陰謀狩り 五 ~ 科学と啓蒙
都市の下町というのは建物がひしめき合い、牛馬が行き交い、人々の熱気に溢れている。ただし、その熱気は肥料とするための牛馬の糞尿の悪臭を周囲に広め、我々を苦しめる。
たとえ帝国の中心、帝都でもそのような光景に変わりはなかった。雨が降れば厩舎の肥溜めが溢れ、街路は糞と泥の混ざりあった地獄と化すこともあった。
屍霊術が普及するまでは、汲み取った糞尿の樽を畑まで運ぶのは主に日雇いの人夫だったが、今では屍人形に任せるようになっている。多少金はかかるが、戦争の人手不足には代えられない。
それに、屍人形は糞尿樽が重かろうが臭かろうが文句を言わない。
たとえ身体が糞尿に浸かっても、だ。文句を言うのは、すえた臭いがついたローブを洗濯する洗濯女たちだろう。
屍人形は主に教会が管理しており、必要に応じて農家や職人に貸し出す制度になっていた。本来の職にあぶれた墓守や墓穴掘りは、屍人形が襲われたり奪われたりしないように、屍人形を監視していた。
屍人形を先導する墓守に続いて、修道服に身を包んだ黒い影が清掃や荷運び、麦の収穫に向かう列は、さながら棺のない葬列であった。ただ、屍人形は人や牛馬のように疫病に晒されても、病にも冒されず傷にも怯まず、いつでも同じように動ける。
それはやはり一種の救いだった。
教会が屍霊術を奇跡として説教に取り入れることも正当化されるだけの意義があるのだ。
人の身体で行う単純作業であれば、屍人形に任せればよい。ただし、そこに信仰という制御が利かなければ、屍霊術は一瞬にして危うい技術と化すだろう。
例えば、戦場で腕を失った兵士の屍人形に、腕の代わりに斧を移植して、薪割り人形に仕立てあげた貴族もいると聞く。
そのうち、こうした露悪的な試みが、兵器として運用されるのは時間の問題にも思われた。ただ、今のところ、大学の食堂でそのような過激な演説を行った学生が、人道に反するという理由で袋叩きにされる程度には、まだ世間にも良心が残っているようだった。
だが、死体を手に入れる方法に関しては、屍霊術が開発されて以来、この百年ほど全く進歩がなかった。屍人形として健全な死体を手に入れるには、感染症の病死者や身体を裂かれた戦死者ではなく、専ら死刑囚が利用された。
自分の身内を埋葬とは異なる形で保存したいと望む好事家の金持ちからの依頼を別にして、健全な死体が都合よく手に入ることは少なく、そしてその機会をみすみす逃すほど屍霊術士たちは間抜けでもなかった。
死体の腐敗が遅くなる冬季になると、死刑場には屍霊術士が屈強な墓守たちを伴って、早馬の馬車で駆けつける。彼らは絞首台からぶら下がる死刑囚の足が床から離れた途端、一目散にその脚部に寄り付き、重力よりも大きな力で彼らを天国へと引っ張っていく。
斬首と比較して、絞首では首への圧迫が十分ではなく、気絶しただけで済んでしまうこともあった。
絞首台から降ろされた死刑囚が、後になって棺の中で目を覚ますなんてことは、魔女の飛翔よりもありふれていたのだ。
だからこそ、屍霊術士たちはより確実に死体を手に入れるため、最大限の慈悲を以て死刑囚たちを天国へと導くのだった。大学の解剖学者は死刑囚の死体が手に入らない場合には、墓を掘り返して古い死体を盗むこともあったが、屍霊術には労働力として満足できる健全な死体が必要不可欠だった。
そんな彼らに対抗して、死刑囚の家族や関係者が死体を守ろうと、あるいは大学の解剖学教室の学生が検体を手に入れようと、乱闘を繰り広げることも当然のように繰り返されてきた。こうした光景は教養のある者にとって正視に耐えるものではなかったが、貧民にはうってつけの娯楽であり、闘鶏場や酒場と同様の賑わいを見せた。
帝国内では、屍霊術士を抱える教会は皇帝から死体を利用する権利を与えられており、その蛮行に何の躊躇いもないのが常だった。屍霊術の犠牲になるのは重大な犯罪者なのだから、世間の目もそこまで厳しいものではなかったし、非公開の処刑であれば馬鹿げた騒ぎもなく、買収された死刑執行人によって死体は彼らの下へと送られてきた。
コルヴィナでも同様に、女王のお墨付きを得た王立アカデミーはその権利を行使できた。ただ、これまで異教徒の衛星国だった地域では、このような慣習は法令化されておらず、教会の宗派間で信仰の問題になることは間違いなかった。
***
僕は先生と伯爵とともに、伯爵の書斎で他愛もない談話に興じていた。
とは言え、科学趣味に興じる伯爵の関心事はごく限られていた。僕が伯爵に話せる世間話など、屍霊術や大学に関する程度のものだ。
帝都の新聞で浮名を流す有名女優の話など、最近の女性は積極的だ、なんて一言で流されてしまう。そうした素朴さは貴族としては欠点なのかも知れないが、領民のために科学の啓蒙が必要だという彼の信念は本物だ。
僕がエリートコースの神学部や法学部を外れて、自然哲学を志したことを許してもらえたのは、ひとえに伯爵の厚意があってこそだった。
僕自身はアルデラの小村の出身で、かつては学校の教師をしていた母と暮らしていた。当時は私生児などごく当たり前で、僕は父の名前すら知らなかった。
ある日を境に異教徒との戦争が始まると、村には帝国軍や傭兵の部隊が駐屯するようになった。彼らは徴発という名目で家畜や作物を略奪した。
その後、異教徒の軍が押し寄せ、傭兵は一目散に逃げ出した。帝国軍も大した抵抗はできず、撤退を余儀なくされた。
村を占領した異教徒の指揮官は、しかし、道案内として仕える老人一人だけを雇い、村を通過していった。
後で知ったことだが、市壁のない町村では、戦時には村人は全員、近所の森に避難するのが習慣だった。軍との調停を行う代表者として、村に居残る村長と教師、数名の老人を除いては。
異教徒にすら見捨てられた僕の村は、既に略奪され尽くされていて、軍事的価値が無かったのだった。結局、僕ら村人たちが森にいた間、村で何が起こっていたかは、推して知るべしとしか言いようがない。村に戻った後、謝罪の言葉を繰り返す村長から幾ばくかの見舞金をもらい、僕は孤児院へと連れられた。
そのような経緯で孤児となった僕が、母と同じ教師の道を目指したいと申し出た時に、励ましの言葉と奨学金を贈ってくれた伯爵は、僕にとって学友以上の存在と言える。
異教徒との戦争で父を亡くした伯爵にとっても、僕と通じるものがあったのだろう。学業を通じた交流が、僕と伯爵を辛い過去から救ってくれたのだった。
伯爵は学術や最新の技術に伴う社会の潮流については興味津々と言った様子で聞いていたが、地元の都市の大学でも屍霊術を始めたということもあって、既知の事実も多少はあったようだ。
彼の興味は次第に先生の新大陸に関する話題へと移っていった。
「ワーズワース殿は新大陸ではどのような場所を調査なさったのですか?」
伯爵が待ちかねていた質問を先生に投げた。
「大陸の中央部です。比較的高地の多い場所でしてね」
先生は意外にもまともな受け答えをした。僕に対してははぐらかしていたのに。
「高山病の予防のために、作業中は口の中に原生種のハーブをずっと含んでおくのですよ。一種の気付けですな。鉱山に出入りする入植者の間でも使われていましたが、こうした予防策は先住民の習慣から得られたものです」
先生の話は自らの経験と観察に基づいているはずだ。そこに神学的な抽象表現や主観的な感想は無く、博物学者という肩書きに相応しい、ありのままの事実からくる説得力があった。
「しかし、こうした知恵はあくまでも表面的なものに過ぎません。彼らが部外者に儀式の秘儀を明らかにしてくれることはあまりにも少ない。通訳を介して彼らと友人という意識を共有するに至っても、彼らの形而上学的な目的を理解するには、さらに調査が必要でしょう」
伯爵は先生の話す新大陸での冒険譚に魅了されつつあった。椅子から乗り出し、何度も頷きながら、先生の一挙手一投足を見つめている。
「ワーズワース殿がお使いになったハーブも、いただいた植物図鑑に載っていますか?」
伯爵が植物図鑑を先生に手渡した。分厚い本にも関わらず、栞が真ん中に挟まれている。どうやら一晩中読んでいたらしい。
「ええ。こちらのページに……。新大陸の中央部では、他にもいくつかの種類があります。私が使ったものは最も一般的な品種でした」
先生は惜しげもなく、伯爵の前でその知識と経験そして見解を披露する。
もちろん、地元の名士に取り入るという目的があるのだろう。そうしたほうが調査は捗る。一方で、先生は僕に対しては、助手としての資格が有るか否かを見極めるため、わざと試すような物言いをしていたのかも知れなかった。
それは少し苛立たしくもあり、同時に僕自身の意志を奮い起こさせるものに感じられた。
「しかし、閣下の庭園も実に素晴らしいものです」
「まさか、あれは……単なる趣味に過ぎません。庭仕事など、領主のやることではない。それに、一人でやっているわけでもないですよ」
「いえいえ、新大陸の植物をきちんと生育するには環境の違いがあって、なかなか上手くいかないものですから。閣下は間違いなく才能をお持ちだ」
今度は先生が伯爵を褒めちぎり始めた。
芋を掘り返してまで見てきたのだから、庭園が手入れされているというのは真実なのだろう。
伯爵は気恥ずかしそうだが、まんざらでもない様子だった。
「伯爵は何を育てているのです?」
僕が伯爵に尋ねる。
「ジャガイモという、でこぼこした根を食べる野菜を。帝国では今、熱心に普及させようとしているとか。後はトマトという……赤い実をつけるのだが、見た目はベラドンナのようなものを」
伯爵が庭園の作物について語った。どれも新大陸からもたらされた野菜だった。
「新大陸をその目でご覧になったワーズワース殿にとっては、児戯のようなものでしょう。それに、あの庭園は主として、ヒルシュ殿が薬草を採るためにお使いになっています」
「左様でしたか。なるほど。私にとっては、このアルデラの地こそが新たな大陸です。この地域の植生については、恥ずかしながらまだまだ不勉強ですから」
そこで思いついたというように先生が笑顔を浮かべた。
「閣下、折角ですから狩りなどご一緒に如何ですか」
「狩りですか……」
伯爵はあまり乗り気ではなさそうだった。
「ちょっとした現地調査という名目ではどうでしょう。別に獲物を狙わずとも良い」
先生は簡単に引き下がるタイプではなかった。既に狩人の目つきになっている。
「そうですね……。祝宴までの時間に出かけるのも悪くないでしょう」
縮こまった伯爵がぎこちなく笑みをつくった。
「カミル君はどうだい? 勿論、一緒に来るんだろう?」
「ええ。是非ご一緒させてください。アルデラの動植物のことなら、僕からもご説明できるでしょうし」
僕は即答した。伯爵が積極的でないことは見て取れたが、僕にも意地がある。
地元なら僕にも分があるし、先生だけに高説を垂れさせてばかりいられない。
伯爵は祝宴の日の朝、馬と銃を手配させると約束した。
「さて、では楽しいお話のお礼に、私の品物もご覧いただきましょう。昨年はぶどうの出来が非常に良かったので、極上の赤ワインがあります。明日の祝宴でお出ししますが、先にお試しいただいて、どれをお楽しみいただくかお選びください」
そう言って伯爵が席を立ち、初老の召使いを呼んだ。部屋の外でヒルシュ氏も呼んではどうかという声が聞こえ、隣の部屋にも声がかかったことが伺えた。
***
その後はどうなったと言えば、僕は先生、ヒルシュ氏とともに赤ワインに舌鼓を打ち、酔いどれ気分で再びベッドに倒れた。
そして、それからはご承知の通り、祝宴のその日の朝、狼に喰われる一歩手前で、僕は庭師の少女に救い出されたのだった。