陰謀狩り 二 ~ アルデラ伯爵
先生と僕が荷物を満載した馬を牽いて伯爵の居城に着いたのは二日前だった。
牧夫たちが使う掘っ立て小屋が点在する街道から外れ、乾いた砂利道を進むと、その先に伯爵の居城があるはずだった。
普段乗り慣れていない馬を必死で操ろうと、僕が手綱を引くと、馬は街道の真ん中で苛立たしげに嘶いた。自分の乗っている馬と、荷物を載せた馬の二頭を同時に操るのは僕にとって大仕事だった。
馬の嘶きを聞きつけたのか、すぐ傍の家の戸が開いた。胡乱とした表情の村人と目が合う。
「伯爵の居城はどちらかね?」
先生が村人に尋ねた。
「この先だよ。そのまま真っすぐだ」
三角帽を目深く被り、マントの襟を立てて顔を隠した、奇妙な騎士からの問いにも関わらず、村人は親切に答えてくれた。
牧歌的な故郷の雰囲気は、今も変わっていないようだ。僕はできるだけの笑顔をつくって会釈すると、再び手綱を引いて家を後にした。
辺りは夜闇に包まれ始めていたが、城から漏れる明かりを見間違うことはなかった。伯爵の居城は街道から少し外れた湖畔にあった。
城とは言っても、居住性を重視して作られたそれは、より正確に言えば宮殿だった。
異教徒との戦争中、前の伯爵、伯爵の父は戦死した。
まだ領地経営の何たるかも学んでいなかった伯爵の摂政となった伯母は、さっさと周辺の砦を異教徒に明け渡すと、この城に篭った。
村落や城を焦土化されることに懲りていた異教徒は、伯領から金と兵糧を巻き上げ、伯爵の居城については完全に無視した。おかげで、伯爵の居城は戦争前からずっと同じ姿のままで残っている。
尖塔を備えた左右対称の構造は、当時最新の建築様式を取り入れたものだった。帝都では珍しくないものだったが、故郷とは言え、このような辺境では些か豪奢な建物に見える。
「丁寧に運び込んでくれ。全部だ。濡れたら困る」
先生は出迎えた召使いたちに荷物を運び入れるように指示を出した。かさばる荷物の大半は文芸誌や論文など、書籍ばかりだった。
「どうにかならなかったんですか」
僕が次々に運び込まれる鞄を横目に先生に尋ねる。いくら紙の束と言っても、重量には限度がある。
「どうにもならない。辺境では皆、新しい知識に飢えているからな」
朝から晩まで狩りに興じ、美酒に酔いながら女と遊び、退廃的に過ごす地方の貴族にとって、新しい知識は貴重な財産だった。
新しい知識の源は、奇妙な動植物のお披露目であったり、屍霊術という名の解剖学ショーであったり、科学的な研究という形態を取ることも少なくなかった。とは言え、それらは科学の啓蒙というよりも、見世物じみた娯楽に甘んじていた。
しかし、せっかく金を出してくれるのだから、学者だって文句は言えない。要するにとにかく貴族は暇なのだ。
荷物をエントランスに積み込んでいる最中、初老の召使いを伴って伯爵がやってきた。
「申し訳ない。ワーズワース殿、主たる者が出迎えに遅れてしまって……」
伯爵の蒼白の額には汗が浮かんでいる。かなり急いできた様子が伺えた。
「とんでもない。伯爵閣下にお招きいただき、実に光栄です。カミル君のおかげで、こうして無事にお会いすることができました。お二人の友好に感謝いたします」
先生は三角帽を取ると、それを胸に当てて仰々しく頭を垂れた。
伯爵と召使いは、三角帽の下から現れた少女の顔と、オペラ歌手のような低音の声からなるギャップに一瞬慄いたようだった。しかし、動揺の色はすぐに歓待の笑顔によって隠された。
「お久しぶりです。伯爵閣下」
先生に続いて、伯爵に声をかける。僕が帝都の大学に留学し始めてから、二年ぶりといったところだろうか。
「閣下なんて、そんな勿体ぶった呼び方は止してくれ」
伯爵は神経質に視線を動かしながら応えた。彼は昔から興奮している時はこの調子だった。
「帝都の様子はどうですか? ワーズワース殿は博物学者ルークラフト殿の弟子であられるそうだが、新大陸から持ち帰った植物を研究なさっておいでとか。そうだ。アルデラでも地元の学舎を増築して屍霊術の学部を新設したのです。ワーズワース殿のような紳士のお眼鏡に適うとは思わないが、どうかご覧になっていただきたい」
矢継ぎ早に話題を繰り出す伯爵に、先生は少女の笑顔で頷き返す。
「もちろん、時間の許す限りお話しいたしましょう。閣下は自然科学にもご関心があるとお伺いいたしました。私の話だけでは少々退屈かも知れませんし、こちらをお持ちいたしましたので、是非お読みになってください」
静かな学者の口調で答え、先生は荷物の中から植物図鑑を取り出した。恐らく辺境ではまだ出回っていない最新のものだ。伯爵は目を輝かせて何度も礼を述べた。
「今日はもう遅いですから。お部屋でお休みください」
気を利かせた召使いに案内され、伯爵とともに二階へ上がる。
「一番手前の部屋は今、侍医のヒルシュ殿が使っておいでですが、その隣より先の部屋であれば。どこでも、ご自由に。隅々まで掃除させましたから」
ぎこちない笑顔を浮かべながら、伯爵が廊下に向かって腕を広げる。部屋と部屋の間には燭台を持った召使いが立っていたが、それは階段に近い三部屋だけで、その先は月の薄明かりだけが頼りのようだった。
戦争が残した爪痕は、難民の発生と人手不足という形で浮き彫りになっている。それは伯爵の居城ですら例外ではないようだった。
「ではそこの二部屋をお借りしましょう。奥には我々の荷物を全部置いて。手荷物は結構。手前の部屋で二人で寝ます」
よろしいので?と聞き返す召使いに、先生は構わないとだけ答えた。
これまでも街道沿いの宿では一つの部屋で一緒に寝ていたので不満はなかった。それに、たとえ手入れされていても、部屋を分けてわざわざ暗がりまで歩いて行く必要もなかった。
早速、侍女たちがやってきて隣の部屋からベッドを動かしてきた。ベッドに触れると、これまで泊まってきた宿のものとは比べ物にならない、柔らかな羽毛の感触が指を伝わる。
同年代の平均的な青年と比較して、長身の僕が満足できるベッドはなかなか無かった。それこそ、道中の宿では、筵を敷いた床で寝ているほうがマシなことまであったのだ。
長身であることは不満の種にはなっても、何らかの自慢になることは無かった。
その夜、柔らかく巨大なベッドのおかげで、僕は日頃の悪夢にうなされることなく、久々に心地よく眠ることができた。
***
アルデラ伯爵カーロイ・ジグモンド。
彼は帝国の東半分を占める王冠諸邦コルヴィナのうち、さらに東に位置するアルデラ伯領を治めていた。彼は今でも負け戦と考えられている前の異教徒との戦争で、領地を拡大したほぼ唯一の貴族だった。
異教徒との戦争が十年前に終結した時、帝国軍の支援の甲斐なく、二つの公国が潰え、そしてコルヴィナはいくつかの王冠直轄都市を失い、和平条約が結ばれた。今のコルヴィナは受動的に平和を享受し、異教徒とのいざこざから目を背けているが、今までずっとそのような植物的態度をとり続けてきたわけではなかった。
遡ること半世紀前の戦争では、皇帝の領土的野心と王冠諸邦の統一という大義名分が一致し、帝国は異教徒を撃退して王冠諸邦コルヴィナを統一した。
それは帝国にとって、初めての成功だった。異教徒をコルヴィナから追い出し、信仰を守るという使命はついに果たされたのだ。
だが、その勢いは長続きしなかった。
異教徒の君候国は、先の戦争で反撃に転じた。帝国は見る見るうちに劣勢に陥り、公爵を擁立した土地はすぐに異教徒の支配下に戻された。
異教徒から皇帝に鞍替えした公国三つのうち南の二つが異教徒の太守領となって主権を失い、残る東の一つは蹂躙された。そこでもいくつかの都市が奪い返され、結局、コルヴィナの王冠の下にその諸邦が統一されることはなかった。
その最中、アルデラ伯領は例外的に戦火を逃れた領地の一つだった。コルヴィナの東で国境を接する衛星国との間でアルデラ伯の領地は取引され、その所有権は貧弱な公国の小領主から、コルヴィナの大貴族であるアルデラ伯へと移った。
伯爵は戦時中、異教徒に免焼金を払い、兵糧を売り、帝国から裏切り者と罵られた。しかし、他の多くのコルヴィナの大貴族も似たようなものだった。誰だって我が身は惜しい。特に国境近くの辺境では、戦後も異教徒と商取引を続けるのだから、妥協に妥協を重ねるのは当然だった。
帝国がそんな大貴族たちを許しているのは、ひとえに帝国の権威がコルヴィナとの共存関係によって維持されているからだった。
六年前に、敗戦の悲嘆のうちに当時の皇帝が亡くなると、途端に次代の皇帝を巡って帝国内で内紛が勃発した。
選帝侯の発言力が強まり、それぞれの州が主権を主張すると、皇帝は権威のみの存在となった。そんな折、当時は一つの称号すら持っていなかった一人の皇女が、内紛を鎮めるためコルヴィナ女王として即位したのだ。
皇女のコルヴィナ女王即位の前、帝国の中枢を牛耳る選帝侯は、身内から勝手に皇帝候補を擁立し、不埒な野心に基づく蛮行を繰り広げた。彼女が王冠諸邦コルヴィナを統べる統治者として戴冠式に臨んだ日、彼女の味方は帝国内には殆どいなかった。
しかし、コルヴィナの大貴族だけは、異教徒との戦争における帝国の支援を忘れてはいなかった。
年代史家の中には、勝ち筋は薄くても、とりあえず内紛に一枚噛んでおこうという大貴族の無謀な賭けに過ぎなかったと見る者もいるが、それはあまりにも無粋というものだろう。
何はともあれ、こうして女王となった皇女とコルヴィナは一蓮托生の運命を背負うことになった。
そして、女王と大貴族の連携は最終的に大きな実りをもたらした。女王は選帝侯が擁立した皇帝候補に膝をつかせ、ついに夫を皇帝の地位へと押し上げ、自ら皇后を名乗る権利を得たのである。
ただ、コルヴィナ貴族は今もコルヴィナの王冠にのみ忠誠を尽くしている。コルヴィナからの支援によって女王の夫が正式な皇帝に選出され、女王が皇后という称号を得た今もなお、貴族たちは彼女を《女王》陛下と呼んでいるのが何よりの証拠である。
皇帝はあくまで他国の支配者で、自分たちは女王の臣であるという理屈が、コルヴィナ貴族の特権の根底にあった。
アルデラの伯爵もまた典型的なコルヴィナの大貴族であり、女王には平伏すものの、帝国の宮廷までは信用していない節があった。だが、戦争によって帝国領内に逃げた小領主たちの領地を吸収し、棚ぼたで拡大してしまった領地を管理するには、彼が帝国の力を必要としていることも事実だった。
だから先生と僕は呼ばれたのだ。帝都から公文書を運ぶ郵便馬車しか通っていないこの辺境まで。しかし、僕たちがアルデラですべき仕事は、戦争中に増えてしまった獣を狩ることでも、信仰の揺らぐ農民に説教することでもなかった。
女王の推す怪現象の調査――迷信を駆逐し、科学を啓蒙する、いわゆる《迷信狩り》を行うこと。それが僕たちの仕事だった。