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狩人狩り 四 ~ 帝国大学

 帝国大学には学生寮があった。明確な名前はなく、ただ寮とだけ呼ばれている。部屋割りは概ね出身地によって分かれているが、コルヴィナ女王の称号を持つ皇后が権力を握って以来、コルヴィナからの留学生や一時滞在する関係者は優先的に寮へ入れるようになっていた。


 卯月もその例に漏れず、寮へ入ることが許された。これまでの待遇からすれば破格であると言える。いずれ皇帝にも謁見する調査官の助手ともなれば、使用人の如く扱うことは許されないと大学側からも判断されたようだった。


 とはいえ、彼女に与えられた目下の使命は植物園の手入れであり、学生の生活とは程遠い。社交の片手間に学業を嗜む貴族や商家の令嬢に混じって、庭師の彼女が寮に出入りしている姿が、周囲から浮いていることは一目瞭然だった。


 こういう時、ちょっかいを出す輩は必ずいるようである。ある時、そういう連中が木箱に(くちなわ)を隠して卯月の下へ持っていき、「これは入寮の儀式よ」などと言って箱の中を素手で探るように命令したらしい。卯月は難なく(くちなわ)を掴んで箱から引っ張り出すと、ちょっかいを出してきた連中に手渡そうとしたという。


 まさか連中は大学で淑女を目指そうともあろう者が(くちなわ)を素手で掴むとは思っていなかったから、おかげで彼女は一部でかなり恐れられているという噂である。真相は定かではない。令嬢たちの花園に踏み込む勇気もなかった。


 僕のほうは大学に戻って以来、先生とモンバール伯爵、二人の雑務を手伝っていた。帝国の中央郵便局から届けられる手紙を仕分け、怪しいセールスや詐欺めいた手紙は廃棄する。


 この日も、新大陸で見つかった毛の生えた新種の魚類の剥製を売りたいという詐欺の手紙が届いていた。この手の詐欺は途切れることを知れず、常に裕福な博物学者――と、その下にいる僕のような学生を困らせる。

 しかし、ブーケの花束しか見た経験が無く、花に根や葉があることすらろくに知らないようなアマチュアの令嬢博物学者でもなければ、こうした程度の低い詐欺に騙されるようなことはなかった。


 モンバール伯爵の場合、動物についてはいくつかのサーカス一座と提携している専門の仕入れ業者を利用していた。信頼の厚い彼らからの連絡でなければ、研究材料の提供を受けない。そうような経路で、かつて旅先で見世物にされていた珍獣は大学教授の手に渡ることになる。


 モンバール伯爵の手紙の量の多さは既に知っていたが、先生も負けず劣らず送られてくる手紙が多かった。


 先生への手紙は各地の貴族や学者から寄せられる相談や質問が多いようだった。

 どこの国でも博物誌に名前を載せる博物学者は、自身の連絡先を明らかにし、質問を受け付けるという流儀があった。それが誠実な議論と活発な交流に繋がるというのが理由で、先生も連絡先を公開していたようだ。


 手紙の送り主に対して、先生が真摯に返事を書いているのか、それとも食い物にしているのかは不明だった。先生は垢抜けたガリアの文字を綴っていることもあれば、教皇領で使われる堅苦しい教会の共通語まで、あらゆる言語で手紙を書いており、文学科の教授も舌を巻くほどのようだ。


 先生は熱気のこもる教室棟を避けて、比較的涼しくて過ごしやすい解剖学教室の一角に陣取り、朝から晩までペンを動かしていた。僕は毎日、講義の無い時間を見計らって教室棟を出て解剖学教室まで手紙を届けなければならず、雑務の煩わしさでは先生のほうがモンバール伯爵の上に行った。


「よお、久しぶりだな。カミル」


 医学部の研究棟へ向かう途中、一人の医学生が声をかけてきた。ヴィルマーだった。

 この遊び好きの医学生には学内の植物園で知り合った。その時の話はあまりにも下品なので控えておく(植物の雌蕊(めしべ)雄蕊(おしべ)に関する哲学的な会話をした)が、それ以来、お互いに学部外の他愛もない話相手という認識になっていた。


「《半魚人》伯爵の逆鱗に触れて退学になったとか言われてたぞ」


「そんなわけないだろう。そっちこそちゃんと講義に出てるのか?」


「まあ、ぼちぼちだな。最近、関節痛が酷くて……。それより」


 年寄りじみた言葉を口にしながら、ヴィルマーがふと思い出したように顔をあげた。


「スヴィーテン男爵がお前を探してたみたいだぞ。庭師にコルヴィナ語でちゃんと説明できる人間が要るってさ。講義が終わった後にでもお声がかかるだろうな」


 ただ増え続ける仕事! しかしそれは既に想定済みだった。帝国の公用語があまり得意でない卯月とのコミュニケーションをとるのに、コルヴィナの言葉に堪能な、しかも彼女を知っている人間()が呼び出されることは既定路線だ。


 先生に手紙を届け終わったら、スヴィーテン男爵にも会いに行くほうが良さそうだった。僕はヴィルマーに別れを告げ、ひとまず解剖学教室を目指した。


 気温が上がり続けるこの時期、腐敗が始まっていない検体の手に入り難さもあって解剖学教室での講義は皆無だった。時折、動物が解剖されることもあったが、それは冬季から始まる講義の準備や研究のためだった。


 スヴィーテン男爵が医学の発展のためには解剖学が欠かせないと熱弁を振るい、宮廷に働きかけたおかげで、この解剖学教室は成り立っていた。宗派や屍霊術とは無関係に、学術のために解剖学教室を開きたいというスヴィーテン男爵の目論見は使徒派の学徒から反抗にあったが、最終的に皇后に受け入れられ、大学はそれに従うことになった。


 先生はそのような真面目な経緯と熱意を全く気にかけることなく、ただ涼みたいという理由だけで解剖学教室を利用していた。それで集中して作業が進むなら良いが、こちらとしてはいい迷惑でもある。


 今日も先生は草色のコートを着たまま、広い教室の中、たった一人で机に向かっていた。インクが凍り付かないように燭台の近くにインク壺を置き、軽快にペンを走らせている。


「先生、今日の手紙です」


「ああ、いつも悪いな」


 先生は顔を上げ、手紙を受け取った。即座に、トランプのカードを操るかのように慣れた手つきで手紙の束を捌き、素早く送り主の名前をチェックしていく。恒例の儀式ともいえる作業だった。


 しかし、いつもならすぐに終わる作業の途中で、先生の指がぴたりと止まった。


「なんだこれは?」


 その封筒には無印の封蝋が押されていた。送り主の箇所には出鱈目な文字列が並んでいる。先生が封を開くと、これまた出鱈目な文字列が綴られた手紙が出てきた。


「暗号……のようだな。誰から送られてきたのかも分からんが……」


 先生が呟く。言われてみれば、確かにそうかも知れない。内密に伝えたい内容を暗号文にする人間がいてもおかしくはない。しかし――


「これはどういうことだ? 私にこれを復号しろとでも?」


 暗号による通信は暗号文を解くキーワードを、お互いが知っていなければ成立しない。先生はキーワードについて思い当たる節がないようだった。だとすれば、この暗号文が送られてきた意図自体が謎だ。まさか、先生に対する挑戦だろうか。


「やってみればいいんじゃないですか、復号」


「簡単に言ってくれるなあ。復号したら、何かご褒美がもらえるのかね?」


「手紙の内容が分かりますよ」


「知ったこっちゃない。どうせ大した内容じゃないだろう。君が復号してみてくれ」


 先生は鼻で笑うと、僕に封筒と手紙を預けた。



***



 植物園の入口では藤がアーチ状の門に絡みつき、その紫の花を咲かせている。花の旬は終わりつつあるが、東洋から伝えられたこの植物は、大学における植物園の意義を一目で知らせるトレードマークとして機能していた。


 なだらかな丘陵の上に位置する円形の噴水を中心にピラミッド状に段差が設けられ、そこから小滝(カスケード)が流れ出している。随所に大理石の東屋が設置された植物園は、貴族たちの庭園に劣らぬ美しさを湛えていた。


 やがて夏に向けて紫陽花が花開き、植物園はさらに優美な風景を生み出すだろうが、勿論それが一筋縄ではいかない作業の結果であることは誰しもが知っていた。


 帝都の気候に順応しており、屋外で育てることができる植物であれば、庭師の心配は少なかった。しかし、新大陸や暗黒大陸あるいはさらに東のインディースの地方で見られる、熱帯性気候でしか育たない植物は温室を作って栽培するしかなかった。


 これまでも冬越しのために温室栽培による実験は繰り返されてきた。それらは既に帝国に存在する植物が対象だった。


 柑橘類の比較的小さな果樹であれば、レンガ組みの温室は問題なく機能した。だが、既存の温室を新大陸の植物に適応させる場合、温度も太陽光の量も足りないという結論が得られた。


「そこで、鉄骨とガラス窓を組み合わせ、さらに多量の太陽光を取り入れることができる、改良型の温室が設計されたのです」


 スヴィーテン男爵は植物園に増設された改良型の温室を前に説明した。三階建て相当の高さの温室は光を遮る壁を限界まで減らし、四方をガラス窓によって覆っている。天井にはドーム状にガラスがはめ込まれ、最大限、太陽光を取り入れるようにしていた。


 僕はスヴィーテン男爵の説明を翻訳するため、卯月とともに説明を受けていた。卯月にとっても、このような温室は初めての設備だ。外からでも内部がよく見えるが、まだ温室は空っぽだった。


「植物の植え付けはまだですが、暖房の準備が整えばすぐに取り組んでもらいます。そこで、貴女には温室内の環境の調整をお任せしたいのです。よろしいですか?」


 スヴィーテン男爵が卯月に尋ねると、彼女は小さく頷いた。少なくとも卯月は新大陸の植物に関する知識はあった。しかし、それを温室において実践するのは初めての経験のようだった。


「サー・ルークラフトから、貴女以上の園芸家はいないと伺っています。期待していますよ」


 スヴィーテン男爵は温室に関する資料を僕たちに手渡すと、満足気に微笑みながら植物園を後にした。

 僕たちは資料を手に、温室へと足を踏み入れた。中から透明なガラス建築を見上げると、清々しく神聖な気分になってくる。


「温室……気温、湿度の調節……」


 卯月が資料と温室内を交互に見ながら、誰ともなく呟いた。

 温室の暖房は直接、木炭などの火力によって供給するのだろうか。しかし、灰による汚染や火災の危険があり、植物の生育には向かない気もする。


 資料を確かめると、外部で温水を作り、その蒸気の熱を取り入れるという設計が書かれていた。蒸気であれば火災の心配もなさそうだが、このシステムを維持するには莫大な労力がかかるように思える。本当に大丈夫なのだろうか。


「なんだかすごい仕事になりそうだね」


「うん……。温室のことは私も勉強しないと分からない」


 薔薇園に温室。卯月の仕事は専門的で緻密なものだ。卯月ですら分からないことがあるのだから、専門的な作業について僕の出る幕は殆ど無いだろう。しかし、帝都での生活に不慣れな彼女を助け、相談に乗れるのは僕くらいしかいない。


「何かあれば、僕も手伝うよ。必要なものがあれば、スヴィーテン男爵とかルークラフト卿とかにも相談してみよう」


「ありがとう。じゃあ、早速お願いがあるの」


「何?」


「図書館に行きたい。できるだけ、色々な植物に対応できるような環境を調べたいから」


「わかった。講義のない時間だったら、いつでもいいよ」


「それじゃ、薔薇園の剪定が終わったら、カミルのところに行くね」


 僕たちは約束を交わし、その日はそれぞれの寮の部屋へと戻っていった。

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