吸血鬼狩り 十 ~ 権謀術数 (上)
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「これはこれは。どうしたというのですか」
補佐司教に続いて、アーチボルドたちペスト医師たちが部屋の前に駆けつけてきた。しかし、補佐司教は彼らを制すると、部屋の外で待機するように指示した。
「早く手当を……」
「これは貴方がたの領分。そう考えざるを得ないのです。何らかの怪現象が起きている。違いますか?」
私の言葉に対して補佐司教がゆっくりと答えた。そして、補佐司教は傾いた手術台の上に手を伸ばすと、勿体ぶるように何かを手に取った。それは小さな鍵だった。
「……貸していただけますか?」
「どうぞ」
カミルは補佐司教から鍵を受け取ると、開きっぱなしのまま壊れた扉の鍵穴に差し込んだ。鍵穴の中で歯が噛み合う心地よい音が鳴り、既に無用となった鍵がかかった。つまり――
「どうして鍵が部屋の中にあった? 子爵を襲った者はこの部屋を閉ざして、それからどこに行った? いや、どうやって……どうして密室を作った?」
ギュレイ卿が部屋の外から矢継ぎ早に疑問を投げかけた。鍵が中にあったということは、この部屋はクルジュスコールの毒ガス騒ぎの間、完全に密室だったということに他ならない。
「吸血鬼、か」
私の応急処置を受けながら、ボルネミッサ卿がぼそりと一言だけ呟いた。その言葉に、ギュレイ卿が苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。吸血鬼なんて、そんなことはない。何かカラクリがあるはずだ。この部屋の中、それにクルジュスコールを調べなければ。私が目を合わせると、先生はすぐに事情を察して補佐司教に尋ねた。
「補佐司教殿、ここは私共にお任せいただけませんか。吸血鬼の仕業だなんて騒動になる前に、問題を解決いたしましょう」
「一体、何様のつもりだ。貴様」
総督のバートリ卿が先生を指差して唸った。先生は穏やかな無垢な少女の顔で総督を振り返った。
「自己紹介が遅くなり申し訳ございません。私はコルヴィナの王立アカデミーから参りました、怪現象の調査官です」
「なっ……」
バートリ卿が目を丸くして、今度は補佐司教を見た。
「総督にもお伝えしたはずなのですが……どうやら行き違いがあったようですね」
補佐司教が微笑みを浮かべたまま、青褪めた顔になった総督の代わりに答えた。
「クルジュスコールはクルジュスコールの自治を守らねばなりません。しかし、その上位にはコルヴィナの王冠があります。彼は女王陛下の勅命を受けておられます。ここは調査官殿にお任せしては如何でしょう? 総督?」
「……」
しばらくの沈黙の後、確認するように「良いだろう」と一言だけ残して、バートリ卿はギュレイ卿と共に部屋の前から去っていった。二人の代わりに、ペスト医師たちが部屋の前に居座った。調査が正しく済まなければ、部屋から離れることすらできそうになかった。
「さて、困りましたね」
ペスト医師の群れの中から一人、アーチボルドだけが補佐司教に向けてくぐもった声を発した。
「我々が地下にいた時、地上では貴族の皆様がそれぞれ手術台を準備した部屋に分かれ、瀉血を受けていたはず……。それがまさか、子爵閣下が襲われ、女伯殿が姿を消す事になるとは」
「皆さんのお考えは?」
「恐らく最初から仕組まれたものではないでしょうか」
カミルが補佐司教の問いに答えた。
「子爵閣下は総督府内で命を狙われるだけの理由があり、暗殺紛いの計画があったと聞いています」
「なるほど?」
「これは噂されている怪現象ではありません。そもそも、吸血鬼などいないはずです。誰かが閣下を陥れるために閣下本人を襲い、そして妹であるクルジュヴァール女伯を拉致した、そのように考えられます」
カミルはゼレムの村で魔女の調査をした時と同じく、怪現象の原因を否定する旨を述べた。これまでに密偵の話や私たち自身の調査で得られた情報を総合すれば、妥当な理屈だろう。しかし、黒幕が誰なのかということは、まだ断言できる段階ではなかった。
「この状況に政治的な意図があると? それなら君たちは首を突っ込まないほうが良いのではないかね? 確かに最近の『公国派』の態度は目に余る。しかし、誰がこんなことをしたのか、私は犯人の顔も見ていない。それに犯人が分かったところで、それが誰かなど大した問題ではないだろう」
手術台の上に腰掛け、布巾の上から首筋の傷を抑えながらボルネミッサ卿が口を挟んだ。彼の口ぶりは、二回も襲撃に居合わせた、私たち全員に対する疑惑を含んだものだった。
「そこは王立アカデミーがどうにかするでしょう。我々は総督府において、政治的に公平な立場ですから。現在の問題は、犯人が何故、どのように密室を作ったかという点です」
先生がすぐに話題を切り替えた。帝国から密偵の力を借りている時点で政治的に公平ではないのだが、これ以上、議論すべきではなかった。
「そして今から問題を解決すべく、この部屋、そしてクルジュスコールを調査いたします。そうだな、カミル君?」
先生の少女の笑みを見て、カミルは大きく頷いた。
***
私たちがクルジュスコールを調べて歩く間、ペスト医師たちはどこまでも私たちの後を付いてきた。彼らは目ざとく餌を狙う鴉のように私たちを観察し、そして同時に監視しているようだった。結果的に、私たちは彼らが別の手段に及ぶ前に調査を終え、再び補佐司教とボルネミッサ卿が待つ部屋へと戻ってきた。
結局、私たちが調べた部屋のどこにも黒衣のクルジュヴァール女伯、ハラー夫人の姿は無かった。だが、ボルネミッサ卿が襲われた状況については、カミルが彼の推理を話すことになった。
ボルネミッサ卿が倒れていた部屋は、他の貴族が瀉血を受けた部屋と同様の間取りだった。手術台があり、手術用の器具を入れた棚があり、水を貯めておく瓶が置いてあり、そして外に通じる窓がある。窓も扉と同様に鍵がかかっていた。
だが、医学部の校舎の窓には、明らかに他の校舎の窓と異なる点があった。それは万が一に備えて上部に換気口が付けられているということだった。つまり、換気口を通るものであれば、密室を抜けることができた。
「換気口を利用すれば、外から窓の鍵をかけることができます」
カミルはそう言いながら窓の鍵に糸を引っ掛け、その端を通気口から外へ垂らした。そして、外に出て窓を閉めると、瀉血時に血管を縛る結紮用の糸を引っ張って窓の鍵を閉めた。この方法であれば、吸血鬼のように霧に姿を変えて消えるという芸当も必要ない。部屋の通気口を調べると、糸が通って汚れが消えた痕跡が二つ――事件の時とカミルの再現、両方が見つかった。
「なるほど。この方法であれば誰にでも実行できますね。実に面白い」
アーチボルドがカミルに拍手を送った。
「ですが、子爵閣下を襲った者が吸血鬼でなかったという理由にはなりませんね。何しろ、子爵閣下の首を傷つけた凶器がどこにも見当たりません」
アーチボルドは用心深く鍵を開け、窓を開けた。
「首から鎖骨にかけた首筋の左側面に四箇所。子爵閣下の傷跡に合致するような道具は、この部屋にはありません。犯人が持ち去ったか、あるいは持ち去らざるを得ない物……例えば、吸血鬼の牙だったかも知れません」
カミルはアーチボルドの手を借りて、再び部屋の中に入った。
「証拠を残さないように、凶器はもう無くなってしまったはずです」
カミルは落ち着いた様子でアーチボルドの問いに答えた。
「どこかに捨てたか、あるいは壊したということですか?」
「というよりも、壊れるように作ったんです」
そう言うと、カミルは水瓶を指差した。
「他の部屋の水瓶よりも水量が多い。この部屋の水瓶だけ、水が増えたんです」
「水量と凶器にどんな関係が?」
「氷です」
カミルは部屋に落ちていた布巾を手に取った。何の変哲も無い、瀉血の際に血で汚れた布巾に見えた。
「犯人は他の被害者と同じように、出血以外の何らかの方法で子爵閣下を殺そうとした。その後、子爵閣下の首筋を氷の牙で刺したんです。あたかも吸血鬼の仕業に見えるように。犯人は氷の牙から血を拭き取り、水瓶に入れたんです。時間が経てば氷は消えてなくなります」
カミルの話を聞く間、ボルネミッサ卿は左目だけで水瓶をじっと見つめていた。今、水瓶の中はただの水で満たされている。
「犯人は毒ガス騒ぎを起こした者と共犯のはずです。騒ぎが起こる前に子爵閣下をこの部屋に呼び出して、閣下が油断した隙を付いて殺そうとした。そして、示し合わせた毒ガス騒ぎで時間を稼ぎ、外へと逃げたのです」
「何故そんな手の掛かった真似をする? 何の意味がある?」
「密室を作ったり毒ガスを使って時間を稼いだ理由は、人間業では不可能に見せかけた方法によって、吸血鬼の恐怖を呼び起こそうとしたからです。犯人たちにとっては、吸血鬼という恐怖の対象を生み出すことが、政治的に重要な意味を持つことなのではないかと思います」
「ほう」
アーチボルドが感嘆の声を上げた。
「素晴らしい。実に素晴らしい推理です。ですが、しかし……」
突然、アーチボルドはボルネミッサ卿の左横に立った。そして、傷跡に顔を近づけた。
「マスター――」
補佐司教の呼び掛けにも止まらず、突然、アーチボルドはボルネミッサ卿の首筋を掴み、手早く血の滲んだ包帯を剥ぎ取った。その瞬間にボルネミッサ卿が痛みに耐えるように小さく呻いた。
「子爵閣下の傷跡は小さすぎます。それに、氷の牙を突き刺したというのであるとしたら、力の掛け方が均一すぎると思いませんか?」
アーチボルドが傷口を一つ一つ検める間、ボルネミッサ卿はじっと堪えるように俯いていた。
「それは……」
カミルが答えに窮して口ごもった。
「上下の顎で噛み付いたという方が合理的でしょう。これまでの犠牲者も同じ傷口のはず。氷の牙でそんなことが可能でしょうか?」
確かに、首に四箇所も、他の犠牲者でも同様の傷を付けるには、氷を使う方法では困難だった。しかし、現時点でそれ以外に可能な方法は、アーチボルドが言うように発達した牙を持つ何者かが噛み付いた、即ち吸血鬼の存在を認めることにもなりかねない。
結局、その日の一旦調査は打ち切られることになった。
「誰にせよ何にせよ、大掛かりな事件を引き起こして、子爵閣下と女伯殿のご兄妹を陥れようとした外部の者がいるということは紛れもない事実のようですね。本日の調査、ご苦労様でした」
しかし、補佐司教の労いの言葉には、調査は十分だという意志がはっきりと表れていた。事件の全貌は内部の犯行に見せかけた外部の人間が、吸血鬼を装ってボルネミッサ卿とハラー夫人を襲ったという点のみが強調されている。それは補佐司教やクルジュスコールの都合の良いように修正された事実のように思えた。
外部の人間といえば、ギュレイ卿が指揮して校舎の外にいた軍人以外に考えられない。本当に彼らがこの事件の黒幕なのだろうか。それについてボルネミッサ卿は一言も意見を述べなかった。アーチボルドも、カミルの推理を否定こそすれ、陰謀自体は否定しなかった。
「私たちは、上手く吸血鬼の罠に誘導されたのかも知れん」
「先生まで、そんな……」
帰りの馬車の中で、先生の一言にカミルは大きく肩を落とした。
「まだ調査を終えるわけにはいかないということだ。そんな気落ちするな」
「しかし、状況はクルジュスコールにとって有利に運んでいるのではないでしょうか。犯人不明のまま、外部の誰かが陰謀に関わっているだなんてことになれば――」
「我々は我々の方法で打開するしかない。政治は貴族に任せて、我々の仕事をするのが先決だ」
そう言いながら、先生は無垢な笑顔を浮かべるのだった。




