魔女狩り 七 ~ 魔宴の痕跡
役場での聞き取りが中断され、手持ち無沙汰だった僕と卯月は、修道士ヘンリクとともに魔宴の現場を見に行くことにした。一ヶ月半前から、魔宴の現場はそのまま放置されているということだった。
「誰も近寄りたがらないというほうが正確でしょうな」
修道士ヘンリクは薄暗い広葉樹の混成林の中を進みながら言った。
森には普段、採集や豚の放牧に訪れる者がおり、魔宴の現場を見つけたのも彼らだったという。こうした森での採集を行う者たちの中には修道女や貧しい女性も含まれていた。
しかし、村人の出入りがある場所で、魔宴が行われたことは奇妙に思われた。本来であれば、魔宴は隠れて行われるように思えるのだが、発見された時だけが特別だったのだろうか。
「この辺りです」
修道士ヘンリクが指し示したのは、ナラの古樹が倒れ、その周囲に茸が生えている空き地のような場所だった。倒れたナラの窪みには溶け落ちた蝋燭の残骸がこびり着いている。そして、その傍に立っている若樹には、一抱えの衣装棚ほどの大きさの木製の双十字架が逆さにぶら下がっていた。
風雨に晒された逆さの双十字架は埃を被り、ところどころ黒ずんでいる。
「ここの他には魔宴の痕跡は見つかっていません。ここで一度だけ魔宴が行われたようです」
修道士ヘンリクはまるで穢れを恐れるように、痕跡からは距離を取って説明した。僕が古樹に近寄ると、棄てられた金属製の香炉が、足にぶつかって乾いた音を立てた。
足元に目を落とすと、鶏の骨か皮か、死骸の一部が腐ちて土に埋もれていた。これも魔宴で必要とされたのだろうか。その場で小動物を殺し、その血を悪魔に捧げる。こうして穢された痕跡を見ると、あえてこの空間を避ける村人の気持ちもよく分かる。
よく見ると、双十字架の表面にはまだ足跡が残っていた。双十字架を踏みつけて、悪魔への宣誓を行うという儀式が行われたというのは事実のようだ。
「あまり近寄らぬほうがよいでしょう」
しかし、卯月は修道士ヘンリクの言葉も耳に入らないように、僕よりもさらに逆さの双十字架に近寄っていった。
「ちょ、ちょっと……」
僕が止めるより先に、彼女は徐に逆さの双十字架を若樹から降ろし、足跡の大きさを物差しで測り始めた。
「小さい」
「ああ……そうみたいだね……」
双十字架に残った小さな足跡は女性か、あるいは子供のものだと思われた。卯月は躊躇無く、さらに双十字架を調べ、痕跡を漁った。修道士ヘンリクは目深くフードを被り、僕たちの調査から目を背けている。見ているだけで、そこから汚穢が移ってくるとでも言いたげな態度だった。
穢された場所を触るなんてことは、本来であれば賎業に就くような者の仕事なのだ。それは修道士ヘンリクのように、強い信心を持った者でなくても、あり得ない行為だった。
しかし、僕たちの世界と神を違える卯月には、そんなことは関係なかった。彼女は魔女ではないが、それに近い畏怖を抱かれかねない程度には、異質の存在であることを僕は再認識した。
「これ見て」
卯月が欠けた双十字架の横軸を指さした。
「何だい?」
「多分、何かで切ってる」
双十字架の横軸を見ると、その切り口は実に滑らかで小奇麗なものだった。恐らく、使われたのは鋸だろう。このくらいの太さの木材であれば、男性なら自力で圧し折ることができる。
それを、わざわざ道具を用いたということは、やはり女性の仕業である可能性が高いように見える。
「戻しておく?」
「うん。そのままにしておいたほうが良いと思うよ」
「わかった」
卯月は若樹の枝に、逆さに双十字架を再びぶら下げた。
彼女の身長でも容易に手が届く位置に双十字架は下げられていたのだから、これもまた女性によるものだということを裏付けていた。
「まだ、終わりませんか?」
修道士ヘンリクが恐れを帯びた声で尋ねてきた。
「すいません。もう少し、調べさせてください」
他に何か、証拠になりそうなものはないだろうか。僕は足元を探ってみた。
鶏の死骸は時間が経っていたものの、まだ原型を留めていた。しかし、それはあまりにもはっきりと残っているように見える。
野犬でもいれば、すぐに食い散らかされてしまうだろう。だが、目の前に落ちている死骸は、そのままの形を残していた。
「毒で殺したのかも」
卯月が死骸を見下ろして言った。
「それで他の動物も寄り付かなかったってことか」
「そう。絞めなかったんだと思う」
魔宴を行った者は、簡単にくびり殺せる鶏に、わざわざ毒を盛った? そのようにせざるを得ない理由があったのだろうか。
僕は先程、蹴飛ばした香炉を拾い上げた。中にはまだ香が残っているようだった。
「ヘンリクさん。魔宴に香を使う必要ってありますか?」
「淫らな行為に及ぶ際に、興奮を高めるために使うようです……しかし、私もそういう話を聞いただけです」
香炉の中身は、ただの乳香のようだった。どこの教会でも手に入る代物だ。興奮作用を持っているとは言えない。
「もうよろしいですか?」
「ええ。大丈夫です。長くお付き合いさせてしまって、申し訳ありません」
「いえ、お役に立てれば何よりです」
そう言いながら、修道士ヘンリクは卯月から少し距離を取りながら、来た道を歩き始めた。
どうやら、この魔宴の現場は、本気で悪魔との契約を目的に残されたわけではないように思えた。双十字架は足跡こそ残っているものの真新しく、少なくとも何度も儀式に使われたものではなかった。高価な香炉を使いながら、中身は催淫の目的にも一致していないし、捧げるはずの鶏の血は毒されている。たった一度だけしか魔宴が行われていないという時点で、ここは昨年からの子供の死とは無関係だ。
きっと、誰かが本か聞いた話の内容を真似て、冒涜的な魔宴の痕跡を残したのだ。魔女騒動を起こすために。そう考えるほうがしっくり来る。この現場は、何らかの意図を持った企みの一部なのだ。
僕は考えをまとめながら、森を出た。
「先程の調査の様子、村の者には喋らないほうがよろしいでしょう。穢れは何よりも恐るべきものです」
村に戻る前に、修道士ヘンリクは眉間に深い皺を刻み込みながら言った。その忠告にも、卯月は素っ気なく頷いただけだった。
***
役場まで戻ると、村人たちは既に解散し始めていた。レミュザ氏に尋ねると、今日の聞き取りは中止するということだった。
「体調の良くない者や、興奮している者が多いと、調査が正常に進まなくなってしまうからね。明日、仕切り直そう」
レミュザ氏は僕がまとめた魔宴の現場に関する報告を受け取り、僕たちに手間賃を渡すと宿へと戻っていった。
役場の前に取り残された僕たちに行き場は無かった。これ以上、修道士ヘンリクの修道院で無理に世話になるのも気が引ける。僕はまた明日も調査を手伝うつもりだったが、卯月にそれを話すと、彼女は曖昧な表情を浮かべた。
「それなら、先生に連絡しておいたら?」
少し逡巡した後、卯月は提案した。
「そういえば、そうだね。それじゃ、一旦、僕は郵便局のある町まで戻るよ。日暮れ頃には、またここに戻ってこれると思う」
彼女は恐らくこの調査に、僕たちが長い時間を要することを望んでいないのだろう。
とはいえ、同じ《迷信狩り》の調査官を手助けすることは吝かではないようだし、彼女の真意は図りかねた。あえて邪推するとすれば、それはやはり僕の頼り無さによるところが大きいのかも知れない。
調査が長引き、僕が無理するような場面に出くわす前に、どうにか対処したい。彼女の内心はそのように思えた。
まずは先生に手紙を送って、その間に卯月に宿泊できる場所を探してもらうほうが良いだろう。僕は卯月と待ち合わせの時間を確認し、再び村を出た。
先生への手紙には、なんて書けばよいだろうか。まさか先生も、他の怪現象を調査しているなんて思ってもみないだろう。
今日、手紙を出せば、最短で二日程度で伯爵の居城の地元まで届く。先生がどのように反応するかは分からないが、今は状況を伝えれば十分に思えた。
僕は農地を徘徊する屍人形を横目に、峠を抜けて街道まで戻ると、郵便馬車を追って近場の町まで向かった。運良く街道の途中で郵便馬車を呼び止めることができ、僕は町まで乗せてもらった。
郵便局に着き、いざペンを手に取ると、何を説明すべきか、色々なことが思い浮かんできた。辻医者の一行、ゼレムの村の魔女騒動、宿でのいざこざ、調査官のニコラス・レミュザ氏、魔宴……。僕はとりあえず書けるだけの情報を盛り込み、便箋を閉じた。郵便夫に手紙を渡すと、再び、東へと向かう郵便馬車に乗せてもらう。
こうしてゼレムの村に逗留している間、辻医者の一行はクルジュヴァールに到着しているだろうか。先生は、報告書を仕上げながら、新しい庭師を伯爵に紹介しているだろうか。気がかりが増え、僕は少し落ち着こうと深呼吸した。
空を見上げると、乾ききった春の青空が、果てしなくどこまでも広がっている。
幸運なことに、郵便馬車には今回はゼレムの村に郵便があるという。郵便夫に尋ねると、郵便はコヴァーチ、ビーロー、ネーメトの三家の夫人に定期的に送られているものだということだった。そして、裕福な三家の夫人は、時折、送り主がいる町に呼ばれているようだった。郵便夫は退屈凌ぎに、ゼレムの村の三家について語った。
「御婦人方は、町の若旦那衆から贈り物をもらって、それを村で見せびらかせてるらしいね」
ゴシップを楽しむように、郵便夫はせせら笑った。
「本人たちは町で商人から買ったとか、親切な町娘からもらったとか、誤魔化してるみたいだけど」
子供が亡くなったのは不憫だが、あの三家の夫人たちにもどうやら不審な点があるようだ。
町へ遊びに訪れていると言えば聞こえは良いが、それは火遊びに近いのだろう。自分の家族に隠して、彼女たちは不純な行為にも及んでいるとも考えられる。今回の魔女騒動に関わりがあるかは分からないが、少し調べる必要があるかも知れない。
既に陽は傾き始めているが、馬車のおかげで、村に戻る頃にはちょうど待ち合わせの時間になっていた。役場の前まで向かうと、卯月は既にそこで待っていた。
「おかえり」
「ただいま。どうだった?」
「泊まらせてくれる人、いたよ」
こうした非常事態でも、僕らのような余所者の滞在を許してくれるとは、ありがたいことだ。
「その代わり、お店の手伝いしてって言われた」
「お店?」
「居酒屋なんだけど……」
居酒屋と言うと、酔客を相手にする可能性があり、何とも言えない不安があった。
「とりあえず、荷物は置かせてもらったから。会って話そう」
そう言って、卯月は僕を滞在先へと先導した。




