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吸血鬼狩り 一 ~ 黎明

 クルジュスコール――二百年以上も前から続く秘密の学舎は、見晴らしの良い山の裾野に建っていた。かつての要塞を増改築して作られた学舎の敷地内には、侵入者を阻む石壁があちこちに残っている。そこから石材を切り出して再利用し、建物の補修や増築に使っているらしい。


 薄暗い洞窟に設置された昇降機の中に入った時は、一体どんな場所に連れて行かれるのかと不安だった。しかし、昇降機から一歩外へ出てみれば、そこに建っていたのは爽やかな草花に囲まれた石造りの学舎だった。クルジュヴァール市を一望できる立地にある学舎は日当たりも良く、一瞬でそれまでの怪しげなイメージを覆してしまった。


「これほど立派なものとは……驚いた」


 ガリアの王国から招かれた貴族の使者が感嘆の声を漏らす。僕も同じ意見だった。クルジュスコールは単なる秘密に満ちた場所ではなかった。これまで多くの学生に知識を授けてきた学舎であり、その権威は今も衰えていないようだ。


 先生と卯月そして僕は、ジェピュエル総督府の貴族や、他国から招聘された使者や学者とともに、クルジュスコールの中を案内されることになっていた。しかし、他の人々にとっては単なる興味本位や儀礼上の見学でも、僕たちにとっては違う。ここまで来るのに既に多くの犠牲が払われていた。


 ジェピュエル総督府の住民だけでなく、帝国から送り込まれた密偵までもが殺された。総督府内に巣食うという《吸血鬼》によって。 


「どうぞ、ささ。どうぞ。こちらへ」


 純白の法衣を纏った若い女司教が僕たちを先導する。総督府の司教はゲオルギウス・フラーテルただ一人である。他に司教がいるのは、ジェピュエル総督府が公国の時代、公国全土が公都ベルグラードを中心とする大司教座だった頃の名残であり、彼らは補佐司教という立場だった。ベルグラード大司教区が総督府司教区に格下げされた後も、補佐司教がいなければ広大な教区を管理できないというのが実態だった。


 補佐司教の一人、クロブシツキー・ヘンリエットは癖の強い茶髪を揺らしながら、軽やかな足取りで学舎の扉を開いた。彼女のすぐ後ろをジェピュエル総督府の総督、ベルグラード侯爵バートリ・バルトシュ、さらに当地の領主、クルジュヴァール女伯ハラー・ヨゼフィンらが続く。


 貴族たちが学舎に姿を見せても、学生たちは落ち着いた様子で、日常的な態度を改めはしなかった。彼らは見学について予め知らされた上で、あえて学舎の自治を強調しているようにも見えた。


「最近の若者は領主に対する敬意が無いのか」


 学生の態度がふてぶてしく映ったのか、総督が鼻を鳴らした。


「いえいえ、そのようなことはありませんよ。女伯殿が顔をお隠しになられているので、学生も気付かなかっただけでしょう」


 ヴェールと扇子で顔を覆い隠した女伯を一瞥し、補佐司教は学生たちに掌を振って「向こうへ行け」と合図を送った。学生たちは蜘蛛の子を散らすように、廊下を歩いて僕たちから遠ざかっていった。


 学生の数こそ帝都の大学よりも少ないが、クルジュスコールの設備は真新しいものも多く、地方の学舎とは思えないくらい充実していた。一方で、屈折式望遠鏡や古地図の地球儀など、時代を感じさせる道具もあり、由緒正しい学舎であることを物語っている。


「よろしければ、医師たちが皆様に最新の麻酔による無痛瀉血を施しましょう。不快な痛みもなく、健康にも良い。如何ですか?」


 補佐司教の無邪気な笑顔に、貴族と使者たちは顔を見合わせた。


「悪い提案でもあるまい。本当に無痛かどうか、試してみようではないか。ジェピュエル随一の医師たちなのだろう、女伯殿?」


 トルダ子爵ボルネミッサ・イグナーツが周囲を見回し、一歩前に出た。子爵と女伯は兄妹である。女伯を見る子爵の右目が不気味に光った。義眼だった。


「ええ。彼らの腕は確かです」


 扇子で口元を隠したまま、女伯が短く答えた。貴族と使者たちは仮面を被ったペスト医師の一人に案内されるまま、医学部の校舎へと向かっていった。残ったのは僕たちのような学徒と補佐司教だけだ。


「学者の皆様にはこれだけでは物足りないでしょう?」


 クロブシツキー補佐司教が先生に尋ねた。先生はいつも通りの少女の笑みを見せた。


「そうですな。素晴らしい学舎ではありますが、それだけではクルジュスコールが王立アカデミーに貢献するほどの成果を出しているか。判断するのは難しい」


 僕たちがクルジュスコールを訪れた表向きの理由は、彼らの研究について報告書を書くためだった。わざわざ特別な理由を付けて許可を得なければ、クルジュスコールに入ることすら許されなかったのである。瀉血だけで引き下がってしまっては調査にならない。


「地下の病棟はガス漏れの危険もあって、あまりお見せできる所ではないのです。ですが、今回は皆様だけに特別にお見せしたいものがあります。参りましょう」


 明るい笑みを浮かべた補佐司教に促され、僕たちは学内に設置された昇降機に乗り込んだ。昇降機は二台が滑車で繋がっており、一方が動くと他方が逆方向に動くようになっている。その動力は屍人形だった。


「申し訳ございませんが、この昇降機は四人までしか乗れません。まずは皆様と私で下に降りましょう」


 僕たちが昇降機に乗り込むと、補佐司教が懐から取り出した鐘を鳴らした。屍人形が鐘の音に反応して歯車のハンドルを回し始めると、昇降機はゆっくりと地下に向かって動き出した。


「階段は無いのかね?」


「元が要塞だったものですから、狭くて急な階段しかないのです。患者を安全に運ぶには昇降機が良いと。医師たちの提案です」


「なるほど」


 先生と補佐司教が話しているそばから、昇降機が揺れた。本当に安全なのか不安になる。それでも昇降機は止まらない。薄暗い竪穴を下るに連れて、段々と奇妙な音が耳に届くようになった。それは遠吠えのようでもあり、祈りのようでもあった。


「何の音ですか?」


「歌ですよ」


「歌?」


 昇降機が止まり、落下防止用の柵が開いた。


「お嫌いですか?」


「いえ、別に」


「ではあまりお気になさらず。治療中の作業の一つに過ぎませんので。しかし、どうか彼らの邪魔をしないように」


 補佐司教は僕の問いに笑顔で答えた。その間も歌は続いている。上に残っていた学者たちと合流すると、補佐司教は歌の源へ向かって地下の廊下を歩み始めた。最初は囁きのようだった歌も、廊下を歩いていくにつれてはっきりとした旋律へと変わっていく。しかし、よく耳を澄ますと、歌の合間に女性の悲鳴や呻き声としか思えない声が混じっている。


「人の交わりは愛によらないこともあります。色欲、嫉妬によることもしばしば。しかし、それに伴う痛悔によって人は生まれ変わることができます。医師は贖罪を助ける司祭でもあるのです」


 補佐司教は呟き、おもむろに扉の一つを開いた。その先に見えたのは聖歌を唱えるペスト医師たちと、分娩台に横たわる痩せた妊婦の姿だった。妊婦は荒く呼吸しながら、時折、呻き声を漏らしている。どうやら陣痛が始まっているようだった。


「ようこそ」


 扉の影から一人のペスト医師が現れた。鍔広帽に白い飾り紐をつけたペスト医師は、アーチボルドと名乗った。


「どうか学者の皆様にご説明を。マスター・アーチボルド」


「彼女は『くる病』でしてね。皆さんの地元でもよくあったでしょう。栄養不足で骨盤が狭くなっています。ですから、胎児が産道を抜けられないのです。自力での出産は不可能でしょう」


 補佐司教から言葉を継いで、アーチボルドが妊婦の病状を説明し始めた。病気の妊婦のために、ペスト医師たちは助産を行っているということだった。分娩台の踏み台を動かして妊婦の姿勢を調整したり、金属製の医療器具を取っ替え引っ替えしたりと、その動きは慌ただしい。しかし、不思議な歌に合わせて、一糸乱れぬリズムで作業は進んでいる。


「まずは胎児の頭の大きさに合わせて、『口』を切ってやります。多少の痛みが伴いますが麻酔は使えません。陣痛が弱まれば、子宮口を開くのに必要な圧力がかからなくなってしまいますからね」


 アーチボルドの説明を掻き消すように、妊婦が苦痛に満ちた悲鳴を上げる。それに合わせて、ペスト医師たちもくぐもった声で歌う。彼らの手に握られた鋏や鉗子は、母子の命を救う医療器具に違いないのだろう。しかし、たとえそうであったとしても、一見すれば拷問と何が違うのか理解し難い光景でもあった。


 妊婦の苦しむ姿を見て、学者たちもたじろいでいるようだった。僕は、果たして出産が成功するのか不安になってきた。出産を初めて目にしている卯月は、微かに震えているようだった。


「魔女狩りでは『口』を広げる拷問もありました。その時の道具も今では立派な医療器具です。結果的に同じ痛み、痛悔こそが人の心を変えるのですよ」


 補佐司教が誰に同意を求めるでもなく呟き、一人でせせら笑った。


 ペスト医師の一人が湾曲した鉗子を使って、胎児の頭を産道から引っ張り出そうとし始めた。歌声が大きくなり、妊婦の呼吸もさらに激しくなる。腹部の圧力が足りないと思ったのか、別のペスト医師が分娩台の上に乗って妊婦の腹を押す。横を見ると、卯月は既に分娩台から目を背けて顔を伏せていた。


 剥がれ落ちた胎盤の一部とともにようやく産まれ落ちた胎児を、ペスト医師が木桶で受け止めた。赤子は泣き声もなく、静かなままだ。


 一瞬の静寂によって、僕は分娩室の空気が凍りついたように感じた。


 だが、その不穏さはペスト医師たちの歌によってすぐに払い除けられた。ペスト医師は速やかにへその緒を切り離すと、胎児の口に指を入れて羊水を掻き出した。些か乱暴なペスト医師の介添えによって、ようやく胎児は産声を上げ始めた。


「ほう……」


 誰かが大きく息をついた。赤子の声を耳した学者たちは安堵したようだった。学者一同がアーチボルドとペスト医師たちに拍手を送る。しかし、ペスト医師の一人がアーチボルドに駆け寄って耳元に何事か囁いた。その囁きを聞き、アーチボルドは改めて説明を始めた。


「産後の悪露が止まらず、出血が続くことがあります。悪露を止めるために子宮収縮の薬も投与しますが、失われた血液が多ければ母体は危険な状態に陥るでしょう」


 アーチボルドは淡々と事実を述べた。分娩台の下に置かれた木桶に、血の雫が滴るのが見える。多量の出血から導かれる結末に対して、彼は何の感情も抱いていないようだった。


「しかし、ご安心ください」


 学者たちの不安を察したのか、アーチボルドが再び口を開いた。


「このような事態に備えて、我々は《血の医療》を開発しました」


 アーチボルドが杖を振ると、ペスト医師の一人が革手袋とマスクを外した。マスクの下から、あどけなさを残した少女の顔が現れる。


「ミルルカ。彼女に血を」


 アーチボルドの指示に、ミルルカと呼ばれた少女が無言で頷く。僕たちの見ている前で、ミルルカの腕と妊婦の腕が細い管で繋がれた。ミルルカは分娩台の上に登ると、自らの腕に瀉血用の錐を突き刺した。白い腕から鮮血が溢れ、細い管を流れていく。


「まさか、輸血術なんて……死んでしまう」


 学者の一人が後ずさりした。輸血は成功例が殆ど無い。むしろ、輸血によって死ぬ者のほうが多かった。悪戯に死者を増やすべきではないとまで言われ、ガリアの王国では輸血の人体実験が禁止されたほどだ。


「心配ありません。彼女の血は、祝福された血なのです」


「そんな馬鹿な」


「我々は真実を見ました。そして、これから皆さんも」


 そう言うと、アーチボルドは両腕を大きく広げ、天井を仰いだ。僕たちは押し黙って待っているしか無かった。妊婦が死ぬのか、それとも輸血で生き延びるのか――


 妊婦の体調が安定するまで、不思議な歌は続いた。それ以外には誰も何も喋らず、時折、母子の泣き声が聞こえるだけだった。分娩室での時間は、僕にとって奇妙なほど長く感じられた。しかし、出産と輸血が両方とも成功だったと知るまで、一時間とかからなかった。


 新たな生命も、死に瀕した生命も、どちらも救われたのだった。

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