狩人狩り 五 ~ 園芸
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薔薇は病害虫の多い植物だ。柔らかい花弁、しなやかな茎。その繊細さは美しさの代償だった。
学者や医者にとっては薬用目的とされる植物ではあるが、それでも美しく大きく咲かせたいというのが人の性であろう。私はまず大学の植物園の入口付近にある薔薇園から仕事にとりかかった。
薔薇はせいぜい一メートルにも満たない樹高しか持たない小さな植物だが、常に注意を怠らないようにしなければ綺麗な花を咲かせることができない。特に害虫の活動が活発になる春から夏にかけては、庭師の仕事も厳しくなる。
ルークラフト卿は剪定がまだだと言っていたが、私が薔薇園を確認したところ、既に枝の剪定は殆ど完了しているようだった。貧弱な枝や枯れ枝は除去されている。
ここからはさらに、残された枝から不要な芽や蕾を整理することになる。こうした作業は同じ剪定鋏を手に行うが、厳密には剪定とは異なる。
まずは養分が分散しないように、芽かきを行う。不要な芽を除去すれば風通しもよくなり、病害虫への対策にもなる。私は混み合った茎の中から、小さな芽だけを抜き取っていった。
既に紅色の小さな蕾が付いている薔薇もある。弱っている蕾は養分を主蕾に集めるために切り取ってしまう。作業を進めていき、植物園の入口から医学部の校舎側へと近づいていくと、今度は白い蕾が並ぶようになった。赤と白、二色の薔薇を分けて育てているようだった。
「テントウムシ……」
薔薇の茎をテントウムシが這っている。大学の植物園には様々な植物が所狭しと植え付けられているが、それだけ虫や鳥もいるということだ。テントウムシがいるということは、どこかにアブラムシもいるということだろう。いずれ駆虫剤も必要になる。
私が薔薇の葉を見ていくと、黒い点がついた葉が散見された。黒点病だ。恐らく、早春頃の長雨で葉がやられたのだろう。私は黒点のついた葉を剪定鋏で切り落としていった。一度、こうなってしまった葉は仕方ない。
私は視線を落として病気になっている薔薇の株元を見た。株元の土は剥き出しのまま、乾燥している。黒点病はこうした土の上の、低いところから現れる。
薔薇は落葉樹である。自然の中では株元に葉が落ちているが、剪定の終わった庭園では葉が土に落ちることがなく、乾燥してしまう。土の劣化と黒点病を防ぐために、土の上に藁を被せておく必要があった。肥料や薬剤だけでなく、このような資材も追加して注文しておくことにしなければ。
さらに、夜盗虫の卵と思われる虫の卵がついた葉を除去する。この虫は名前の通り夜中に植物を食い荒らし、昼間は土の中に隠れてしまう。こいつらは孵化する前に始末するに限る。
「とりあえずはこんなものかな」
まずは薔薇の開花と成長のために優先される作業だけ終わらせた。明日以降も、植物の成長に応じて同じ作業が繰り返される。こうした地味な作業を毎日続けるのが庭師の仕事だった。
他の植物についても、ひとまず目についた作業を実施した。施肥、潅水、駆虫。新苗については分枝を促進するために、あえて枝先を摘芯する。
こうして作業をしている間にも、植物を採寸してスケッチを取ったり、薬用植物を採取する人の姿が目に入る。中にはミツバチに紐をつけて飛ばし、どの花に留まるか調べている男もいた。何を目的としているのか私には判断できないが、きっと重要な研究なのだろう。
花を愛でては飽きるばかりの貴族と異なり、大学の人々は必ず美しさ以外の観点を持っているようだった。それは私のような庭師の仕事に近いものもあれば、ミツバチを追いかける男のように、常人からは理解しかねるものまで千差万別だった。
それでも、彼らが植物にかける情熱は真剣な表情から伝わってくる。庭という同じ場所で働く者として、それだけは私にも分かった。
ここまでは慣れた仕事だった。問題はここから先にある。私は日光を反射して輝くガラスの温室を見た。あの中で一体どのように庭仕事を進めるべきだろうか。期待しているとは言われたが、温室での植物栽培なんて想像もつかない。
「仕事は順調かね?」
急に声をかけられて振り向くと、そこにはスケッチブックを片手に三角帽を被った先生が立っていた。
「今は順調。植物園の手入れをやってるけど……」
私は先生に温室のことを話した。今のところ、新大陸での調査経験を持っている人物を先生しか知らなかった。先生であれば、ある程度、温室に必要な知恵を貸してくれるかも知れない。
「温室か。あの建物には高さ十メートルの植物だって中に入るはずだ。それほどに育つ植物と言うといくつかあるが、まず椰子を育てられるようにしてみてはどうかね?」
「椰子?」
「新大陸の中南部でよく見る資源植物だ。北部の入植地にはあまりないが。椰子の実は食用や油をとるのに使える」
先生はスケッチブックを開いて、独特な樹形の植物の画を見せた。枝のない、反り立つ幹の頂点から左右に裂けた複葉の葉が四方八方に伸び、その根元には茶色い実がついている。見るからに奇妙な樹だ。
「新大陸の密林の気温は二四度から三十度程度。湿度は常に高い。目安としてはそれくらいだろう。椰子が越冬できれば、他の多肉植物もいけるんじゃないか」
「逆に暑すぎるとどうなるの?」
「それは……枯死するんじゃないか。夏季は少し換気か、冷却も必要かも知れん」
私は先生の話をメモにとりつつ、頭を整理しようとした。まずは椰子。それから多肉植物。恐らく、温室は美観よりも環境を重視して手入れすることになる。今の私の頭の中と一緒で、屋外の整然とした庭園とは異なり、温室は雑然とした景観になってしまうだろう。
私が俯いて考え込んでいると、先生が再び声をかけてきた。
「植物は本来、勝手に育つものだ。君がどんな温室を想像しているか私には見当がつかないが、成り行き任せの景観もまた、自然美の風景として面白いのではないかね。そのうち温室で生物も飼育したいとか言い出す者も出てくるだろうしな」
先生は軽く笑みを浮かべながら、人工美で彩られた花園に向かっていった。
成り行き任せ。それは先生自身と同様に、奇妙な外見に見せかけて実は巧妙な計算に基づく強かな、逞しい生き方なのだろう。温室の美観に拘るよりも、そのほうが良いのかも知れない。
私は先生の背に向けて礼を述べると、カミルの寮の部屋へと向かった。
***
カミルと合流し、私は大学の中央図書館へと向かった。各学部付属の図書室と異なり、中央図書館は独立した棟になっており、書物や論文を大量に保管していた。
図書館の中では、講義の終了後にも真面目な学生が図書館で調べ物をしたり勉強をしたりと、それぞれに過ごしている。学内の学生の多くはカミルも含めて皆揃いの地味な黒いガウンを羽織っており、一目でそれと分かる。
ホールの壁には書物を寄贈した者の名前が並んだリストが貼られており、その権勢を誇っているようだった。実際にこれだけの書物を収集、保管するには、大学の予算だけでは足りないのだろう。
本が充実していれば必要な情報が存在する可能性は高まるが、それに行き着くまでの時間もかかりやすくなる。先に図書館に詳しい人に話を聞いたほうが良さそうだった。
とりあえず司書のいる場所へと向かう。
「どうしても論文を閲覧したいんですよ! お願いします!」
私たちが司書の詰めている受付に近づくと、一人の学生が司書に詰め寄って何事か揉めていた。
「その論文はたとえ医学部生でも、担当教授の許可が無いと駄目ですよ。何度言ったら分かるんですか」
「そこをなんとかお願いします! 許可はすぐに取ってきますから」
「だから、無理なものは無理だと――」
彼らのやりとりは二進も三進も行かないようだ。
「ヴィルマー!」
揉めている学生を見て、カミルが声をかけた。どうやらカミルの友人らしい。
ヴィルマーと呼ばれた学生はカミルのほうを振り向き、バツの悪そうな表情を浮かべた。
「あまりしつこいと、他の学生の迷惑にもなりますよ。許可が出たら来てください」
司書が渋い顔でヴィルマーをあしらう。ヴィルマーは無言で、カミルの視線から逃れるように去っていった。
「何やってんだ、あいつ……」
カミルは首を傾げながらも、司書に熱帯性の気候や植物に関する書物や論文の場所を聞いた。司書は先程とは打って変わって丁寧に書物の場所を教えてくれた。
参考になりそうな書物を集め、持ってきたノートに必要な情報を写していく。先生が教えてくれた地域は新大陸の中南部、アマゾンと呼ばれる地域であることが分かった。主に巨大な広葉樹が高層で育ち、シダや蔓、蘭が下層に育つ。
これら下層の植物は他の樹木の上で生育する着生植物であるという。つまり、遥か高層で陽光を占拠する巨木の表面を覆うように、その上で別の植物が育つということだ。増々もって度し難い。
図譜に描かれたアマゾンの様子はまるで無秩序で、あらゆる植物の枝や葉が絡まり合っている。その密度には圧倒されるばかりだ。これを人の手で再現しようなどとは、とても考えられない。
ただ少なくとも、これらの植物に必要な水分を暖房の蒸気だけで補うのは不可能に思える。暖房に頼りすぎれば植物が枯死するかも知れない。着生植物が根を張らない以上、単なる散水以外の何らかの方法で水を空中に送り込まねばならないだろう。
「何か心配がある?」
カミルが熱帯性の気候に関する書物を手に尋ねる。
「えっと、温度計とか、湿度計とか。計測に必要な道具も、高さや場所に合わせて設置しないといけない。後は……」
指折り数えながら、ノートに書き込んだ課題を読み上げる。
「熱心に取り組んでくれているようですね」
その時、スヴィーテン男爵の穏やかな声が後ろから聞こえてきた。
「ヴィルマー君が司書殿に迷惑をかけてしまったようで……様子を見に来たのですが、問題ありませんでしたか?」
「いえ、何も」
「そうですか。少し、確認させていただいても?」
私はスヴィーテン男爵にノートを差し出した。私はあまり帝国の公用語は得意ではない。ノートの内容はコルヴィナ語の走り書きだ。スヴィーテン男爵はカミルに頼んで内容を翻訳してもらいながら確認していった。
「ふむ。計測機器についてはこちらで準備しましょう。問題は水の空中散布ですか」
「何か案はありませんか?」
「知人の数学教授が、流体に関する新しい機器を作っていたと聞いています。それを活用できないか、調べてみましょう」
「ありがとうございます。お願いします」
「それと、私からもお願いがあるのですが……」
スヴィーテン男爵は屍霊術に関する専門書を差し出した。
「帝都で人手不足を気にする必要はありませんが、この機会に屍霊術を利用することも検討してみてください。無理にとは言いませんが」
そう言い残し、スヴィーテン男爵は図書館の出口へと向かっていった。
「男爵には政治的な思惑もあるんだろうけど、ここでも屍霊術か」
カミルは苦笑いしていたが、私には一応、考えがあった。これだけ大きな設備なのだから、屍人形を使わない手はないだろう。
私は屍人形に使える防虫剤についてメモしながら、構想を膨らませた。