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狩人狩り 十 ~ ご注文は青い瓶ですか?

***



 私が解剖学教室に近づくと、中から二人掛かりでチェストを運び出す学徒が出てきた。引っ越しの作業でもしているのだろうか。奇妙に思いながら冷気に包まれた教室を覗くと、学徒たちにチェストを運び出すように指示を出す先生の姿があった。


「何してるの?」


「店仕舞いだよ。この報告書を送って、ジェピュエル総督府のしつこい催促からもおさらばだ」


 先生はゼレムの村での騒動に関する報告書を片手に、深いバリトンの声で歌うように答えた。机の上にはジェピュエル総督府から送られてきていたらしい手紙がいくつか散らばっている。手紙の端は走り書きのメモで埋め尽くされており、先生にはこれらの手紙を大切に保管する気がないようだった。


「どうしていつもこんなにたくさん荷物を運んでるの?」


「どうしてもだ。君にもそのうち分かる日が来る」


 先生の私生活は謎に包まれていたが、この様子を見る限り清掃や廃棄のような作業からは縁遠いように思えた。あるいは博物学者の職業病なのかも知れない。


「ところで、私に何か用があるんじゃないのかね?」


「そうだった。さっき皇女様がお忍びで大学に来て……」


 私が事情を耳打ちすると、先生は無邪気な少女の笑みを浮かべ始めた。どうやら乗り気になってきたらしい。しかし、こういう偶発的な事態にばかり興味を示すというのもどうなのだろうか。訝しげな私を後目に、先生はポケットから香水の小瓶を取り出して振りかけながら、素早く身嗜みを整えていた。


「君もつけておくといい。淑女の嗜みだ」


 先生は別の香水を私にも振りかけた。レモンのような爽やかな香りが広がる。普段から香り豊かな庭園で作業しているせいか、わざと香りをつけるのは久々の気がした。


「あと、手間をかけて悪いが、この本だけ教授の研究室に置いてきてくれ。私は一足先に皇女殿下にお会いしてこよう」


 先生は私に鈍い銀色の鍵と『魔女の家の夢』なる題名の本を押し付けると、荷運び中の体格の良い学徒たちに作業を続けるように声をかけながら、解剖学教室から出て行ってしまった。私も後を追うように解剖学教室から出ると、今度はルークラフト教授の研究室へと向かった。


 ルークラフト教授の研究室の前まで来ると、ドアノブに『外出中』と書かれたカードがぶら下がっていた。私が扉に手を掛けようとすると、隣の研究室からギルマン教授が現れた。


『何をしている』


 ギルマン教授は魚のように突き出た目で私を睨みつけた。ガリアの言葉で何か言われたようだった。


「ホンヲカエシニキタ」


 下手な帝国の公用語で手短かに返答する。ちゃんと伝わったか不安だが、あまり関わり合いにならないほうが良さそうだと、私の直感が告げていた。


「昨日の盗人は、随分と背が低かったようだ。君と同じくらいだったか」


 杖先を私に向けながら、ギルマン教授は今度は公用語で語り掛けてきた。悪意を感じる表現だった。しかし、相手にするのも時間の無駄だと思い、私は無視して扉の鍵を開けた。


「借りる時も返す時も相手には確認を取りたまえよ。でなければ、ワーズワースのように勘違いでは済まされないことになるぞ。分かったかね」


 ギルマン教授は嫌味のような言葉を吐きながら、廊下の反対側へと歩いていってしまった。まるで私が盗人だとでも言うような口振りは私を苛立たせたが、それ以上、彼が何かしてくることはなかった。


 私は研究室に入ると、書斎机の上に本を置いた。これでお使いは終わりだが、先ほどのギルマン教授の言葉が引っ掛かった。先生からの依頼で私がここに来た旨を書いておこうと思い、屑籠の中から適当な紙片を取り出した。


 よく見ると紙片には小さく焦げ付いた跡のようなものが残っていた。昨日、片付けている間は誰も気にも留めなかったが、ゴミだと思って捨てた紙くずは――元から研究室に存在していたものだったのだろうか?

 私は違和感を覚えながらも、紙片にメモを残して本の上に乗せた。


 戸締りも確認しようと思い、私は窓辺に近寄った。鍵はかけられている。窓の外を見下ろすと、研究棟の傍に日陰にカミルと先生、そして皇女様の姿が見えた。先生が私に向かって手を振っている。私は少しだけ手を振り返し、研究室を出ると急いで階段を下った。どうやら待たせてしまっているようだ。


「遅くなってごめんなさい」


「いいんだ。それより、君たちは早く昨日と同じ正装に着替えてきたまえ。その後で、こちらのお嬢様(フロイライン)を連れて帝都の散策に行こうじゃないか」


 先生の言葉に皇女様も笑顔で頷く。先生の意気揚々とした雰囲気に背中を押され、私とカミルは急いで着替えのため寮へと走った。



***



 着替えを済ませて先生たちと合流した私たちは、大学を出て新市街(フォアシュタット)を北東に向かって歩いていった。旧市街(インネレシュタット)へと近づいていく。


 大学がある新市街(フォアシュタット)と、城壁に囲まれた旧市街(インネレシュタット)は、最大で八百メートルほどの長さの空き地(グラシ)によって仕切られていた。広々とした空き地(グラシ)では人々が散歩したり、シーツを敷いて食事を取ったりと、のんびり過ごしている。


 かつて異教徒の大軍に帝都が包囲されたことを教訓に、敵が陣地を敷けないようにあえて巨大な空き地(グラシ)を設けているのだと、先生は説明した。


 城壁の上では警備の兵に混じって、時折、綺羅びやかな衣装で着飾った貴族が旧市街(インネレシュタット)からの眺望を楽しんでいるように見える。王宮の存在する旧市街(インネレシュタット)と、そこに住まう人々は、まさしく高嶺の花なのだと私は思った。


 空き地(グラシ)を通ってさらに北に向かうと、帝都の北側を東西に流れる運河が見えてきた。運河を往く舟も多く、市街側でも対岸でも荷の積み下ろしが行われている。一方で、防衛のためか橋は馬車二台がすれ違うのがやっという幅しかない。私たちは先生曰く「素晴らしい店」に向かうため橋を渡った。


「見えてきました。麗しのカフェ、青い瓶ブラウエン・フラッツェです」


 先生は橋の袂に建つ平屋を指差した。店に近づいていくと香ばしい匂いが漂ってきた。この匂いは間違いない、先生も飲んでいたコーヒーの匂いだ。店に入るとコーヒーの香りはさらに濃くなった。


「まあ! ここで皆、コーヒーを飲むのね。すごいわ!」


「ここは由緒正しい帝都で最初のカフェですから。この店を開いたのは北東のガリツィアから来た男ですが、今ではあらゆる領邦から客が訪れております」


 皇女様は店の様子に濃紺の瞳を輝かせ、感嘆の声を上げた。周囲を見ると、ターバンを巻いた男や円筒状の帽子を被った者など、異国情緒溢れる衣装を纏った人々の姿も見受けられる。客も店員も外国人が多いためか、皇女様の存在は目立つものではないようだった。


「さて、淹れ方は如何しますか? 一番濃いものであればシュヴァルツァー、ミルクを少し加えたものはカプチーナー、中くらいはメランジュ、多めに加えたものはゴルトと呼んでおりますが」


「そんなに種類があるのね。迷っちゃうわ」


 席に着くと先生は皇女様にコーヒーの説明を始めた。ミルクの割合だけでなくクリームを入れるか入れないかなど、注文にも組み合わせがあるらしい。帝都ではコーヒーに拘りがあるようだが、初心者向けではない。私はよく分からなかったので、とりあえずメランジュを頼んだ。


 カミルはアインシュペンナーなるコーヒーを頼んでいた。出てきたコーヒーには、カップからはみ出すほどのクリームが乗っている。分からない。文化が違いすぎる。


 他の客たちは一人で新聞を読んだり、戦争や政情、音楽や詩について語らい合っている。コーヒーを飲みながら自由に時間を過ごすのがカフェの楽しみ方らしい。ほろ苦いコーヒーを啜りながら次の話題を待つ。


「そういえば、昨日の御進講の際に、バルテンシュタイン男爵から皇女殿下のお礼の品として、これを受け取ったのですが……」


 口を開いたのはカミルだった。白いハンカチと小さな木製の指輪を取り出し、謎めいた秘密が隠されている旨を話す。皇女様は目を細めて指輪を見つめている。


「暗号というものは、必ずしもすぐ目に見える形で存在しているとは限らないわ」


 皇女様は指輪を手に取った。


「私は昨日の続きをしたいの。……皇女殿下に代わって」


 形式だけ皇女様とは別人であるように偽りながらも、皇女様は昨日と同じように愉しそうに笑みを浮かべる。


「それで、この指輪が次の謎解きというわけですね」


「そう。だけど、それだけじゃつまらないわ。だって、一つ前の暗号は中途半端に終わってしまったもの」


 皇女様は先生を見つめた。


「こうしましょ。貴方たちが指輪の謎を解けなかったら、昨日の暗号の答えを私に教えて。期限は今日から三日。どう?」


 どうと言われても無下に断れる立場ではなかった。昨日の今日で言っている事が違っていても、子供だから仕方ないとは思うが、先生は何と言うだろうか。


「もし我々が指輪の謎を解けたら、その時は?」


「指輪の謎の『答え』を差し上げるわ」


「それは素晴らしい。それでは僭越ながら、《迷信狩り》としての名誉にかけて受けて立ちましょう」


 先生は笑顔で答えると、コーヒーを啜った。至って和やかな雰囲気の中でただ一人、カミルだけは言い忘れていた事を思い出したように目を泳がせていた。恐らく彼は「昨日の暗号」というのが、先生宛ての暗号化された手紙だということを話していないのだろう。


 結局、たっぷりのクリームがコーヒーに溶け切っても、カミルはカフェでは先生に手紙の事を話さなかった。



***



「次は、遅めですが昼食も兼ねて、観劇など如何ですか? 大衆劇場ですが、昼から開演している演目もございます」


 カフェを出た私たちに、先生は観光案内人のような調子で述べた。皇女様はその提案をすぐに受け入れた。すっかり先生のペースに乗せられている。


「しかし、皇……じゃなくて、アンナ様の背丈でも舞台が見えますか? 大衆劇場だと平土間は立ち見ですよ」


「心配ない。ボックス席(ロージェ)のチケットがある」


 先生は懐から印の押されたチケットを取り出した。劇場支配人と懇意にしているから、車椅子の客でも問題ないという。早速、河沿いから通りに向かって歩き出す。


 まだ建物の無い通りの空き地には見世物小屋やサーカスの天幕が並んでおり、妖しげな雰囲気が漂っていた。覆いを被せられた檻の中からは奇妙な鳴き声が響いてくる。通りの突き当たりには、古めかしい外装の劇場が建っていた。劇場の周囲には賭博の案内をしている者や犯罪者の人相図を売っている者、娼婦までいる。


 劇場に入ると、ロビーでは劇の台本を始め酒や菓子など、あらゆる物が売られていた。売り子の影では、密かにカード遊びに勤しんでいる者もいる。賭博のようだった。


「先に席で待っていてくれ。私は食事を注文してくる」


 そう言って先生はロビーの人波に入って行った。先生の取っているボックス席(ロージェ)は二階にあった。私が皇女様を背負い、カミルが車椅子を担いだ。


 席に着くと、既にプロローグが始まっていた。古代の長衣に身を包んだ少年が舞台の上で劇のあらすじを歌っている。少年の声はまるで金糸雀(カナリア)(さえず)りのように美しく、女声よりも高音を響かせていた。


 しかし、そのような美声に耳を貸す客は殆どいないようだった。平土間では酒を飲んだり、煙草を吸う客の姿が目立つ。それでも少年は台本通りに、澄んだ歌声を奏で続ける。


 ふと皇女様を見ると、彼女は真っ直ぐに少年を見つめていた。その瞳は次第に潤み、一筋の涙が頬を伝った。


「……」


 カミルが先生を手伝って食事を運んでくると言って、席を離れた。その言葉を聞いて、はたと気付いたように皇女様は涙を拭った。その顔にはすぐ笑顔が戻っていたが、寂しげな陰は少年が舞台袖に下がるまで消えなかった。

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