陰謀狩り 一 ~ 逃げる若者
***
背後に獣の気配が迫ってくる。
「なんで、こんな、ことに……」
僕は全力で森の中を駈けずって、先程現れた黒い獣と距離を取ろうとしていた。
しかし、貴族たちが狩りに使う山裾の森はほとんど手入れされておらず、鬱蒼と茂る枝葉が影を落としている。
走っていると、何度も倒れた樹木の幹や蔓植物に足をとられた。
伯爵から借りたアンティークものの猟銃は逃げている間に落としたらしい。
落馬したのに骨折していなかったことだけが不幸中の幸いだろう。とにかく今は逃げ延びて、誰かと合流しなくては。
必死に足を動かしている最中にも、獣が地を蹴るしなやかな音がテンポよく伝わってくる。
僕は涙やら汗やらでぐしゃぐしゃになった顔を拭いながら走った。涙が目に溜まり、樹木と開けた空間の境界が分からなくなってくる。
やがて木々が途切れた場所、対岸に伯爵の居城を望む湖畔に出た。
「畜生!」
僕は思わず叫んだ。泳げないのだ。だが、引き返すことはできない。
獣の気配がさらに近づいてくる。
周りを見回したが、武器になりそうなものはない。せいぜい子供が振り回して遊ぶ木の枝くらいのものだ。
獣相手には何の役にも立ちはしない。
黒い毛で覆われた狼の姿が茂みの中を見え隠れする。
一匹だけではない。群れではないか。
このあたりの狼は、放牧されている羊だけでなく、時には羊飼いの女や子供まで襲うと聞いている。
ここで大声で助けを呼んだところで、はぐれた先生たちや対岸の誰かが気付いてくれるとは到底思えない。僕は心の中で祈りを捧げようと思ったが、懺悔よりも後悔が募った。
――仕事のために帰ってきた故郷の地で死ぬのなら、せめてもう少し場所を選びたかった。
狼と目が合う。たとえ信仰があっても、やはり死は恐怖だ。絶対的な恐怖なのだ。
僕は身じろぎひとつできなかった。
その時、何かが空を切り、狼を直撃した。
狼は呻き声を上げて吹っ飛び、横腹から血を流していた。
さらに木々の間を縫って飛んでいく。
石だ。
狙いを外れた石は、狼を掠めて近くの岩の表面を弾いて砕いた。
石の投手に怯えたのか、狼たちは幾度か吠え、森の中へと逃げ去っていった。
「助かった……」
尻もちをついて僕は大きく息を吐いた。その時だった。
『オイ』
茂みの奥から凛とした声が響く。
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
ありきたりなブラウスにスカートと前掛け。雪解け頃の森で寒さを凌ぐためのマフラー。至って普通の農家の娘の服装だったが、その顔立ちは東洋人のものだった。
前髪を眉のあたりで切り揃えた短めの黒髪に、切れ長の瞳。毅然とした態度で僕を見下ろす。
手には紐と麻布で作られた簡素なスリングが握られている。
この子が狼を追っ払ってくれたのだろう。
『ドウシタ?』
片言だが、帝国の公用語だ。誰だか分からないが、少なくとも言葉は通じるようだった。
『助けてくれてありがとう。どうお礼をしたものか……』
『レイハイラナイ。トウゼンノコト』
なんと殊勝なことか。しかし、助けられておいて礼もしないというのは男が廃る。
僕はできることはないか聞くべきだと思った。しかし、先に聞いてきたのは少女のほうだった。
「貴方、コルヴィナ人?」
小首を傾げながら、少女は尋ねる。
「え? あぁ、そうですけど。もしかして、コルヴィナ語のほうが慣れてますか?」
「慣れてる」と、少女はさっきよりも流暢な言葉で肯定する。
「怪我は?」
「えっと…ありません」
「良かった。旦那様……伯爵閣下に呼ばれた人?」
少女が探るように僕を見る。わざわざ聞かなくても、彼女の目は何もかも見通す。そんな風に思えた。
「ええ。そうです。正確にはちょっと違うかも知れませんけど」
伯爵が呼んだのは調査官である先生のほうだ。僕は付き添いで来たただの助手に過ぎない。
たとえ僕が伯爵の学友であったとしても、それは今回の件とは別の話だ。
「旦那様は狩りなんて滅多にしない。多分、貴方が大切な客だから狩りに来たんだと思う」
少女の意見が正しいかどうかは分かりかねた。元々、伯爵と僕を狩りに誘ったのは先生のほうだからだ。しかし、ここは話を合わせておいたほうが良さそうだった。
「それは光栄ですね。しかし、迷子になって落馬して、無様なところをお見せしてしまいました」
僕は肩を落とし、顔の涙と汗を拭いた。いたたまれない気分だった。
「いいから。戻ろう。旦那様が心配してるかも」
少女が僕の手を握る。少女の手は張りがあって温かく、心地よかった。僕は安堵と恥ずかしさの余り、手が震えていた。
いずれにせよ僕は助かり、そして見知らぬ東洋人の少女に先導されて森を歩いた。
***
東洋人の少女は《マツモト・ウヅキ》と名乗った。
東洋人と関わりのない僕には、その名前はまったくピンとこなかった。知る人ぞ知る名家の出なのかも知れないが、その出で立ちは農家の娘たちと変わらない。
ウヅキは四月という意味であるとか、《卯月》という字で表すとか。
話されてから、ようやく自分の名前を名乗ることも忘れていたことに気づいた。
「僕はカミル。よろしく」
笑って誤魔化しながら慌てて名乗る。
「どうも、よろしく」
少女が一瞬振り返り、僕を見据える。少しはにかんでいたように見えたのは気の所為だろう。
卯月は手に持った小さな鉈で茂みを切り払い、進んでは切り払い、どんどん前に進んでいく。
「このあたりの土地には慣れてるの?」
僕はしっかりと卯月の手を握ったまま聞いた。
「慣れてる。私、伯爵家の庭師だから。このあたりも時々来る」
意外な答えに、伯爵が持つ広大な庭と、色とりどりの花を咲かせた早春の植物が脳裏に浮かんだ。
彼女があの庭を手入れしているのか。先に紹介してくれれば良かったのにと思ったが、彼女が東洋人ゆえに何か事情があるのかも知れなかった。
他に何か聞くべきか悩んでいるうちに、僕たちは日が暮れる前には伯爵の居城の前まで戻っていた。
まだ先生たちは戻っていないようだった。
「それじゃ」
卯月は僕を残して庭の外れにある小屋のほうに歩き出した。
「ちょっと、待ってください」
「まだ何かある?」
そう言いながら、卯月は周囲を見回している。明らかに警戒している動きだ。
「必ずお礼はします。何か欲しいものとかあれば、できれば希望を聞いて……」
「いいから。私はただの庭師だから」
卯月は素っ気なく応えると、踵を返して再び歩き始めた。
「参ったな」
一人残された僕が頭を掻いていると、背後から馬の蹄の音が響いてきた。
「おーい! 探したぞ!」
聞き覚えのある深いバリトンの声で、先生であることが瞬時に分かる。振り返ると、三頭の馬が近づいてくる。
そのうち二頭には先生と伯爵が騎乗している。
「心配したよ。山の中に入ってしまったんじゃないかと思って。ど、どうしようかと」
馬から降りた伯爵が早口でまくし立てる。
若く神経質な伯爵の表情は常に不安そうだったが、今はさらに蒼白になっており、こちらが心配になる。
「申し訳ありません。落馬して、猟銃も落としてしまったようでして。どうお詫びしたら良いか……」
「そ、それならいいんだ。馬も銃も見つけた。君が、君だけが見つからなかった。だから心配だったんだ」
伯爵は誰も乗っていない馬と、馬に括り付けた銃を指差した。
「まあ、君は無口だからねえ。私と伯爵が話している間にいなくなったことも気付かなかった」
草色のマントを翻しながら、先生は無邪気に笑って馬から降りた。
ここ半月の旅で先生と付き合ってきて、先生の言動に対して僕は既に怒りも湧いてこなくなっていた。この人はこういうことを悪気なく僕に言うのだ。
「それより、君はどうやって我々より早く帰ってきたんだね」
特徴的な三角帽を人差し指でくるくると回転させながら、先生が聞いてきた。
どことなく面白がっている様子だったが、大して興味があるわけでもないという感じだ。
三角帽の下から現れた先生の表情は、その低い声からはまったく想像がつかない、可憐な少女の顔だった。性別も年齢も不詳の先生からの問いは、彼あるいは彼女自身が持つ神秘性に比べれば、全くつまらないものに思えた。
「庭師の方に助けていただいて、それで帰ってこられたんです。幸い、怪我もしてませんし」
僕は真正直に答えた。無様に狼に追われたという点を除いて。
「庭師が?」
伯爵が一瞬、たじろいだように見えた。
「どうかされましたか?」
「いや、何でもない」
伯爵は隠し事が得意な人ではなかったが、僕は詮索しなかった。友人とはいえ、あえて聞くほど無礼になれる立場ではなかった。
「今晩の晩餐には地元の教区長殿や連隊長殿も来られる。私も準備せねば。ワーズワース殿、カミル君、お二人も参加して欲しい。帝都や新大陸の話を披露して欲しいからね」
伯爵は思い出したように召使いを呼ぶと、足早に居城へと帰っていった。
「庭師はどんな者だったのかね?」
伯爵の後ろ姿を見送りながら先生が唐突に、初めて興味深げに尋ねてきた。
「どんなって……東洋人の少女でしたけど」
僕は逡巡したものの、事実を答えた。先生の前では話を誤魔化すなんてことはできなかった。
他人の不審を見抜き、自分のペースに話を持っていくことにかけては、先生の腕は詐欺師に近いものがあった。
実際に、調査官という肩書きを持っていながら、学術的調査に関わる誠実さを感じさせない人柄から考えても、実態は詐欺師なのかも知れない。
「貴族の中には好事家が多い。しかし、持て余すこともまた然り、だな」
先生は独り言のように呟きながら、庭の端にある小屋に視線を移した。
「単なる興味本位なんでしょうかね」
僕も先生に聞いてみる。
「若気の至りという程度なのでは?」
伯爵は内向的な人物で、庭いじりが趣味だとしても特に違和感はなかった。
そこに東洋人が関わっているからと言って、何か問題があるだろうか。
「そうだと良いがね。何かあったら君から直接、話を聞いてくれると私も仕事が省ける。そもそも、そのために伯爵の友人である君を呼んだのだから」
そういうことかと苦笑いする僕を尻目に、先生は三角帽を被り直し、伯爵の居城へと向かった。
その後ろ姿は学者というより狩人そのもので、《迷信狩り》という今回の仕事に見合うものだった。