魔女狩り 一 ~ 罪の炎
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「無理しないでって言ったのに……ほら、診せて」
卯月に促され、僕は左頬を彼女のほうに向けた。彼女の柔らかい指先が、優しく頬の怪我の周囲に触れる。殴られた部分には、未だ熱がこもったような痛みがあった。
「大したことないと思うけど、一応、薬塗っとく」
彼女はそう言って、黄色味がかった軟膏を薄く指につけた。
「ごめん。ありがとう」
自分でも大した怪我ではないと思っている。単なる打撲だ。
卯月が心配するほど、僕は無理をしていないつもりだった。頬の骨や歯が折れるほどの傷ではないし、今だって応急処置をしてもらっている。しかし何故、こうも毎回、僕ばかりこんな目に遭うのだろうか。
成り行きで魔女騒動に巻き込まれた上、正式な調査官でも無いのに調査を行っているというのに。それなのに、この仕打ちとは。
どうも僕は先生と《迷信狩り》に関わってから、運が悪くなっているような気がする。怪現象と言うからには、やはり関わった人間に不運をもたらす、呪いの類があるのではないか。特に今回は魔女の仕業というのだから、誰に注意されなくても不安になってくる。
魔女の仕業と言っても、理由は実に非合理的なものだ。
現在、僕たちが滞在しているゼレムの村で、魔女騒動が起こった原因は、裕福な家の嬰児や乳児が次々に死んだことがきっかけだった。残念ながら子供が死ぬこと自体は決して珍しいことではなく、いつどこでも起こり得る不幸だ。
しかし、村人が魔宴の痕跡を見つけたと言って騒ぎが大きくなり、調査官が呼ばれる事態になっていた。
ゼレムの村はアルデラ伯領の外、ジェピュエル総督府の管轄下だった。ジェピュエルの総督は、迷信深い村を啓蒙する丁度良い機会として、調査官を頼んだようだった。そうでなければ、科学が啓蒙されるこのご時世に、魔女騒動を真剣に取り扱うわけがない。
僕はそのように考えていた。
僕たちは魔女として告発されかけていた未亡人を助け、彼女の営む居酒屋の三階――屋根裏で部屋を借りていた。
彼女が疑われた理由は、薬草に詳しいというだけだった。それでも、村人たちは普段は賢女として頼っていた彼女を、邪悪な魔女に見立てようとした。これもまた不合理で理不尽な仕打ちだ。
もしかすると、人間の心理そのものが、ある種の呪いなのかも知れない。迷信や怪現象として、外部に悪の原因を求める姿勢こそが、呪いの正体なのだ。しかし、そうだとすれば、人は生まれながらにして呪われているとも言えるだろう。怯えながら生きることが、逃れえぬ呪いだとすれば、これほど虚しいことはない。
「痛っ!」
怪我に触れられたことで不意に疼痛が起こり、思わず僕は声を上げた。
「ごめん。痛かった?」
卯月が心配そうに僕の顔を覗き込む。
「いや、全然。大丈夫」
僕は無理やり笑顔を作って応えた。気が滅入っているせいで、痛みも感じやすくなっているのかも知れない。僕は怪現象の呪いを頭から振り払おうと、別の話題を考えようとした。
「良かった。それじゃ、これで終わり」
卯月は軟膏を塗り終えると、それを丁寧に薬箱に戻した。いくつもの小さな引き出しに分かれた木製の薬箱には、調合前の薬種も納められているようだ。
「その薬箱って、卯月が自分で作ったの?」
僕は何気なく聞いてみる。
「これは父が使ってたの。多分、父が作ったんじゃないかな」
卯月はいつものように素っ気ない口調で答えたが、その声色には少し寂しさが感じられた。
父の形見の薬箱。そうだとすれば、聞くまでもなく大切なものに違いない。僕は父の名前すら知らないが、彼女にとっては父は今も身近な存在なのだ。
卯月は一回り大きな木製の箱に薬箱をしまい、外蓋を閉じて鍵を閉めた。
「カミルの両親はどうしてるの?」
卯月が尋ねる。そういえば、僕の身の上はまだ話していなかった。
「父はどこにいるか、誰かも分からない。母は、僕が子供の頃に亡くなった」
「ごめん。嫌なこと聞いたかな……」
卯月が目を伏せた。
「いや、気にしていないって言ったら変だけど……まだ戦争があったからね。仕方ないよ」
「そう……。お父さんには会いたいって思う?」
微妙な質問だ。伯爵にも聞かれたことがある。伯爵も卯月も、それぞれ父を既に亡くしている。だから、そうした事情の手前、父に興味が無いとは言い難い。
「会えるなら会ってみたいかな。元気そうなら良いけどね」
正直なところ、今更会ってどうしたいのか、自分自身、全く分からない。客観的に考えれば、村の女教師を孕ませて雲隠れした男だ。理解しかねると言ったほうが正しい。
「先生と一緒にあちこち調査してたら、もしかしたら会えるかもね」
卯月が少しだけ微笑んで言った。僕自身はそこまで期待していないが、彼女はそれが良い出会いになることを望んでいるのだろう。僕も愛想笑いとばれないように微笑み返す。
もし父に出会えるのであれば、現在、魔女騒動を調査している調査官、ニコラス・レミュザ氏のように知的な人物であってほしいものだ。僕はそのように願った。
せめて、そのような血を継いでいるという事実がなければ、知り合った後で後悔しそうだった。
考えながら、ふと闇夜に染まった小さな窓に視線を向けると、村の外れで何かが眩く光るのが見えた。そして、次の瞬間、光の方角からカノン砲のような轟音が響いた。
「一体なんだ?」
僕は驚きを隠せず、立ち上がった。
「どうしたの?」
「今、外で何か……爆発みたいなものが見えたんだ」
卯月も不安そうに窓へと目を向ける。僕は胸騒ぎを感じ、出掛ける用意を整えた。
卯月とともに階段を下りると、居酒屋の女将である未亡人のマルギトが声をかけてきた。
「何かあったの? 変な音が聞こえたけど……」
「ちょっと様子を見てきます。マルギトさんはここにいてください」
僕と卯月は角灯を片手に、居酒屋を出た。
光は、村の中央を横切って東西に延びる河川に近い、居酒屋から見て北西の農地の方角から見えた。今のところ、それだけしか分からない。
しかし、とにかく現場を見に行かなければならない。逸る気持ちを抑えきれず、僕は早足で光の見えた方向を目指した。
「ちょっと待って」
卯月が後ろから駆け足で追いかけてくる。身長差もあって、僕と彼女の歩幅はあまりにも違いすぎた。
つい、それを忘れていた。
「ごめん。急ぎすぎた」
「光が見えたのは向こうで良いんだよね?」
「ああ、多分、合ってる」
僕は卯月と手を繋ぎ、少し歩調を緩やかにした。
轟音に驚いた周辺の村人たちも、松明を持って外に出てきていた。すれ違った彼らの囁きからは、魔女という単語が聞こえた。魔女なんているはずがない。
しかし、何かが起きていることは現実なのだ。
「君たち! 何かあったのか!」
河川を挟んだ街道の向かい側から、亜麻色の髪に精悍な顔つきの男が現れた。
ニコラス・レミュザ氏だった。恐らく、彼も轟音に気付いて、滞在している宿から飛び出してきたのだろう。
「向こうで光が見えたんです。きっと、さっきの音とも関係があると思います」
「よし、私も一緒に行こう。先導してくれ」
正式な調査官であるレミュザ氏がいてくれれば、これほど心強いことはない。レミュザ氏と合流した僕たちは光の源へと急いだ。
農地へと近づいていくと、木々の間から夜空に赤い火の粉と煙が立ち上るのが見えた。一軒の納屋と思しき建物から火の手が上がっている。
「火事か」
僕たちは納屋に向かって駆け出した。
レンガ組みのサイロの横に建てられた納屋は、その上部が真っ赤に燃えていた。本来、屋根があった部分は既に真っ黒に焼け焦げ、煙を吐き出し続けている。本当に榴弾でも撃ち込まれたかのようだった。
「中に誰かいるかも知れない」
レミュザ氏が納屋の扉に近寄った。しかし、扉の取っ手には錠が下がっている。僕たちが炎の勢いが弱い方向に回り込むと、納屋の中から壁を叩く音が響いてきた。
「一体どうしたんだ、これは……」
騒ぎを聞きつけた村人たちがおずおずと周囲に集まってきた。
「誰か、鍵を持っていないか。中に誰かいるみたいだ」
「なんだって」
しかし、鍵を持っている者はいなかった。これでは埒が明かないと思ったのか、レミュザ氏は壁を壊せる道具を用意するように村人に指示した。
その間にも、納屋の壁を叩く音は響き続けている。壁を叩く音は呻きにも似た不快な声を伴い、村人たちを慄かせた。
レミュザ氏は村人から受け取った手斧を振り、少しずつ壁を壊し始めた。すぐ壊せるはずの錠には手を付けず、扉を開けようとはしない。
「何をしているんですか?」
「こういう時に不用意に扉を開けば、空気が中に入って燃焼が激しくなるかも知れない。まずは小さな穴を開けて中の様子を見るんだ」
あくまでもレミュザ氏は冷静だった。火事が大きくなれば、周りにも被害が広がる恐れがあると考えた上での判断だった。
壁に一つ穴が開き、中の様子を伺えるようになると、レミュザ氏はその位置を僕に譲り、他の位置にも穴を開け始めた。
僕は穴に近寄り、内部を確認しようとした。
次の瞬間、壁の穴から一本の腕が突き出した。僕は思わず尻込みし、息を飲んだ。
腕は冷たい空気を求めるように、穴の外に向けてもがいた。しかし、その腕は既に重度の熱傷に晒され、焼け爛れていた。時折、腕の動きとともに壁に突進するような衝撃が走り、穴から熱風が流れ出す。
「は、早く助けないと!」
僕が振り返ると、レミュザ氏は手斧を振り、壁を打ち壊し始めた。しかし、やがて壁の向こうから振り回されていた腕の動きは弱くなっていった。壁を壊し終える前に、腕は壁の向こうへと引きずり込まれるように消えた。
ようやくレミュザ氏が壁を壊し終えると、僕はすぐさま内部を覗き込んだ。肉の焼ける異臭と煙によって、思わず咳き込む。ハンカチを口元にあてながら目を凝らすと、納屋の床には今も炎に包まれた人型の物体が転がっていた。
――死体だ
微動だにしないそれは、最早、そうとしか見えなかった。
上半身は特に火傷が酷く、元の肌の色が分からないくらい焼け焦げている。それでも足りないというように、炎は未だに身体を焼き続けていた。
「遅かったか……」
レミュザ氏が眉根を寄せながら呟いた。
「とにかく、今は鎮火を待つんだ。周りから燃えそうなものをどかしておこう」
僕はレミュザ氏に促され、一旦、壁から離れた。
振り向くと、僕の肩の後ろから、納屋の中を覗き込んでいた村人たちの恐怖が伝わってきた。
――これも呪いだ……魔女の……
僕は怯える彼らを無視して、納屋の周りを片付け始めた。
あり得ない。魔女も呪いも。
あるわけがない。




