狩人狩り 七 ~ 皇女は暗号がお好き
※手紙の暗号の全文は後書きにあります。
学内の施設の見学を終え、催事用のホールでの昼食を挟んだ後、午後から御進講が始まる予定だった。僕たちはホールに並んだ食事の準備が整った長テーブルに、大学教授や貴人たちと並んで一緒に席に着いていた。
食卓に並んだ豪華な料理を前に、僕の緊張はようやく緩んだ。輪切りのアンズを煮込んだポタージュ、レモンの皮を挟んだハム、オリーブ油で揚げたマグロのマリネ、黒鴨のパテ、去勢食用鶏のロースト。
すべてを覚えているわけではないが、それらは最高の腕前を持った料理人の手によるものだったに違いない。僕は生まれて初めて、宮廷御用達の美味な料理を楽しむことができた。
僕や卯月を含めて多くの人々が、見慣れないマグロの生の頭部が食卓の上を飾っていることに少々驚き、そしてそのマリネに戸惑いを覚えたようだった。しかし、その脂の乗った柔らかい身は、僕たちの舌を満足させることには成功していた。実に幸福なひと時だった。
この昼食が終われば僕たちはお役御免になる。しかし、素晴らしい昼食の終わり際に、僕と卯月はバルテンシュタイン男爵から呼び出されることになった。
「何か御用でしょうか?」
「手数をかけてすまないが、御進講の間、皇女殿下の話相手になっていていただきたい」
バルテンシュタイン男爵は勿体ぶるように厳かに述べた。
「御進講とはいえ、まだ幼い皇女殿下には退屈なものであろう。それに講堂は階段式で、車椅子が通るには些か面倒で危ない。そこで、君たちは若いし、皇女殿下のお相手にうってつけだと考えた次第だ」
「かしこまりました。お任せください」
「それでは。くれぐれも粗相だけはないように」
そう言って、バルテンシュタイン男爵は皇帝一家の下へ歩いていった。男爵の提案は皇帝にも快諾されたようで、やがて皇女と車椅子を押す召使いの少年が僕たちのほうへやってきた。
皇女の車椅子は幼い彼女の身体に合わせたこじんまりとしたもので、市販されているものよりも小さかった。背の低い車椅子に合わせて、近侍の兵ではなく少年が押しているのも納得できる。
「皇女殿下にお話をお聞かせするように仰せつかりました」
僕は身を屈めて皇女に目線を合わせた。
「知ってる」
母親譲りの絹のような金髪に白い柔肌の皇女は、その濃紺の瞳で僕と卯月を見た。
「どんなお話? 昔の話? 誰の話?」
「僕たちの旅のお話をお聞かせしたいと思っています」
「それって、お母様が話してたわ。コルヴィナの東の、アルデラの不思議な話。でしょ?」
聡明な皇女は既に調査に関する話を宮廷で耳にしているようだった。
「お母様が命じたとても大事な仕事なのよ。だから、みだりに話してはダメなの。秘密にしなきゃ」
少女とはいえども流石は皇女。察しが良いというべきか、その早熟な対応にさっそく僕が場を弁えていないことが明白になってしまった。
「ルカ」
皇女は振り返らず、そのままの姿勢で背後の少年の名を呼んだ。少年は皇女の背に無言で深々と礼をした後、車椅子から離れた。そのままホールの外へと向かっていく。
「さあ、お話をどうぞ」
少年が離れたのを見届けると、皇女は悪戯っぽく微笑んだ。
***
皇女の興味が尽きることはなかった。あれこれと質問攻めにされるうちに、《迷信狩り》での話の種はあっという間に底をついた。
皇女が自ら話題を振ることは無かった。それも慎みというものなのか、相手の話を聞く態度に徹することを教え込まれているようだった。そうして、彼女はその聡明さですぐに話を理解し、的確に質問を返して来るのだった。
誰もいない学内を巡って教養学部付属の図書室に辿り着き、なんとか話題を探そうと思ったが、皇女の好奇心を満たす話はここでもなかなか見つからなかった。
賢明な皇女を楽しませ、飽きさせないためには、単に奇妙なものを見せるだけでは駄目だ。皇女が自分から能力を発揮し、満足できるようにしなければ。そう思いながら、僕は何か良いものはないかと書架を探し回った。
「暗号記法か……」
僕は一冊の書物を手に取った。暗号文の作成や解読の方法を記した修道士の本だ。古代から秘密の遣り取りを大衆の目から隠すために、人々は多くの知恵を絞ってきた。今だって、先生の下にすら暗号文が送られてきている。そして、そうした秘密が一国の君主の運命すらも左右してきたのだ。
過去の血腥い歴史は別にして、皇女ともなればこうした教養もいざという時に必要になるかも知れない。僕は古びた書物を手に皇女の下へと戻った。
「今度はどんなお話を聞かせてくれるの?」
「ちょっとした謎解きなど如何でしょう」
「謎解き?」
皇女は小首を傾げて、濃紺の瞳を好奇の光で輝かせた。子供騙しと言ってしまっては失礼だろうが、簡単な暗号で暇を潰してもらおう。僕は暗号記法の本を開きながら、ノートの空いている部分に即興で作った暗号を書き記した。
「暗号です。暗号文を解読してみて、正しい文章に直してみてください」
僕は暗号を記したノートを皇女に見せた。
『わするういよたのがずおくししさのくしはもらうりっあべにつもてれでみくのいうあゅしをる』
「ふーん……」
皇女はノートを手にとって、指で文字をなぞりながら思案し始めた。時々、少し上目遣いで僕の反応を見ている。
これは実に単純な暗号だ。キーワードも不要。即興で作れるものなのだから、基本中の基本の暗号だ。
「今、私の指を見てたわね」
「え?」
無意識のうちに、文字をなぞる皇女の指の動きを目で追っていたらしい。
「そんな様子だと、すぐに文字の区切りが分かっちゃうわ」
皇女はノートの別のページに同じ文字列を書き始めた。
『わするういよ
たのがずおく
ししさのくし
はもらうりっ
あべにつもて
れでみくのい
うあゅしをる』
「これを縦から読めば『私はアレウスの下僕であるが、さらにミューズの美しい贈り物をよく知っている』になる。転置式暗号ね」
皇女が笑顔で暗号の平文――古代の詩を詠み上げた。こうもいとも容易く暗号を解いてみせるとは見事な腕前だ。僕は皇女を子供だと思って甘く見過ぎていたらしい。
「この詩を引用して、代々、皇帝は戦争を避けて子供を他の王家と結婚させてきたの。この詩は帝国の礎ね」
そう言いながら、皇女はそのままノートに別の文章を書き始めた。
「今度は貴方たちの番。はい」
皇女から手渡されたノートにはさらに暗号が書かれていた。
『おさせへてすさのめけちにくしねうぞへしょすうちる』
これもまた転置式暗号だろうか。いや、どこで区切っても上手く文章にならない。ということは、別の暗号を使っているということになる。ここまで短い文章で複雑な暗号を使うとは思えないが、それが何か考えなければならない。
卯月のほうはきょとんとして、何が何だかという顔をしている。こうなれば学徒として、僕が暗号を解かねば。暗号文を凝視し、法則性を探す。
「どうかしら? ヒントが欲しい?」
「いえ、皇女殿下は既にヒントを与えてくださっています」
僕は暗号を指差して答えた。
「殿下は先程、『帝国の礎』と仰りましたね。この暗号も古代の皇帝に纏わるものです」
そう言って、僕は復号した文章をノートに綴った。
『いくさはたこくにまかせておけなんじはけっこんせよ』
「古代の皇帝は、手紙の文字を三文字ずつずらして暗号文にしてから伝令に渡していました。同じように三文字ずつずらし直せば『戦は他国に任せておけ。汝は結婚せよ』となります。先程の詩と対になる金言ですね」
「あら。お見事」
皇女は拍手しながら微笑んだ。その幼い見かけとは裏腹に、彼女は換字式暗号まで知っている。既に優秀な家庭教師が付いて、本格的な教養を身につけているようだった。
「それじゃ次は? どんな暗号を見せてくれるの?」
さて、困ったのはこちらのほうである。これ以上に難しい暗号となれば、さらに長文を書いてキーワードを使わざるを得ないだろう。そうなれば、ちょっとした暇潰しとは訳が違ってくる。しかし、お菓子をせがむ子供のように、愛らしい皇女の笑顔は次の謎解きを待っている。
僕は咄嗟にポケットから先生に送られてきた手紙を取り出した。明るい部屋の中で改めて見ると、その封筒と便箋は全体が黄ばんでおり、封蝋までもが黄色い。とても薄汚く感じる。
「申し訳ありません。僕も答えは分からないのですが、恐らくこれも暗号です」
僕は黄ばんだ便箋を皇女の手に触れさせないため、暗号をノートに写し取った。暗号文は僅かな種類の文字から成っていた。多分これも換字式暗号の一種だろう。
「何これ……簡単そうに見えるけど……知らない暗号……」
皇女は口元に指を当てて眉を寄せた。僕も暗号記法の書物を探ってみたが、換字式暗号を使っているということくらいしか分からない。
暗号の最初の一文と差出人の名前はそれぞれ以下のようなものだった。
『ね る た れ ち か え れ
き ま
か ち を お ち ね た ま
か ち を お ね ま
ち て た ま ふ れ』
『き ね お た か ち そ え
ち て た ま ね か た そ
か ね え た ち き え そ
か そ』
どうやら意図的に文中に空白や改行を設けているようだった。これにも何か意味があるはずだ。しかし、手紙は全部で二百九十文字から成り、十四種類の文字が延々と連なっている。法則性はあるはずだが、それが何かは見当がつかない。
複雑な暗号にはキーワードがつきものだった。特別なキーワードを知らなければ、簡単には復号できないようになっているのだ。
「でも、きっと古典的な暗号ね。一つの段落にある文字数は必ず偶数。十四種類の文字を組み合わせて、何文字かで一つの文字を作っているはずね」
皇女が指摘した。確かに言われるとその通りだ。
「ポリュビオスの暗号表では、こんなふうに暗号にしたい文章の文字を縦と横の文字に置き換えたの。『た』は『うい』、『み』は『おえ』みたいに」
そう言って、皇女はノートに升目を引き、暗号表を書いた。
|き|か|お|え|う|い|あ|
├―┼―┼―┼―┼―┼―┼―┼―
|ろ|や|へ|に|そ|く|あ|あ
├―┼―┼―┼―┼―┼―┼―┼―
|わ|ゆ|ほ|ぬ|た|け|い|い
├―┼―┼―┼―┼―┼―┼―┼―
|を|よ|ま|ね|ち|こ|う|う
├―┼―┼―┼―┼―┼―┼―┼―
|ん|ら|み|の|つ|さ|え|え
├―┼―┼―┼―┼―┼―┼―┼―
|” |り|む|は|て|し|お|お
├―┼―┼―┼―┼―┼―┼―┼―
|° |る|め|ひ|と|す|か|か
├―┼―┼―┼―┼―┼―┼―┼―
| |れ|も|ふ|な|せ|き|き
└―┴―┴―┴―┴―┴―┴―┴―
「これなら七文字だけで済むけど。でもこの暗号はわざわざ十四種類にしてる」
「何故でしょうか……?」
皇女は首を横に振った。流石の皇女でもこの暗号の緒は掴めていないようだった。古典的な換字式暗号であるなら法則はありそうなものだが、文字を当てはめても文章が成り立たない文字列しか出てこない。それに、空白や改行の謎も未だに分かっていない。
「これは手紙なの?」
暫く経って、皇女が僕が持っていた封筒を見ながら尋ねてきた。
「ええ。先生……調査官のミシェル・ワーズワース先生に送られてきたものです」
「それよ!」
皇女が閃いたというように手を叩いた。
「きっと文頭は宛名のはずだわ。『ミシェル・ワーズワース』を暗号化したのが最初の段落よ」
皇女が文頭を指差す。
「ここが『ミシェル』と対応するの。『ェ』は濁点と同じように、小文字専用の組み合わせがあるはずだわ」
「それだと『ミ』が『ねる』ですが、暗号表からは合わないみたいですね……。出鱈目な文章になってしまいます」
「あ……そうだった」
僕の指摘に、皇女がため息をついて項垂れた。
「ねえ。それって、順番が違うのかも」
ずっと無言だった卯月がついに声を発した。順番とはどういうことだろうか?
「左の二行と右の二行に、同じ種類の文字が固まってる。このままだと、組み合わせられないと思う。だから――」
何を思ったか、卯月は暗号の書かれたノートを各行で縦に引き裂いた。そして、それを並べ替え始めた。
卯月が順番の変わった文頭の段落を指差す。それは綺麗に空白を詰めた文字列になっていた。
『る れ ね た か れ ち え
き ま
ち お か を ね ま ち た
ち お か を ね ま』
「先生の名前は似たような文字ばかりだから……『ワ』は『ちお』、『ア』は『かを』、『ス』は『ねま』、濁点は『ちた』になると思う」
この時になって、僕はようやく、この暗号が転置式暗号と換字式暗号を組み合わせたものだと気付いた。余計な空白は意図的に入れたのではなく、文字列を転置した時に生じてしまったものだったのだ。
「この文頭の段落が皇女殿下と卯月の言う通り、先生の名前だとすれば……暗号表を埋めていけば、十四種類の文字の組み合わせが、どの文字に当てはまるか分かります」
僕はノートに新たな暗号表を書いていった。恐らく暗号化の際、暗号表にも転置にもキーワードを使ったはずだ。それらに頼らず、ここまで解読できたのは手紙の性質と名前という鍵があったからだった。
新たな暗号表が出来上がり、僕は試しに差出人の名前を復号にかけることにした。
「『しゅうどうししきょう』……修道士司教……?」
それは名前ではなく、謎の肩書きだった。
ね る た れ ち か え れ
き ま
か ち を お ち ね た ま
か ち を お ね ま
ち て た ま ふ れ
き ち え お き れ
ふ て を そ て き れ そ
て ち た え
て ふ ま ま て て え ま
き た
て ふ ま ま ね ち そ そ
か れ
て る お そ て ふ ま ま
か ち そ そ て ね え た
か そ
か る お ま ち ね れ た
ち か た ま ふ き れ た
き か た ま て か ま そ
て ち お た き て そ そ
き き ま そ て ふ え た
ち か た ま ね を
る ね え お ふ ふ た れ
か ち ま た か き ま た
ふ ち え た か れ
き か た ま か ふ た た
き ち れ お か て お え
ち て た お き か れ ま
き ね ま を ち ね た た
ち き え お ね ね そ ま
き か ま そ ふ を
て て ま れ か ち お た
て ふ ま ま ふ る れ れ
ね か を た ち そ
き る そ れ
ち ね れ た ち ふ ま ま
ふ を
る る れ そ き か ま れ
ふ た
て ふ ま ま ふ れ
か ね そ そ ね ふ を え
き て た え
き ね お た か ち そ え
ち て た ま ね か た そ
か ね え た ち き え そ
か そ




