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陰謀狩り 三 ~ 博物学者

 伯爵の居城に到着した明くる日。

 僕が目を覚ました時には、既に先生のベッドは空になっていた。


――いつものことだろう……


 空気を入れ替えようと思い、僕は部屋の窓を開けた。

 早春の清々しい朝の冷気が部屋に吹き込み、僕の意識を覚醒させる。


 部屋からは居城の背後に広がる湖は見えなかったが、代わりに広大な庭園が見えた。昨晩は夜の帳に包まれていた優雅な装飾と植物が、朝日を浴びて輝いている。


 窓の下を見ると、庭園の中でスケッチブックを広げている先生がいた。どうやら、目についた植物をスケッチしているようだった。


 僕はベッドの傍に置いてあった杯から水を飲み干すと、先生に声をかけた。


「先生、おはようございます」


 先生は頭上からの声の主が僕であることを確認し、大袈裟に驚きの表情を浮かべた。そして、無邪気な少女の笑顔をつくると、大きく手を振った。


 スケッチは博物学者としての日課であり、重要な仕事の一つだった。サンプルや剥製を持ち帰ることのできないものは絵に残し、記録しておく。

 ただし、それらの記録は、必ずしも動植物だけに限らないようだった。



***



 調査官ミシェル・ワーズワース、自称博物学者。

 先生と僕の《調査官と助手》という極めてビジネスライクな関係が始まったのは、《迷信狩り》の仕事がきっかけだった。


 女王は夫が皇帝に即位した後、見返りとしてコルヴィナの王立アカデミーを承認した。学者たちは国庫から補助金を受け取りながら、女王のお墨付きで懸賞金付きの研究テーマを研究できるようになったというわけだ。


 特に熱心な啓蒙家でもない女王が、このような判断をしたのは誰かの差し金に違いなかった。恐らくコルヴィナの大貴族たちが示し合わせ、乱世で勢いづいた宗教勢力による悲観的な説教を止めさせ、代わりに科学という従順なペットを育てようとしているのだと、帝都では噂されていた。


 そのための手段。

 それこそが、領民を悪戯に刺激する説教や噂話の原因となっている怪現象について調査し、その正体を探ることなのだという。


 つまり、《迷信狩り》は女王の息の掛かった学者による、いわば異端審問のようなものだった。ただし、過去に行われてきた拷問や処刑ではなく、《迷信狩り》は科学的な調査という理性的な手法に基づく。

 調査官が領民の権利を侵害することは認められていないので、領民は何一つ心配しなくて良い。彼らは土地のあちこちを歩き回り、少し物書きをして、王立アカデミーに報告書を提出する。

 ただそれだけである。


 以上が、僕が《迷信狩り》という仕事について聞いた話だった。

 一月前に話を持ちかけてきた担当教授からは駄賃がもらえる、ちょっとした課外授業だと思ってくれと説得された。


 こうした話の上辺だけ聞くと、確かに理に適っているように思えた。帝国の大学はその領邦と同じく自治意識が強いため、帝国共通の科学研究協会は未だ設立されていなかったし、コルヴィナの王立アカデミーで名を上げれば、将来のためにもなる。

 しかし、担当教授から先生を紹介されて以来、ここまでの半月の道中で、僕は先生の口から与太話以外の経歴を聞き出せていなかった。


 高名な博物学者ルークラフトに偽の剥製を売りつけて捕まったとか。

 新大陸の調査に出向いたら先住民が崇める奇妙な神殿を発見したとか。

 陸生甲殻類の神から寵愛を受けて少女のような顔に生まれ変わったとか。


 科学が啓蒙される今世紀でなくとも、証拠もなく簡単に信じられる話など無い。

 最後の話に至っては全く意味不明である。


 帝都の大学教授と王立アカデミーの上席会員というポストを兼任する権威ある博物学者ルークラフトの一番弟子を自称し、新大陸の冒険譚を雄弁に語る新進気鋭の学者。そのように言えば聞こえは良いが、何故こんな詐欺師紛いの怪人物が、王立アカデミーから委任を受けて調査官という役を担っているのか、未だに僕は不思議で仕方なかった。


 実は、先生は偽の調査官で、皇帝に反旗を翻した選帝侯同盟に情報を流している密偵なのかも知れない。あるいは、《迷信狩り》を失敗に終わらせ科学の芽を摘むために、反動的な修道会から送り込まれたのかも知れない。

 猜疑。疑惑。僕にとっては先生の存在が既に疑念の種そのものだった。


 そうした僕の心を知ってか知らずか、先生はのらりくらりと話題をそらし、外見だけは無垢な少女を取り繕っているように思えた。



***



 考えがまとまらず、僕は窓から離れた。

 瀟洒な庭園で静かにスケッチを嗜む先生の姿からは、陰謀の臭いは感じられない。それに、先生が怪しい素振りを見せるようであれば、僕は帝都の大学に手紙を出して、この仕事から降りれば良いだけなのだ。


 僕は今のところは思い過ごしだろうと考え直し、部屋を出ようと扉を開けた。


「きゃっ!」


 扉の影から小さな悲鳴が上がった。


「すいません。気付かなくて」


 僕は慌てて扉の反対を覗き込んだ。

 侍女が一人、何冊もの分厚い本を両手から胸の上まで重ねて立っていた。


「申し訳ありません。失礼をお許し下さい」


 侍女は目を伏せて詫びた。持っているのは医学書のようだった。


「いや、僕は大丈夫です。それより、どうなさったのですか。そんなに本を持って」


「これは伯爵閣下の蔵書です。侍医のヒルシュ先生が借りていたのですが、読み終えられたそうなので、私が図書室にお返しに……」


「それなら、僕も手伝いましょう」


 僕は侍女の胸の上で重なっている本に手を伸ばした。


「そんな、お客様にこのようなことはさせられません」


 侍女が慌てて一歩後ろに下がる。その拍子に、重なっていた本のバランスが崩れ、最上段に乗っていた『薬草の栽培とその作用』が僕の手の中に滑り込んできた。


「ヒルシュ殿はお忙しいのでしょう。任せてください。二人で運んだほうが早く済みます」


 僕はさらに本を手を取り、自分の手の上に重ねた。


「ありがとうございます。朝からご面倒をおかけしてしまって、申し訳ありません」


「いいんですよ」


 僕は調子に乗ってほとんどの本を引き受けていた。男という生き物は常に愚かなものである。


 侍女はギゼラと言った。伯母(はくぼ)の主治医であるヒルシュ氏の下で、看護や薬の調合を手伝っているという。勤勉で気の利く看護助手であるようだった。


「私、帝都に行って医学の勉強をしたいんです。ヒルシュ先生のお手伝いだけじゃなくて、もっと本格的な勉強が必要だと思ってて」


 熱心な思いが、ギゼラの言葉の端々から伝わってくる。


「大学の医学教授に貴女のことを知らせておきますよ。力になれるかどうか分からないけれど……」


「いえ、そんなつもりではないんです。ただの夢、ですから」


 ギゼラが気恥ずかしそうに目を伏せる。


 文学や芸術の分野においては、帝国をはじめ諸外国でも、女性は上流階級の知識人の仲間入りを果たしていた。しかし、医学や自然哲学などの分野では女性の進出には遅れがあった。

 本来であれば男女関係なくギゼラのように熱意のある者が学生となるべきなのだが、勉学より街の娘を口説くのに熱心だった同級生たちの姿が思い出され、逆にこちらのほうが恥ずかしい気分になった。


「図書室はこちらです」


 図書室は客室からすぐ近く、二階の角にあたる部屋だった。

 室内は書架がところ狭しと立ち並び、実際よりも部屋は小さく感じられる。僕は入り口の隅で眠っていた司書の老人に声をかけ、書架の鍵を借りた。


 伯爵の蔵書は代々カーロイ家が受け継いできたもののようだった。二メートル以上もあろうと思われる書架には、歴代の伯爵に上梓されてきた書物や論文が詰め込まれている。


 大抵の貴族は自慢のコレクションを無闇に客人に披露したがるものだが、戦争で資金が必要となれば誰かに売り払ってしまうことも少なくない。しかし、伯爵のコレクションは整理され、大切に保管されていることが見て取れた。


 異教徒の医学書や錬金術にまつわる書物を翻訳したものも散見された。

 帝都でもお目にかかれない希書だといえた。


「素晴らしい蔵書ですね。帝都の大学でも見ない本もありますよ」


「カーロイ家は郵便事業を通じて、希少な書籍を集めたみたいですね」


 ギゼラが持っていた本を書架に戻しながら言う。


 伯爵本人から、コルヴィナの王家からカーロイ家に封土されてきた土地や権利については聞いていた。その中にはコルヴィナの王冠諸邦における郵便事業が含まれていることも。


 その権利によって、帝国内で伯爵は『手紙屋』などと揶揄されていた。帝国本土の郵便事業を牛耳る宮廷貴族が、東方との国境に通じる地方郵便を疎ましく思っていることは明白だったが、それでもカーロイ家は粘り強く郵便事業を続けている。

 そうでなければ、これだけの書物を各地から集めることはできなかっただろう。


 僕が書架を眺めていると、一冊の本が目についた。


「これは……」


 どうやら薬草に関する本のようだった。表紙を見ると、毛筆で東洋語、羽ペンでコルヴィナ語のタイトルが並んで記されている。


 東洋語はほとんど分からなかった。《東洋本草医方習事始》なる文字が並んでいたが、僕の知っている単語は東洋のみだ。コルヴィナ語では《薬草医学入門》とあるが、著者は書かれていない。

 まだ虫食いや日焼けの後もなく、蔵書の中ではかなり新しいもののようだった。


「こっちは終わりましたよー」


 ギゼラの声が書架の裏から聞こえてくる。


「あ、僕のほうも終わります」


 医学に関する本なのだから、同じような分野で固めておけば良いだろう。僕は急いで書架の空きスペースに残っていた本を押し込んだ。


「本当に助かりました。ありがとうございます、カミルさん」


 ギゼラが笑顔を浮かべる。そこには小動物のような愛らしさが満ちている。


「いや別にいいんですって。他に何かお手伝いできることがあれば、なんでも言ってください」


「そんな……もう大丈夫ですから。ところで、カミルさんはどうしてアルデラに? 何かお仕事ですか?」


 そういえばここに来た目的や仕事について話していなかった。そもそも伯爵からもここで紹介されていないのだ。


 先生がいないところで、仕事について話すべきか僕は迷った。しかし、まだ何も始まっていないのだし、喋ったところで何か問題があるわけでもあるまい。


「まあ、なんというか。怪現象とか。迷信とか。そういう怪しいことの調査、ですかね」

「迷信、ですか」


 迷信という単語に、ギゼラの表情が曇った。


「何かお心当たりでも?」


「いえ、なんでもありません。ただ……」


「ただ?」


「私、東洋の知識とか、文化とか。そういうものに馴染めなくて……。どれも迷信めいていて、危ない気がするんです」


 確かに東洋には神秘的で謎めいた雰囲気がある。実際に医学や哲学、宗教には我々帝国やその周辺地域と大きな差がある。

 そして、その秘密は神秘のベールに包まれていて、今の我々では簡単には理解できない部分があった。ギゼラの不安も無理もないものだといえるだろう。


「そのお気持ちはわかります。僕も東洋について大した知識はありません。多分、あまり触れたことないものに対して、恐れを抱くことが心の普遍的な反応なのでしょう」


 ギゼラは押し黙ったままだった。気安く適当な理屈をこねてしまっただろうか。僕は若干後悔した。


「すいません。こちらの仕事について何も言っていなくて」


「いいんです。でも、やはり気を付けてくださいね。危ないこともあるでしょうから……」


 ギゼラは心の底から僕を心配しているようだった。迷信といえども、よく調べればそれが実在の脅威によることもありうる。そのことを考えると、確かに僕の仕事は危ぶまれて当然だった。


 僕はギゼラに別れを告げると、先生を探しに庭園に向かった。

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