狩人狩り 九 ~ 再会はお忍びで
夜更けになって寮に戻った後、ようやく僕はガウンを脱いで、先ほどまで忘れていたことが何だったか思い出した。手紙の暗号だ。今、手元にある暗号表があれば、手紙の内容を全て解読することができる。
しかし、僕はその甘美なる誘惑を何とか振り切った。これは先生に宛てられたものだ。勝手に内容を一人で見るのは不味いだろう。どうせ、明日になればまた先生も出てくるのだろうし、その時にでも見せればいい。僕は考え直して手紙とノートを引き出しにしまった。
その時、ポケットから小物を取り出していくうちに見慣れない白いハンカチが出てきた。そういえば、皇女からも貰い物があったのだった。
ハンカチを開くと、木製の小さな指輪が現れた。よく見ると、ハンカチの内側に文字が書き込まれている。
『一つ目の秘密。それは見えるけれど見えない』
「……また暗号か?」
僕はハンカチを何度か裏返したり、灯りにかざしたりしてみた。奇妙な文章が書かれている以外は至って普通のハンカチのようだった。だとすれば、秘密は指輪のほうにあるのだろう。僕は指輪を手に取って観察した。素朴な木彫りの小さな指輪は、うっかり落としてしまったら失くしてしまいそうだった。
木目に何か特徴があるわけでもなく、見た目はただの指輪だった。試しに指にはめてみようかと思ったが、案の定、はめるには指輪が小さすぎた。その後、指輪をあらゆる方向から睨んでいるうちに目が痛くなってきてしまった。見えるけれど見えない。一体どういう意味なのだろうか。
僕はいよいよ考えるのも面倒になって、指輪とハンカチを放り出し、就寝する準備を始めた。
***
翌朝、僕はスヴィーテン男爵の研究室を訪ねた。昨日の御進講の間に唯一、窃盗の被害が出た現場を見ておきたかった。
しかし、研究室は閉まっていた。扉には鍵がかけられている。
「どうしたんだ? 今日、スヴィーテン男爵は出かけてるぞ」
どうしたものかと思案している時に声をかけられ、廊下を見ると書類を抱えたヴィルマーが立っていた。
「そんな予定があったなんて知らなかったよ」
「昨日やってきたお偉方は皆、旧市街の王宮に泊まって、それから今日は士官学校の見学だってさ。忙しいもんだよ」
そう言いながら、ヴィルマーは研究室の鍵を取り出した。
「その書類は?」
「研究棟の地下に落ちてた。スヴィーテン男爵の論文だよ」
ヴィルマーは研究室の扉を開くと、そのまま中に入って行った。
「落ちてたって……。それって、昨日盗まれた論文じゃないのか?」
「多分な。詳しくは知らない。俺だって中身は読んでないんだ」
「ちょっと見せてくれ」
僕は書類に触れようと手を伸ばしたが、ヴィルマーはその手を振り払った。
「なんだよ」
「なんだよって、お前……。俺はただ、論文を元に戻しに来ただけだ。お前が見る権利も、俺が見せる義務もない」
ルークラフト卿は未発表の論文が盗まれたのだと言っていた。そう易々とは見られる代物ではないのも無理がなかった。ただ、その時どこからか微かに何かの香りがした。特徴的な香りだ。ただ、何の香りかは分からない。
「……わかった。でも、研究室の中は見ても構わないよな?」
「別に良いけどさ、勝手に物を動かしたりするなよ。これでも昨日、片付けしておいたんだから」
壊された書棚の代わりに運び入れられた、予備の真新しい書棚に書類をしまいながらヴィルマーは答えた。ヴィルマーの言う通り、研究室はきちんと整理されている。痛々しい治療を想像させる金属の器具が収納された棚が並んでいるが、それらの器具も綺麗に洗浄された後のようだ。だとすれば、先ほどの香りは何だったのだろうか。
僕は研究室の窓際に歩み寄った。当然だが、今は鍵がかけられている。だが、よく見ると窓の縁にはうっすらと埃がついたままになっている。この窓は暫く開けられた形跡が無いようだ。盗人は教養学部の教室棟では窓から研究室に入ったのに、医学部の研究棟では窓から研究室に入らなかったということだろうか。しかし、それでは一体どうやって、この研究室の中に侵入したのだろうか。
「どうした?」
「いや、何でもない。ところで、ヴィルマーは盗人を見たんだったよな」
「ああ。下で突っ立って、暇だったから適当に辺りを眺めてたんだ。そうしたら、教養学部の教室棟の三階に、誰かいるのが見えたんだよ」
「どんな奴だった?」
「どうって言ってもな……。フードと覆面で顔を隠してたし、地味な茶色のローブを着てて、特徴なんてさっぱりだ。精々、背が低かったってくらいだ。カミルが連れてきた女の子よりも小さいんじゃないかな……」
ヴィルマーは肩を竦めながら答えた。卯月よりも身長が低いとなると、盗人は本当に背の低い者のようだ。彼女の身長が百五十センチメートル強くらいだから、それ以下ともなれば普通に考えると十歳前後の子供が当てはまる。
「そうか。分かった。ありがとう。もう行くよ」
僕は研究室から出て、廊下の窓から向かい側の教室棟を眺めた。子供があの外壁をよじ登って、研究室に盗みに入ったとでもいうのか。いや、あまりにも荒唐無稽な考えだ。
窓を開けて外を見下ろすと、教室棟と研究棟の間に横たわる色鮮やかな植物園の庭園部分が目に入る。温室や標本館、実験用の畑などは棟の間からは離れた区画にあった。植物に関するすべての施設を合わせると面積は一ヘクタールに及ぶほどだが、今見えているものはその一部に過ぎない。
研究棟の近くに視線を落とすと、卯月が薔薇の手入れをしているのが見えた。僕は研究棟を出て、彼女の下へと向かった。薔薇園へ入って行くと、朝日を浴びて瑞々しく光る白薔薇の株の近くで、卯月が座り込んでいた。
「やあ。……どうしたの?」
僕が声をかけると、卯月は悲しげな表情で振り向いた。彼女が立ち上がって株元を見せるように一歩下がると、そこには何本か茎の折れて拉げた薔薇があった。
「上から重たいものが落ちてきたのかも……」
卯月は沈んだ声で答えた。夜の間に大きな鳥か動物かが入り込んでしまったのかも知れないと卯月は続けた。しかし、周囲を見てもそれらしき足跡などは見当たらない。卯月と一緒に周囲を探ってみたが、他の薔薇に被害はなく、狙ったように一角の薔薇だけが潰れかけていた。
「折角、育てたのに残念だね……」
卯月に声をかけた瞬間、先ほどの香りが仄かに漂っていることに気付いた。
「この香り……」
「薔薇の香りのこと?」
「ああ、そうか。薔薇の香りだったのか」
独り合点している僕を見て、卯月が首を傾げた。だが、薔薇園の真ん中にいても、香りにすぐ気付くわけではない。それが、どうしてさっきは研究室の中で香っていたのか。まさか、女物の香水でも撒かれていたのだろうか。
「ねえ、カミル」
「え? ああっと、ごめん。ちょっと考え事をしていて……」
「あそこ」
卯月が指差した方向、植物園の入口に俄かに人が集まっている。昨日の今日で、何とも言えない不安が過ぎる。様子を確かめるため、僕たちは入口のほうへと近づいていった。
「何かあったんですか?」
「ファルケンシュタイン伯爵の娘だっていう子が来ていて、新しい庭師とナジ・カミルって学生に会いたいんだとさ」
野次馬に混じっていた学徒の一人が素っ気無く答えた。
「それって僕たちのことですけど……」
「それじゃあ早く行ってやりなよ。一人で待たせたら可哀相だ」
そう言って学徒が指差した方向を見ると、人垣の間から僅かに子供用の車椅子が見えた。
「まさか――」
僕たちが人集りを分けて、その中心に歩んでいくと、そこには昨日出会った車椅子の幼い少女の姿があった。車椅子を押していた召使いの少年もおらず、本当に一人きりだ。僕たちは怖ず怖ずと車椅子の前へと歩み出た。
「あの……お探しのカミルと、卯月です」
「やっと会えたわ! 良かった! 皆さん、案内してくれてありがとう」
皇女は満面の笑みを振りまきながら、僕たちを迎えた。何故、ファルケンシュタイン伯爵の娘などと名乗っているのかは、あえて聞かないように、卯月とも目配せして確認する。卯月も事態を察してくれたようだった。
貴族が名前を偽ってお忍びで城下に現れるなんてことはよくあることだ。しかし、遠隔地の領邦ならともかく、帝都という地元で顔も名前も知っている者だっているのに、わざわざこんな回りくどいことをする意図はいまいち図りかねた。ただ、それでも皇女には偽名を名乗りたい理由があるのだろう。とやかく言うのは野暮というものである。
「初めまして。私はファルケンシュタイン伯爵の娘、アンナ」
「どうも初めまして……アンナ様。ええっと……どうしてこちらに?」
「それは貴方たちが知っているはずよ」
皇女が悪戯っぽく微笑む。どういう意味だかさっぱり分からない。分からないが、しかし、このまま人目につく場所に居続けるのは悪手だという気がする。僕は腹を括って話を合わせていくことに決めた。
「ええ、そうでした。それでは……ええっと、場所を変えましょうか? 図書室など、如何でしょう」
「そうね。お願いするわ」
皇女は素直に従ってくれた。この先はどうするべきか。僕はすぐに次の手を考えた。
「卯月。悪いけど、先生を呼んできてくれないかな? アンナ様にご紹介しておかないと。研究棟の地下、解剖学教室にいるはずだから」
卯月は頷くと踵を返して研究棟へと向かった。とにかく先生が来るまで時間を稼ごう。僕は車椅子を押して、昨日と同じ教養学部付属の図書室へ向かう道すがら、それとなく皇女に話題を投げかけることにした。
「今日は新しい士官学校を、皇帝、皇后両陛下と廷臣の皆様が見学しているそうですね」
「そうね。でも、淑女には関係ない場所よ。きっと、私が行っても仕方ないわね」
「確かに、仰る通りかも知れませんが……」
「お母様が言ってたわ。これからは淑女も学識を身に着けたほうが良いの。それに、庶民の常識も」
「学識に、庶民の常識ですか」
何となく皇女が僕たちに会いに来た理由は分かってきた。多分、皇女には士官学校を見学する予定はなく、彼女は時間を持て余している。そして、聡明な皇女は上手く王宮の女官を出し抜いて、召使いの少年すらも置いて大学まで来たのだ。
これが本当に単なる退屈凌ぎに過ぎないのであれば、こちらとしてはいい迷惑だが、皇女ともなれば断ることもできない。無理な要求を押し付けられないように祈りつつ、僕は誰もいない図書室の扉を開け、皇女の車椅子を押して行った。
「彼女とはお付き合いしてるの?」
唐突な問いに、僕は完全に固まってしまった。相手がただの子供であれば、ませているものだと鼻で笑っただろうが、今はそんな余裕もなかった。どうしてこのタイミングで、そんな浮ついたことを聞いてくるのか。
「それは、その、どういう意味ですか?」
「お揃いのブレスレットを付けてるから。そういう間柄なの?」
そういえば、僕と卯月はヴァルド市で買った、木の実のビーズを連ねたブレスレットを今も付けていたのだった。あの時も露天商から恋人同士だと運気が良くなるなんてことを言われた記憶があるが、やはりそのように見えるのだろうか。
「特別な意味はありません。ただ、ちょっとした御守りにと思って、同じものを買っただけです」
「ごめんなさい、冗談よ。彼女は大事なお友達。でしょ?」
僕は返す言葉もなかった。昨日とは打って変わって、急にプライベートな関係に突っ込んできた皇女に対して僕は動揺していた。公務ではないからなのか。庶民の常識について知りたいとはこういうことなのか。
何れにしても早く卯月が戻ってきてくれることを願い、僕は赤くなった顔を隠すように伏せた。




