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吸血鬼狩り 三 ~ クルジュヴァール

 聖ミカエル教会はかなり古い建築様式の、伝統的な使徒派教会だった。遥かな高みにそびえ立つ尖塔と、天井の重量を支えるために外に張り出した飛び梁。近くを歩いているだけで、精神的に圧倒される建物だ。


「ごめんください」


 僕は彫刻の施された教会の扉を叩いた。扉の取っ手は磨き上げられ、少しの曇りもない。返事がなかったので、僕はためらいながらも取っ手を押した。


 教会の中はステンドグラスによって、鮮やかな光に包まれていた。ステンドグラスは一枚一枚が福音書に記された聖人やシーンを模したものだ。冷たく荘厳な教会の身廊の奥には、白い法衣の人影があった。祭壇付近はドーム状になっており、まるで鳥籠の中に白鳥が佇んでいるように見える。


「……ああ、父よ……あなたが与えるならば……私が与える……」


 法衣の人物は祈りを捧げていた。僕たちが大理石の床を歩く音にも気付いていないようだった。


「暗闇への……水の……銀……」


 不意に祈りが止み、法衣の人物が立ち上がった。香炉から立ち上る煙が揺らめき、仄かな香りがこちらまで届いたような気がした。


「司教殿?」


 先生が法衣の背中に声をかけた。いつものバリトンの声が一段と低く教会に響く。法衣の人物が首を傾けて振り向いた。


「悩める子羊たち。今日はどのような御用向きですか?」


 癖の強い茶髪に灰色の瞳、そして張りのある声。若い女性だった。


「失礼ですが、貴女がこちらの教区の司教殿ですか?」


 若い女性はゆっくりとこちらに向き直った。白い法衣に厚い聖布。その服装はヴァルド市のヴィルジニア・オットボーニ司教と寸分も変わらない、正式な司教のものだ。


「半分は正しく、半分は誤りです。ここはゲオルギウス・フラーテル大司……司教殿の教区ですから。私は彼を助ける補佐司教の一人に過ぎません。何しろ、ジェピュエル総督府には十三も教区があるものですから」


 補佐司教の言葉に、先生が三角帽(トリコーン)を脱いだ。


「それは存じませんでした。ご無礼をお許しください。申し遅れましたが、私はコルヴィナの王立アカデミーに委任されて参りました、調査官のミシェル・ワーズワースと申します。こちらの二人は私の助手です」


「ワーズワース殿……ええ、司教殿から伺っておりますとも。ゼレムの村で起きた《魔女》騒動の始末をつけてくださった、と」


 補佐司教が小首を傾げて微笑んだ。


「私はこのクルジュヴァール市で司教総代理を務めております。補佐司教のクロブシツキー・ヘンリエット。お会いできて光栄です」


 クロブシツキーという家名はどこかで聞いた覚えがあった。僕の記憶が確かならば、コルヴィナの王宮に仕えている貴族のはずだ。高位の貴族家門ともなれば、若年の司教であっても不思議ではない。


「どうぞお掛けになってください。今、司教殿の特許状をお持ちいたします」


 そう言って、補佐司教は司祭の待機室に入っていった。


「補佐司教、か。面食らう展開だな」


 先生の予想外の言葉に、僕は思わず尋ねた。


「どうしてですか?」


「補佐司教は大司教の下に就くものだろう。ここはあくまでも司教区だ。いくら十三も教区があるからと言って、補佐司教が司教総代理になることはない。オットボーニ司教の司教総代理だって、アウレリオ司祭一人だろう。あの補佐司教の口ぶりからは、司教総代理が他にもいるように思える」


 確かに奇妙ではある。まるで、補佐司教たちが総督府司教区を分担して司牧しているようだ。


「お待たせいたしました。《吸血鬼》について、どうぞご自由に調査を」


 特許状を携えた補佐司教が現れ、会話は中断した。


「ありがとうございます。ところで、フラーテル司教殿と直にお会いできませんか?」


 先生が早速、本題を切り出した。総督府司教ゲオルギウス・フラーテルの正体を掴むことも、僕たちの調査の一環だった。


「司教殿は、修道士として修道院での修道生活に入っておりまして、今は限られた人としかお会いになられないのです」


「修行ですか?」


「ええ。このクルジュヴァール市の北に山地があるのはご覧になったでしょう? 昔は軍事的拠点として重用されておりましたが、その時に多くの地下道や洞窟が掘られ、そして洞窟修道院が造られました。司教殿はそこで修道生活に入っているのです」


「それでは、司教殿との連絡はどのように?」


「今は(もっぱ)ら文書のやりとりで済ませています。王立アカデミーからの調査協力についても、私を通じて手紙でしか確認しておりません」


「なるほど。それはなかなか難儀なものですな」


「司教殿にもお考えがあってのことですから。それに私たち補佐司教がいれば、聖務に支障はありません」


 先生はいつものように無垢な少女の笑みを浮かべている。しかし、しつこく詮索はしていないが、補佐司教に対して疑いを抱いているのは間違いなかった。その証拠に、修道士司教から送られてきた暗号の手紙は隠したままだ。


「それで、調査はどのようになさるのでしょう? 私にご協力できることはありますか?」


 補佐司教も先生に負けず劣らず、善意の塊のような笑顔を浮かべている。言葉の真意のほどは伺い知れないが、少なくとも予想よりも友好的な態度ではあった。先生は一瞬、考えるような素振りを見せ、それから僕を振り返りながら口を開いた。


「調査とは関係無いのですが……恥ずかしながら私の助手がクルジュスコールを一度でいいので見学したいと申しておりまして。勿論、無理にとは言いませんが。機会があれば是非」


 先生はやはりと言うべきか、僕をダシにして話を作り始めた。一応、僕もまんざらでもないように、首を縦に振って見せる。


「それは難題ですね」


 補佐司教は少し困ったような表情になった。


「クルジュスコールはジェピュエル公……総督府の要。色々と理由はありますが、領主の許可無く入ることはできません。たとえ、司教の特許状があったとしても」


 釘を差すように、補佐司教は先生に手渡した特許状を指差した。


「どうしても無理ですか」


「どうしても、と言われましても……でも、そうですね……」


 補佐司教は背後の祭壇を振り返り、香炉を手に取って揺すった。仄かな甘い香りが周囲に漂った。


「近々、この教会で総督を選出する議会が開かれます。その際に、総督府各地を代表する大貴族(マグナート)がクルジュヴァール市に集合します。折角の機会。市内で催しもありますから、場合によっては大貴族(マグナート)に近づく好機に恵まれるでしょう」


「つまり、我々の運次第と言うことですか」


「皆様に幸運を。神のご加護を祈っております」


 それだけ言うと、話は終わりだと言わんばかりに、補佐司教は祭壇の前に再び膝をついて聖句を唱え始めた。



***



 聖ミカエル教会を後にして、僕と先生は市内を廻ることにした。先生は御者に、予め手配している隊商宿まで、先に卯月を連れて行くように指示した。市内では単なる行商を装っておいたほうが安全だという、ユーリヤからの助言だった。


「クロブシツキー・ヘンリエット……あの補佐司教は信用ならんな」


「同感です」


 珍しく先生と僕の意見は一致した。


「本物のゲオルギウス・フラーテルがいなくても、文書だけならどうとでもなる」


「先生は司教が……既に死んでいると?」


「そうかも知れない。あるいは監禁されているとか。暗号の手紙は救援を仄めかしたものとも考えられる」


 先生は地図と通りの建物を交互に眺めながら、時折、地図に印やメモを書き込んでいった。相変わらず地図への信用は皆無だ。


「早いうちに連絡役から情報を得ておいた方が良いだろう。今、最も怪しいのはクルジュスコールだが、そこに入る手段が必要だ。運試しでは心許(こころもと)ない」


 先生の言う通りだった。クルジュヴァール市で頼れるものは何もない。司教の特許状があると言っても、司教本人が不在の今、それを反故にするだけの権力は領主や補佐司教の側にあるのだ。聞き込み一つとっても、危ない橋を渡ることになりかねない。


「連絡役は君の役目だったな、カミル君」


「分かっています」


「私は市内を見てくる。君はできるだけの情報を持ってきたまえ」


 先生は再び市壁のほうへと歩いていった。一人になった僕は路地の影に隠れ、黒い装丁の福音書を取り出した。福音書の表紙を開き、ページに挟まれていた紙片を取り出す。紙片には《妖精(ニンフ)の泉》という装飾品店と思しき店名と、その場所が記されていた。店は市内の北側、市壁の無い川沿いにあるようだった。僕は山を目印に店を目指した。


 橋の向かい側に、宝飾品や装飾品を取り扱う店の看板が見えた。僕は遠目から店構えを確認した。明らかに婦人向けの装飾品を扱っている店である。店名の時点で気付くべきだった。


 僕は何とも気不味い気分になってきた。肌着を買いに行った時に応対してくれたのが店主の娘で、言うに言われぬ恥ずかしい思いをした時と似ている。《妖精(ニンフ)の泉》は通りにある他の建物と同じく三階建てで、窓際には若い針子たちの姿が見えた。針子は飾りの付いた帽子を被って、首飾りを見せつけるように胸元の開いた服を着ている。店の広告代わりということだろう。


 一人の針子が僕の視線に気付いて、笑顔で手を振った。黒髪(ブルネット)の美しい娘だった。僕は彼女に反応できないまま、首をあちこちに回して周囲を眺めている振りをした。そのうち、針子の手元でレースのついた黒いハンカチが揺れているのが見えた。僕は目を見開いた。


――連絡役だ。


 僕は一目散に店に入った。上品な婦人がカウンターから「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。店の中に、僕以外の客はいなかった。


「どのような物をお探しですか? 奥様に? それとも恋人かしら?」


「あの……えっと……」


 僕は口ごもった。こんな店に入るのは初めてだった。すぐには言葉が出てこない。婦人は男の客に慣れているらしく、すぐに話題を変えた。


「外から針子をご覧になられたのでしょう。どの娘が付けていた物をお望みに?」


「あ、黒髪(ブルネット)の……」


「お呼びしますわ」


 婦人はカウンターの背後にある伝声管に向かって名前を呼びかけた。すぐに上階から針子が降りてきた。


「イネッサです」


 着飾った針子は挨拶も優雅だった。最初から、こうして店の中で男と会うのが仕事であるというように。そこでようやく僕は自らの勘違いに気付いた。そうだ。この店は、最初から、そういう店なのだ。卯月と一緒でなくて本当に良かったと、僕は心の底から安堵した。


「どれにいたしますか? 首飾り、指輪、ブレスレット……」


 僕はユーリヤの巾着袋で大いに潤った財布を開いた。これだけあれば不足しないはずだ。


「全部。お願いします」


「まあ。すぐお持ち帰りに?」


「ええ」


「それなら、お包みする必要はないでしょうね」


 婦人は少し微笑み、金を受け取ると、僕と針子が一緒に店から出ていくのを見送った。


「お楽しみに不慣れなのかしら。帝都の殿方ですのに」


 イネッサと名乗った針子は僕の腕に両手を回しながら言った。娼婦を買う男だと思われないように、紳士のために気を利かせた店は帝都にもあった。だが、そういう店を使うのは、体面を保ちたい既婚の男や官僚、つまり富裕層だった。僕のように奨学金で留学している学徒では縁はない。


「これはお楽しみではないですから。どこか静かで隠れられる場所はご存知ですか?」


「ふふ、仕事だからこそ楽しまないと」


 調査のことなど何処吹く風というように、イネッサはその豊かな胸を僕に押し付けた。柔らかな感触と温もりが伝わってくる。僕は緊張で声が出なくなってしまった。


「こちらへ」


 イネッサに導かれるまま、僕は人通りの無い裏路地を通り、民家へと入った。窓には布が掛けられ、中は薄暗い。


「さあ、お脱ぎになって」


「いや、先に話を――」


 イネッサが人差し指を僕の口元に添えた。


「お話は後でゆっくり。まずは楽しみましょう。二人だけで」


 そう囁いて、イネッサは僕をベッドに押し倒した。

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