声にも動じることなく、鳥籠の中の司教の頭は喋り続けた。
「君たちが現れることは既に知っていた。瞳たちを通じて……」
その時、入り口の扉が開いて補佐司教が現れた。彼女の顔はいつもの愛想笑いが浮かんでいたが、その眼は私たちを凝視したまま動かなかった。
「ようこそ、皆様。司教殿がお会いになられるということでしたので、私も参りました」
「これは、どういうことなのかね? 総督は生者のまま屍体に、司教は屍体のまま生者になりすましているように思えるが」
「前者も後者も実態としては貴方の言葉通りです、調査官殿。しかし、前者については女王陛下が望んだことでもあるのですよ」
補佐司教は信徒用の長椅子へと私たちを促し、鳥籠の待つ祭壇へと近寄った。
「皇女殿下は足を患っておられる……。実に嘆かわしいことに、このままでは一生歩くことができないでしょう。そこで、私たちは皇女殿下の足を治す、その見返りとしてジェピュエルの独立を買ったのです」
補佐司教が鳥籠を持ち上げた。祭壇には何のカラクリも無いようだった。祭壇から離れても、司教の首は生きているように瞬きを続けている。
「公爵など操りやすい者であれば誰でも構わなかったのです。しかし、どうせならば本当に操ることができる者が望ましい。マスター・アーチボルドはそれを成し遂げてくれました」
「ただそれだけのために、総督にあんな手術をしたというのかね?」
「彼は公爵になりたがっていた。我々はその願いを叶えたのだ」
司教の首が先生に反論した。その声には有無を言わせない力強い響きがあった。とても屍体のふりをしているようには見えない、むしろ健康そのものという感じだ。
「それでは……司教殿は何故、そのような首だけの姿に? まさか、それもアーチボルド殿に頼んで手術してもらったとでも?」
「知りたいのかね?」
鳥籠の首が私たちを見据えた。その眼光には確かに生命の光があった。奇術の類いではなく、首のまま生きているのではないかと錯覚するほどに。
「本当にそれを望むのなら、この祭壇の奥へ進みたまえ。真実を知ることが叶うだろう」
「……」
先生は身動ぎ一つせず、長椅子に座ったままだった。私は長椅子を立った。先生は驚いた表情で私を見たが、止める気はないようだった。私は一人で祭壇の奥に進んだ。祭壇の先には岩壁同士の小さな隙間が空いていた。私は隙間を通り抜けた。
隙間の先には、高さ三メートルほどの坑道が延々と続いていた。坑道では何故か、ペスト医師たちが歌っていた聖歌が鮮明に聞こえてきた。しかし、ここにペスト医師たちがいるとは思えない。私が坑道の奥に目を凝らすと奇妙な影が見えた。影は二メートル弱程度の高さで二足の足をついて歩行しており、神話の竜のような鉤爪のついた腕を持ち、楕円形の頭から数本の突起物らしきものが生えていた。
それは間違いなく、これまでに見た地球上の生物とはかけ離れた何かだった。博物学者でも博物誌に描いていない何かだった。しかし、それが奇妙な聖歌を唱えていることだけは間違いなかった。
突然、私は目の前が真っ暗になり、奇妙な聖歌を聞きながら意識を失った。