陰謀狩り 四 ~ カーロイ家の人々
先生に会いに行こうと僕が階段に向かって引き返すと、ちょうど先生が二階に上がってくるところだった。
「菜園だよ、あれは。しかも、実に珍しいものがある」
先生はスケッチブックをめくりながら言った。こんなにも嬉しそうな先生の顔は見たことがなかった。
先生は紐のように伸びた蔓の先で膨らんだ奇妙な植物のスケッチを僕に見せた。
「芋だ。新大陸で採れるものだが、誰が持ち込んだのだろうか」
内海の一部の島々では、新大陸から戻ってきた宣教師が、気候に合う植物を実験的に育てていると聞いたことがあった。
しかし、こんな内陸の辺境で新大陸の植物を栽培しているという話は聞いたことがなかった。伯爵の進歩的な性格が庭園にも反映されているのかも知れない。
「もしかして、勝手に掘り返したんですか?」
「ちゃんと元に戻したんだから、問題なかろう」
道中の言動から既に分かってはいたが、この人はこういう人だ。調査官なのだから、どんなことにでも手を出すのが仕事とも言える。僕は問い詰める気も失せていた。
「確かに珍しいですね。でも、意外と栽培が簡単なんでしょうか」
「北部のほうが気候は合っているそうだが、あまり好かれてはいない。聖職者たちは悪魔の根と呼んでいる。芽に毒があるらしい。味は悪くないはずだが」
先生はそう言いながらスケッチブックを閉じた。
新しいものは常に議論の種になる。それが農作物であれば、年貢として納める相手で揉めることになるものだ。
領主か、あるいは教会か。無論、年貢にならない農作物もあるが、新大陸からもたらされた芋は、その有用性から奪い合いになっているのかも知れなかった。
「伯爵閣下は、教会を恐れていない。あるいは、このあたりでは教会も進歩的なのか」
先生は顎を撫でながら呟いた。
蔵書の種類から見ても、伯爵が熱心な啓蒙家であることは間違いない。そして、アルデラ伯領内で幅を利かせている宗教勢力の存在もまた、それを後押ししている。
そうでなければ、迷信の類を狩り出そうなんて発想は出てこないだろう。
***
「ご紹介いたしましょう。今回、我が領内で怪現象を調査してくださるワーズワース殿と、助手のカミル君です。カミル君は大学での我が学友でもあります」
伯爵の紹介で、広間に集まったカーロイ家の人々の目が先生と僕に集まる。伯爵とは親しくしていたが、彼の家族と会うのは今回が初めてだった。
僕は人前に立つのが得意な性格ではなかった。一人ならばまだ良かったものの、この時は先生という怪人物とセットにされてしまい、さらに緊張することになった。
広間の空気からは好奇や嫌悪、あるいは恐怖の入り混じった感情が伝わってくる。
たとえ目を合わせなくとも、その場に居合わせた召使いたちが僕たちに好意を抱いているようには思えなかった。
当然だろう。調査などと言って、奇妙な人物に仕事の邪魔をされたら堪ったものではない。しかし、その気持ちは僕も同じだった。
自分の故郷で、わざわざ厄介事に首を突っ込みたいと考える人間がいるはずがない。
先生は貼り付けたように無垢な笑みを絶やさず、慇懃無礼なほど深々と礼をした。続いて順番に出席者が紹介される。
「私の母のイザベラ。副伯のダミアーン。私の従兄弟です」
肥満した老婦人と、痩身に不釣合いな大きなカツラを被った壮年の男が順に挨拶する。
副伯は先生から預かった王立アカデミーの委任状と、先生の顔を値踏みするように交互に見合わせている。
続いて、人の良さそうな中年男が前に出る。侍医のヒルシュ氏だった。
「お待ちしておりました。私はヨハネス・ヒルシュ。伯母様の主治医です。どうぞお見知りおきを」
ヒルシュ氏が席を立ち、先生に右手を差し出す。先生はすぐに手を取った。
「ワーズワース殿のお名前は帝都にいた頃にお伺いしておりました。ルークラフト殿の下で新大陸に調査に出向かれたとか」
ヒルシュ氏は朗らかな笑みを浮かべた好男子で、洗練された都会の雰囲気を醸し出していた。どうやら二人の先生だけが、この場では部外者の《お雇い外国人》のようだった。
「怪現象などと言って、奇妙な噂話は今に始まったわけではないが、私一人では閣下にご助言を差し上げるには少々時間が足りないものでしてね」
ヒルシュ氏が肩をすくめた。
「悪魔がワインを酸っぱくしただの、深夜に森で小妖精を見ただの、あまりにも無知な訴状が多い……真剣に取り扱うものばかりではないのです」
ヒルシュ氏は愚痴っぽく先生の耳元で囁くと自分の椅子へと戻った。
「調査の段取りについては、司教殿と教区長がいらっしゃってから確認しよう。司教殿の許可書がなければ、調査する土地で何をされるかわからん」
ヒルシュ氏が椅子に戻ったのを見てから、副伯がちらりと伯爵に視線を向けながら口を挟んだ。
「もちろんですとも。今はゆっくり休んで長旅の疲れをとってもらいたい。明日には祝宴、それから旅支度。急ぐ事情もありますまい?」
伯爵が言葉を継いで先生に尋ねる。
「お心遣い感謝いたします。それでは今しばらく、お言葉に甘えさせていただきます、伯爵閣下」
そう言いながら先生はおもむろに立ち上がり、部屋の中を往復し始めた。人々の注目を集めながら、先生が口を開く。
「さて、ところで……どう思うかね? カミル君」
「何をですか?」
突拍子もない指名に僕は焦った。ここは講義の場ではないのだ。
「ワインが酸っぱくなるという現象について」
先生が暖炉の前で立ち止まり、僕を見る。その顔には試すような笑みが浮かんでいる。
「それは、ワインが酢になったのでしょう」
ヒルシュ氏がすかさず答える。恐らく、その通りだ。何も不思議なことではない。副伯が馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「それでは聞くが、何故に、ワインは酢に変じたのかね? 悪魔の仕業か?」
「え……? それは……」
僕は答えに窮した。現象に理由はあるだろうが、それは尤もらしいこじつけに過ぎない。しかし、聞かれたからには何か答えなければならない。そんな緊張が僕を支配していた。
「ワインから酢を作るには、ワインを薄める必要があります。だから、何かしらの原因でワインが薄くなっていたのではないですか?」
「なるほど。だが、樽の中のワインが勝手に薄くなるのかね」
確かに。誰かが意図的にワインを薄めたと考えるほうが自然だ。しかし、誰が? 何のために?
「訴状を出した者を貶めるために、誰かがワインを薄めた……とか、ですかね」
僕は怖ず怖ずと結論を出した。
「わからずともよいことだ」
副伯が冷ややかに言った。その声に、思わずと言った調子で伯爵が俯いた。
「その件はもう終わっている。訴えを起こした居酒屋は鞭打ち刑になった。自分の酒が売り物にならなくなった腹いせに、民衆に嘘を吹き込もうとした罰として、だ」
先生はフムンと言って頷くと、窓の外を向いた。
「憶測だけで物を言うのは止めておきたまえ。鞭だけでは済まないかも知れんぞ」
副伯が振り返って先生を睨みつけた。その動作のせいで、副伯の狭い肩の間でカツラが揺れた。
良い言い方をすれば、副伯ははっきりとした物言いをする人物のようだった。悪い言い方をすれば、険のあるタイプだ。
「もちろん、もちろん。心得ておきます。副伯閣下」
先生は副伯に微笑みかけ、再びゆっくりとした足取りで椅子へと戻ろうとした。
その時、伯母が独り言のように呟いた。
「森の小妖精はどうなのかしら?」
柔和な表情に好奇を伺わせ、伯母の視線は先生をしっかりととらえていた。あの時のヒルシュ氏の小声を聞き取っているとは、なんという地獄耳だ。
副伯とヒルシュ氏は何も言わなかった。伯爵は困ったように眉をひそめ、先生を見つめている。
「先程、庭園でこのような虫を見つけました」
先生は鞄からスケッチブックを取り出すと、一枚の素描を掲げた。それはバラの茎を這う、不気味な芋虫の絵だった。
「これは……何の虫ですか?」
ヒルシュ氏が怪訝そうな表情で尋ねる。
「蝶ですよ。成長すると、巨大な翅に美麗な模様を持った夜行性の蝶になります」
先生は芋虫の背中の上で、手のひらを翅のように揺らした。
「わが祖国、アルビオンでは珍しい種類ですが、帝国の東部にはよく生息しているようです」
先生はスケッチブックをめくり、大人の顔ほどもある巨大な蝶が描かれたページを開いて見せた。
「恐らく、これと見間違えたのでしょう。新大陸では、よく似たような蝶が小妖精だと言われて騒がれていました」
夜にこれだけ巨大な蝶が飛ぶ様子を見れば、小妖精と思うこともあり得るだろう。それが迷信深い農民であれば、尚更だ。
「あら、まあ。絵がお上手なのねえ」
伯母が歓喜の声をあげた。
「お誉めにあずかり、誠に光栄です。標本もございますが、よろしければ……」
先生が芝居がかった調子で大袈裟に両腕を広げる。
「いや、結構。もう十分だ。君の博識ぶりは分かった」
副伯がため息混じりに言った。
「そうですね……。は、母上も、お薬の時間がありますし、このへんにしておきましょう」
副伯に合わせるように、伯爵もようやく安堵したように言った。面白そうだったのに残念ねえなどと呟きながら、伯爵とヒルシュ氏に手を取られ、伯母が席を立った。
「今回、調査に協力いただく司教殿は筋金入りの保守だそうだ。調子に乗り過ぎないように気をつけてくれたまえ」
そう言い残すと、副伯はそそくさと広間から出ていった。
「我々も少し物を言うだけの芋に過ぎんな」
カーロイ家の人々が去った後、先生がボソリと呟いた。
「芋虫でないだけ、マシなのかも知れませんよ」
「そうだろうかねえ……」
先生はいたずらっぽく片側だけ眉を上げ、小首を傾げた。