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狩人狩り 八 ~ 侵入者

 先生へ黄ばんだ手紙を送った修道士司教。修道士であり、司教でもある。修道会が権勢を誇っていた時代には、そういった人物もかつては多く存在した。


 しかし、時代とともに過激な修道会の活動が抑制され、帝都で修道会の職掌も狭められている今、帝国内に修道士と司教を兼ねる人物はそう多くはいない。一修道士として修道院長までのキャリアを登るか、一司祭として教皇庁のエリートコースに進むかは殆ど二者択一だった。


 司教や大司教が修道会の会員として名を連ねることはあっても、実際に修道院で生活することは皆無だ。そんな二足の草鞋を履く人物は滅多にいない。そう考えると、この肩書きは有名無実なものにも思える。


「このお手紙の内容は貴方たちの先生にお知らせしなきゃね」


 皇女はそう言って転置式暗号と換字式暗号を解くために裂かれたノートと暗号表を差し出した。


「秘密はそれを知るべき人が見るものだから」


 言われてみればその通りである。皇女と卯月とともに解読した手紙の暗号については、こうして解読作業も途中でお預けになった。


「そろそろ御進講も終わる頃合いですね」


 気が付けば随分と時間が経っていた。僕は図書室の時計を確認し、ノートを片付けてホールに戻る支度を始めた。


「とても楽しかったわ。ありがとう」


 皇女は車椅子の上で無邪気な笑みを浮かべている。聡明な彼女の言葉が本心からなのか、それとも単なる社交辞令なのかは分からない。しかし、少なくとも僕は皇女の笑顔を見ることができて良かったと感じた。


「それでは戻りましょう」


 長身の僕の代わりに、卯月が皇女の車椅子を押していく。タイル張りの廊下に二人の華奢な影が伸びている。その影の先から、数名の男が現れた。


「こちらにおいででしたか、皇女殿下」


 近侍の兵と召使いの少年を伴って、陸軍大将のダウン伯爵が声をかけてきた。


「何かあったの?」


「いえ。御心配には及びません。御進講が無事に終わりましたので、お迎えに参りました」


 ダウン伯爵の表情は明るいものだったが、慎重な用兵で知られる彼の視線の動きは警戒を怠らない者のそれだった。卯月に車椅子から離れて少年と代わるように促すと、ダウン伯爵は踵を返してホールまでの道を先導した。


 近侍の兵にも何かに警戒する様子が見られたが、それは僅かな所作からしか感じられない。僕たちが皇女に対して気に障るようなことでもしてしまったのかと思ったが、そういう理由でもなさそうだった。しかし、こういう時の嫌な予感というものは常に当たる。僕の場合はそうだった。


 ホールに戻ると既に皇帝と皇后から講評の言葉が告げられており、予定されていた式次はしめやかに終わろうとしていた。特に変わったことは無いように見える。御進講は無事に終わり、それぞれの人々がホールの外へと向かい始めた。


「それでは今後は、さらに解剖の許認可の緩和についても、是非ともご検討を」


「ええ。分かりました。スヴィーテン男爵。これからも大学だけでなく、医学の研究もよろしくお願いしますね」


「お任せください。皇后陛下」


 和やかな雰囲気の中で多少の歓談を交えながら、皇帝一家と廷臣たちがホールの出口へと向かう。どうやら今回の御進講は彼らにとって有意義なものになったようだった。そして御進講が成功裏に終わったことで、スヴィーテン男爵の思惑通り、大学はさらに科学の啓蒙を促進する方向に傾いたように見えた。


「君たち、ちょっと待ちたまえ」


 出口に向かう途中で、バルテンシュタイン男爵が僕と卯月に声をかけてきた。


「皇女殿下は君たちの話に、大変満足されたようだ。そこで皇女殿下が、これを」


 男爵は白いハンカチに包んだ木製の指輪を僕に渡した。まさか、僕らへの個人的な贈り物ということだろうか。


「勿体ないお言葉です。それにこちらも……。ありがとうございます」


「ああ。……私もかつてここで学んだが、久々に来て良い刺激になった。私からも礼を言おう。ありがとう」


 バルテンシュタイン男爵はそれだけ言うと足早に歩いていき、ホールを出る皇帝一家と廷臣の中に加わった。再び、校門の前で大学教授や関係者たちが列を成して貴人の一行を見送る。朝方と同じように、儀装馬車の行列は貴人の一行を乗せ、ゆっくりと大学から遠ざかっていった。


 儀装馬車とともに騎兵や歩兵が通りの影へと消えると、緊張の糸が切れたように大学教授や関係者もそれぞれに勝手に解散し始めた。早くも打ち上げのために今夜一杯やろうと誘い合っている者たちもいる。そんな呑気な人々を掻き分けて、先生が僕と卯月のほうへと歩み寄ってきた。


「二人とも。ここにいたか」


「先生、お疲れ様です。この前の手紙の暗号ですが、解けそうですよ」


「ん? 何を悠長なことを言ってるんだ。そういう話は後だ、後」


 先生は僕たちの腕を引っ張って、教養学部の教室棟へと歩み出した。


「御進講の間、人が見ていない隙に誰かが盗みに入ったらしい。やられたのはうちの教授とモンバール伯爵、スヴィーテン男爵の研究室だ」


「何ですって?」


「医学部の研究棟を見張ってた学生が、研究室がある教室棟の三階に誰かがいるのを見たと言っていた」


 どうやら、皇女の迎えにダウン伯爵が現れたのはこの盗人が理由のようだ。医学部の研究棟を見張っていた学生というと、ヴィルマーのことだろう。彼が盗人の姿を見ていたのなら、問題はすぐに片付くのではないかと僕は思った。


「御進講の間に、学生が見張っている扉を抜けて教養学部の教室棟に出入りしたのは、皇女殿下を連れた君たちだけだぞ。全く、実に面倒な話だ」


 先生は喋りながら階段を上り、教授たちの研究室がある三階へと向かっていく。僕たち以外に教室棟に入った人間がいないのであれば、部外者が侵入したということだろうか。


 先生は研究室の扉が並ぶ廊下で立ち止まった。そこにはルークラフト卿とモンバール伯爵、それに何名かの学生が集まっていた。


「念のため先に聞いておくが……君たちは今日、ここに来ていない。今、初めてやってきた」


「勿論です。皇女殿下が一緒におられましたから、上の階には行っていません」


「よろしい。話がややこしくならなくて済む」


 先生はそう言っていつものように少女の笑みを浮かべ、教授たちのほうへと僕たちを引き連れて行った。


「ワーズワース君、待っていたよ」


 ルークラフト卿が愛猫を抱いたまま、無表情で先生と僕と卯月を一瞥した。


「彼らが何か目撃してはいないか、聞いているかね?」


「二人とも今、このことについて知ったばかりです。御進講の間は皇女殿下と一緒にいて、上の階の様子は知らないと」


「なるほど……。それでは、やはり犯人は外から侵入してきたということになるか……」


 ルークラフト卿の言葉に、モンバール伯爵が頷いた。


「我々も上階だと思って油断して、窓に鍵をかけていなかったのが良くなかった。犯人は教室棟の階段を使わず、外壁の装飾を伝って登ってきたと考えたほうが自然だ」


 そう言って、モンバール伯爵は自分の研究室に入っていった。床に散らばった書類の間を抜けて、開いたままの窓を杖で指す。夏場は換気のために、窓の鍵をかけていなくてもおかしくはなかった。それが教授の研究室でも同じことだ。


「窓の縁に土が付いている。植物園のものだ。犯人は植物園を通って、ここから侵入してきたのだろう。身軽な奴だ」


 モンバール伯爵はそう言いながら、忌々しげに散らかった部屋を眺め始めた。散らかっているのは手紙や書類ばかりで、貴重な剥製や標本、美しい銅版画の彩色図譜は僕の記憶と同じように整然と並んでいた。盗人は明らかに価値のある物を見逃していったようだ。


 しかし、どうやら伯爵はこの奇妙な犯人の正体よりも、どの学生に部屋を片付けさせようか思案しかけているように見えてきた。彼のギョロついた視線が、少しずつ学生の顔色を(うかが)い始めている。


 その時、僕は先生に腕を掴まれ、廊下へと連れ出された。普段から手紙や目録を扱っている僕が片付けに駆り出される可能性は他の学生よりも高く、さっさと逃げ出すほうが賢明ではあった。先生は何も言わず、そのままルークラフト卿の研究室へと向かった。


 ルークラフト卿の研究室に入ると、モンバール伯爵の研究室と同じように窓が開きっ放しになっており、書類が床に散乱していた。だが、書架の博物誌などは荒らされておらず、やはりここでも盗人は金目の物に手を出した形跡が無かったようだった。


「御進講を行った開明的な教授たちへの嫌がらせですかね?」


「嫌がらせ? だったら新聞に批判的な投書を送るとか、他に方法があるんじゃないかね」


 先生の軽口に、重厚な書斎机に両手をついたルークラフト卿がため息交じりに答えた。ルークラフト卿にとっては、姿を見せない臆病な盗人による物的被害よりも、公開で名誉を傷つけられるほうが脅威のようだった。


「スヴィーテン男爵は最後まで何事もなかったかのように振舞っていたが、彼は書棚の鍵を壊されて論文の一部を盗まれたそうだ。写しは図書館にもあったようだが、まだ未発表の論文だ」


「それは気の毒に」


「全く、誰の仕業なのか……。目撃した学生によれば、犯人は顔を隠していて、背が低かったということくらいしか分かっていない。そして、私のほうは何を盗られたのかすら、まだ知らないがね。まあ、知らないことは幸福なことなのかも知れん」


「知ってから後悔するほうが私は好みですよ」


「また減らず口を。ワーズワース君、盗られたものがあるかどうか調べておいてくれ。手紙は……二、三通無くなっていても構わん。私はもう疲れた。先に帰らせてもらうよ」


 ルークラフト卿は床に落ちた手紙を引っ掻いて滅茶苦茶にし始めた愛猫を慌てて紙片から引き離すと、帰り支度を始めた。先生は僕と卯月を一瞥して、片付けを手伝うように無言で指示した。結局、こうなることは分かっていた。僕と卯月は先生に従い、手紙や書類を拾い集めた。


 片付けをしているうちに日が傾き始めたため、燭台に火を灯し、今度は目録と睨めっこする。目録と照らし合わせても、やはり盗られた書物や論文は無かった。そうなれば、後は手紙や書類の類が盗られた可能性が高いが、犯人がそんなものを狙った意味は分からなかった。


 隙を見てモンバール伯爵の研究室を覗いてもみたが、片付けをしている学生たちに尋ねた限り、こちらも何かを盗まれた形跡は無いということだった。


「さて、カミル君はどう思うかね? 犯人の意図について」


 勝手にルークラフト卿の書斎机に腰かけながら、先生が問う。


「何か欲しかったんじゃないでしょうか。手紙の内容とか資料の情報とか」


「それなら、ただ目的の情報を写すか、その媒体だけ盗めばいい。しかし、手紙や書類を荒らして、床にばら撒いた」


「それでは、そういう嫌がらせだったんじゃないですか」


 いつもの人を喰ったような口振りの先生に付き合いながら、僕は手紙の束をまとめた。


「わざわざ外壁を上るなんて危険を冒してまで、そんなことをするだろうか?」


「どうでしょう……。でも、スヴィーテン男爵の研究室では実害が出ています。論文……つまり研究成果が目的だった」


 先生は僕と卯月が整理した手紙や書類を書棚に詰め込むと、きっちりと鍵を掛けた。スヴィーテン男爵の研究室は医学部の研究棟の三階、この研究室の向かい側にあった。教養学部の教室棟と医学部の研究棟の間を、人目を避けて行き来するのは相当に難しいように思える。


「ルークラフト卿とモンバール伯爵の研究室では目的の研究成果が見つからなかったということでしょうか?」


「そんな悲しくなるようなことは、教授の前では言わないほうがいい。しかし、盗人の物色した研究室の専攻分野が全員まるで違うのは、確かに奇妙ではあるな」


 先生は腕を組みながら研究室の中を歩き回り始めた。


「そういえば、何か忘れていないか?」


「何か、ですか?」


「何か、だ」


「……」


 先生と僕はお互いに視線を合わせたまま、沈黙する。何か忘れているような気はするが、何だったか。綺麗に片付けられた研究室の中で、特に盗られたものも見つからず安堵したせいか、僕は何を忘れてしまったのか、結局、思い出せなかった。

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