狩人狩り 十三 ~ 刻限
「全ては始まりに戻り、灰燼に帰す……?」
皇女の指輪から始まった秘密の謎解き。そろそろ終わりかと思われたが、三つ目の秘密を前に僕たちは立ち往生することになった。
「どういう意味だ? まさか一つ目の秘密、木の指輪を燃やせとでも?」
先生がどう考えても取り返しのつかないことを言う。指輪の中に何かが隠されているなら、それが正解なのかも知れない。だが、指輪は一つの木から彫り出された物で、たとえ燃やしたところで跡には何も残らないと思われた。
しかし、先生の性格であれば人目を盗んで本当に燃やしかねない。僕は指輪を白いハンカチに包んでしっかりとポケットにしまった。
結局、二日目の謎解きは標本館で解散となった。先生は間借りしているという貴族の邸宅へさっさと帰って行ってしまった。一日で二歩も進めたのだから大成果だったと余裕を見せ、先生は最後まで上機嫌だった。
とはいえ、残り時間はあと一日しかない。先生の前向きな態度を見倣いたいところではあるが、そろそろ謎解きに失敗した場合のことも本気で考えねばならないと僕は思った。もしもこれ以上、秘密を解くことができなければ、手紙の暗号の内容を皇女に伝える必要がある。
「……どうかしたの?」
新市街にある行きつけの食堂で、上の空のままキャベツの酢漬けを頬張っていた僕に卯月が問いかけてきた。卯月とともに普段と同じように夕食を取っていたつもりだったが、彼女はすぐに僕の変化に気付いたようだった。
「いや、先生への手紙に何が書かれているのかなって思って」
「うん。気になる」
カワカマスの煮込みと白インゲンのスープを食べながら、卯月も同意する。彼女が魚や野菜を口にする量は僕より遥かに多かった。それは、それらの食材が廉価だからというわけではなく、東洋人の食文化の残滓であると僕が気付いたのは帝都に来てからだった。
「カミルが読んでも構わないんじゃないかな」
「え?」
僕は思わず卯月のほうを見た。彼女も僕の顔を見返す。
「先生はカミルに手紙を渡したんだから、興味が無いんだと思う。だったら、カミルが先に読んでいいんじゃない?」
「そうかも知れないけど……。黙って皇女殿下との謎解きの交換条件にあの手紙を使うのは、何か違うと思うんだよ」
「それなら猶更、今のうちに内容を確認しておいたほうが良いと思う」
卯月の澄んだ瞳が僕を見据える。僕は身動ぎできず、彼女を見つめ返していた。
「もーらい」
「あ」
卯月は大皿に残っていた子羊のリブにフォークを突き立て、自分の口に運んだ。それが最後の一切れだった。
「残しておくつもりだったのに……」
「早い者勝ち」
卯月は至福の笑みでリブを味わっている。その笑顔を見ると、怒る気にはならない。僕は卯月が東洋人の後裔である以前に、食わず嫌いの無い少女であることを忘れていた。
***
卯月と別れ、寮の部屋に戻ると、僕は意を決して一度はしまい込んだ手紙と暗号表を取り出した。ここは先生の言葉を借りてしまおう。知ってから後悔するほうが好みであると。であれば、今こそ後悔への一歩を踏み出す時だった。
暗号表と照らし合わせ、一文字ずつ隠された真の文字を明らかにしていく。復号された手紙は以下のような文章になった。
『ミシェル・ワーズワース殿
我ら血によって人となり、人を超え、また人を失う。
迷信狩りの狩人たちよ。
夜は長く、獣ばかりが増え、狩りは終わらない。
だからクルジュスコールに集い、瞳の奥を見よ。
神秘に見えるは人の幸福なり。
修道士司教』
率直に言って謎の文書だ。暗号を解いたのに、読み解くにはあまりにも不可解な文章が多すぎる。一つだけ分かったのは、《迷信狩り》に対してジェピュエル総督府のクルジュヴァールに存在する古い学舎――クルジュスコールに来いと命じているということだけだった。
《迷信狩り》を必要としているのであれば、クルジュスコールでも怪現象が起こっているのだろうか。元々、謎多き学舎なのだから何が起こっていても不思議はないが、学舎の優秀な学徒を差し置いて、わざわざ他国の博物学者を頼る理由は分からなかった。
あるいは、この手紙は怪現象抜きに、修道士司教なる人物から《迷信狩り》の調査官への、クルジュスコールへの純粋な招待状ということかも知れない。何れにしても、修道士司教はジェピュエル総督府やクルジュヴァールと関係の深い人物である可能性が高い。
また、ルークラフト卿にも似た手紙が送られており、その暗号を先生が解読していたようだから、コルヴィナでの調査報告書に名を連ねた他の人にも同じ手紙が送られた可能性もある。他に同じ内容の手紙があって、既にその内容を先生も知っているのであれば、この手紙の内容を皇女が知ったところで先生が損をすることはないのではなかろうか。
僕は手紙について考えを進めるうちに、少しずつ開き直り始めていた。もし指輪の秘密が最後まで解けなくても、その時は仕方ない。手紙の内容を皇女に知らせても、大きな問題なんて起こり得ないだろうと。
そうやって自分の行動を正当化しながら、僕は不安を紛らわせた。
たった一日。されど一日。まだ謎解きの時間はあるのだ。
***
報告書の作業が終わった後も、先生は解剖学教室の幽霊として君臨していた。ただ涼みたいという理由だけで、今朝も僕に手紙を解剖学教室まで運ばせる。しかし、いつもは涼しげな先生の面持ちが、今日はまるで違っていた。
先生は一通の手紙を握りしめ、手を震わせていた。顔は可憐な少女のままだが、表情が失せて人形のような作り物めいて見える。
「……どうかされましたか?」
「帝都に駐在しているジェピュエル総督府の領事から手紙が来た」
「……」
「私は一昨日、領事に宛てて手紙を送った。報告書が完成して、ジェピュエル総督府に報告書を送った旨を知らせる手紙を。それなのに、また催促が来た! 一体どういうことだ!」
先生は手紙を握り潰した。近くにあった椅子を蹴飛ばし、手紙を投げ捨てると、先生は肩で息をしながら机に拳を叩きつけた。これほど怒りに満ちた先生は見たことが無かった。
「連中は私を馬鹿にしている。それか、郵便局の怠慢だ。市内なのに一日で手紙が届かないとは」
顔を引きつらせて呆然としている僕の姿を見て、先生は大きく息を吐きながら三角帽を被り直した。
「すまないが、今日は郵便局とジェピュエル総督府の領事館に行ってくる。三つ目の秘密は君たちで解決してくれ」
「そんな……」
「私にも博物学者としての矜持がある。この程度の仕事もできないと思われたら堪らん」
先生にとっては皇女とのお遊びに比べれば、この調査報告が重要な仕事であることは間違いなかった。これほど怒りを顕わにする気持ちも分からないでもない。ずっと手直しの指摘と催促の手紙を渡してきた張本人である僕が言うのも変な話だが。しかし、秘密を解く最後の一日で、先生を欠くというのは大きな痛手だった。
先生は憤慨しながら解剖学教室を出て行った。今回も解読した手紙の内容については話すタイミングを逸してしまった。僕は仕方なく、卯月とともに秘密を解く鍵を探そうと思いながら植物園へと向かった。
しかし、この時間には既に庭仕事をしているはずの卯月の姿は、植物園の中には無かった。他の庭師に尋ねると、彼女はモンバール伯爵の依頼で、植木鉢や柵などの園芸用品の買い付けに出かけたということだった。戻ってくるのが何時になるのかも分からない。
どうにも今日は運が無かった。僕以外に謎解きを手伝ってくれる人間はいない。一人で三つ目の秘密を打開しなければならない状況に陥ってしまった。
植物園の片隅にある東屋で、僕は改めて紙片とハンカチに包まれた指輪を眺めた。「全ては始まりに戻り」とあるのだから、最初の秘密、つまり指輪と何か関係があることは間違いないように思われた。しかし、秘密を解く方法は見当がつかない。「灰燼に帰す」とは書いてあるが、それが何を意味するのか。
悩んでいるうちに刻々と時間は過ぎていく。いっその事、本当にこの指輪を燃やしてしまおうか。いや、しかし。残されている時間は少ない。二人は戻って来ない。迷っている暇は無かった。
僕は覚悟を決め、植物園の倉庫に余っていた藁を使って火を起こし、そこに指輪を投げ込んだ。指輪は火に包まれ、あっという間に燃え尽きた。跡形も無かった。
「……ああ!」
時すでに遅し。燃え上がる炎は無情にも灰を生み出しただけだった。僕は脱力して地面に蹲った。指輪は消えてしまった。だが、僕はどうすれば良かったのだろうか。
同じように火を使いながら、先生は知恵を駆使して謎を解決してきたというのに、僕はこの様だ。急に自分の愚かさに苛立ちが募り、僕は残された白いハンカチで火を叩いた。せめて目の前から、この火だけでも早く消えて欲しかった。
「くそっ!」
自棄になって、僕は灰塗れになるまでハンカチで焼け跡を叩いていた。白いハンカチは灰を被って薄汚れ、一つ目の秘密の文字が判読しかねるまでになってしまった。
だが、よく見ると、ハンカチは単に汚れただけではなかった。灰を被った部分のあちこちに、蚯蚓の這い回ったような跡が浮き出ている。
「これは……」
ハンカチを広げ直し、わざと灰を被せると、そこに文字が現れた。灰による炙り出しだった。三つ目の秘密は指輪ではなく、白いハンカチに予め仕掛けられていたのだ。
『最後の黄昏、大聖堂の瞳は狩人を捉える』
今度の文章には前置きは無かった。これが秘密の答えということだろう。大聖堂と言えば、旧市街の大聖堂を除いて他にはない。そして、その瞳とは大聖堂に存在する尖塔の中で最も高い南塔を示していることは明らかだった。
秘密を差し上げるなんて言っておいて、何のことはない。大聖堂の南塔へ来いということではないか。僕は一足先に大聖堂へ行くことに決めた。灰塗れのハンカチから読み取った文章とその解釈をノートに書き写すと、それを切り取って、卯月の部屋の扉と解剖学教室の先生が使っている机にそれぞれ差し込んでおいた。
陽は傾き始めていた。最後の黄昏は間もなく訪れる。僕は貴族と高位聖職者専用の正門を迂回して、市民用の小さな門から大聖堂に入った。大聖堂の中には黙々と聖務に励む聖職者や、祈りを捧げる貴族の姿がある。僕は荘厳な佇まいの彫刻やパイプオルガンを無視して、急いで南塔へと向かった。
南塔の螺旋階段へと続く扉を開く。内部に差し込む光は少なく、既に薄暮の後のように見える。じめじめと澱んだ空気を掻き分けるように、僕は薄暗がりに沈んだ石の階段を上った。
南塔の高さは優に百三十メートルを超える。その中腹には鐘楼を兼ねた部屋と巨大な時計台が設けられ、時刻の告知を以て、神の秩序の厳格さを伝えていた。
階段を上がるに従って、じっとりと汗が額を伝う。螺旋階段は無限に続くかのように思える。塔の内部に差し込む光が徐々に紅く染まり、頭上から五時を告げる鐘の音が響いてきた。
僕は力を振り絞って階段を駆け上がった。息も絶え絶えで時計台の部屋へと到達する。疲労のあまり、僕は膝から床に崩れ落ちた。
「とても惜しかったわ。でも、残念だけど時間切れ」
這いつくばる僕の頭上に、小鳥の囀りのような、明るい声が投げかけられる。
顔を上げると、真紅に染まった時計台の奥に、小さな車椅子の影が見えた。
「ここまで来るとは思ってなかったわ。本当におめでとう」
皇女は無垢な笑顔を湛えたまま、寛いだ様子で車椅子に座している。鐘の音が鳴り止んだ時計台では、機械仕掛けの無機質な音だけが時を刻み続けていた。




