亡者狩り 作者注
本連載作品「迷信狩り」の第二章「亡者狩り」について、設定上の注釈をまとめた。
後書きとしては長くなってしまうため、一編分を以下に記載する。
この注釈が、読後の読者の皆様における疑問の解消、細かい表現への理解の手助けとなることを期待する。
※ネタバレ注意
歴史、市および舞台:
本章では王冠直轄都市デヴレツィア市と、アルデラ伯爵が領主であるヴァルド市が登場する。
それぞれ、実際のハンガリーとルーマニア(トランシルヴァニア)の市をモデルとしている。
デヴレツィア市は王冠直轄都市であったデブレツェン市がモデルである。
ヴァルド市はオラデア(ハンガリー語名でナジヴァラド、ナジは「大きい」の意)市がモデルである。
市の東に位置する要塞など、市内の情景も実際のオラデア市をモチーフとしている。
オラデア市は現在、温泉地として有名であり、作中でも温泉を登場させた。
現地の温泉は日本の温泉とは異なり、いわゆるサーマルバスであり、水着着用の上での入浴となる。
ただし、当時の温泉の様子がどのようなものだったかは資料不足のため、詳しく描写していない。
中世以降、教会の命令で銭湯が禁じられてきた歴史があるが、それは売春に使われ、不純あるいは性病を蔓延させる不潔な場所であるという誤解があったためである。
それでも銭湯は営業されており、肌着着用などの風紀に関する厳しい規制の下で営業していた。
天然温泉の銭湯も通常の銭湯も、営業状況は恐らく似たようなものだと推測し、作中では肌着着用という形で描写している。
農業と内政および市政:
ヴァルド市で市参事会が組織されているという設定がある。
ドイツの各地では、一二名程度の会員からなる市参事会が組織され、市政を行っていた。
ハンガリーでは領主の代官とともに、同様に市民の代表者が判事などを務めていた。
領主が原告となる領主裁判では、司祭も陪審員として参加したが、本作ではこうした市政や裁判の仕組みまで言及していない。
ストーリー上で特に重要でもないので、領主の代官と市参事会が市政を執行しているという設定とした。
卯月が巡察を行うシーンで春の耕作地が描写されている。
一般的な三圃式農業が行われているという設定である。
冬穀の小麦、夏穀の燕麦、休耕地という三種類の耕作地があり、一年毎にこれを入れ替えて輪作を行う。
春は夏穀の燕麦の種蒔きを行う。また、休耕地において家畜による犂耕や放牧を行う。
作中で卯月自身が否定しているように、彼女は園芸家であって農家ではないため、上記のような農業の仕組みと目的については言及していない。
筆者としても本作品では農業を主題としていないため、三圃式農業について詳しく知りたい方は、他に農業および内政を主題としている作品、または農業史に関する専門書を探していただきたい。
ヴァルド市で火曜、水曜、土曜の週三日、市場が広場で開かれるという設定がある。
この曜日の設定は、実際のブダペスト市での市場の開催日を参考にした。
ただし、これらの曜日以外にも、市壁の外では家畜市場や干し草市場が開かれていた。
異教徒の商人が羊毛を買い付けるという描写がある。
ハンガリーにおける羊の供給はオスマン帝国に対しても多く、特に羊毛は多く輸出された。
しかし、ハンガリーにおける香辛料の需要はそこまで高くなかった。
ハンガリーではオスマン帝国から伝わったパプリカの粉が香辛料としてよく利用されていたためである。
異世界ファンタジー作品では香辛料によって荒稼ぎする貿易メソッドがたまに登場するが、食肉の輸出国であり香辛料の代用品が存在したハンガリー、トランシルヴァニアをモデルとする地域では成立しえないと考えられる。
ハンガリーは大規模な育牛、農奴制によって工業の発展が妨げられ、経済的に植民地化されていたと言っても過言ではないが、こうした大貴族制による弊害は行く行く触れる機会もあると思われる。
職業:
職業組合について言及しているシーンがある。
職業組合は作中で書いているように、多くの同業者間において結成された。
親方たちは納付金を払う代わりに親方株を持ち、一部は市参事会に参加するなど、特権を有していた。
しかし、その会員となれるのは親方のみで、その下で働く職人や徒弟は会員ではなかった。
余談ではあるが、職人や徒弟は親方抜きで共同体を作り、職業組合と利益相反しない範囲で相互扶助を行っていた。
職人は自分の出身地を離れ、旅先の市で修業するのが慣わしであり、彼ら遍歴職人はヨーロッパ中に存在した。
遍歴職人は初めて修業地を訪れた際、すぐに親方を訪ねるのではなく、それぞれの職人が利用する専門の職人宿を最初に訪れた。
そして、職人宿の亭主に仲介を頼み、どの親方の下で働くかや給料などを相談し、身分証明書を提示した。
親方の下で働く契約が成立した後、遍歴職人は市参事会などに出向いて必要な書類にサインし、仕事を開始した。
このように、同業であっても、職人と親方は階級身分としては区分されていたと言える。
公示人が公示を行うシーンがある。
公示人は触れ役とも呼ばれ、王や領主の声明を彼らに代わって触れ回る職業である。
識字率の高くない時代には、公示は権威の象徴であり、彼らはその代弁者であった。
しかし、必ずしも重要な声明ばかりが公示されていたわけではなかった。
集会の情報や巷のニュースなど、必要であれば彼らは何でも触れ回っていた。
ただし、基本的に彼らは市に雇われた役人であり、ある程度信用のある人物が担当していた。
公示人は鐘を鳴らす者が多く、今でもイギリスでは王室のニュースを伝える公示人が鐘を鳴らしながら公示を行っている。
フランスでは角笛、オランダでは銅鑼を鳴らす者もいたようである。
医療:
ペスト医師たちが手術を行うシーンがある。
一八世紀の間も、有名な鳥の嘴マスクをつけたペスト医師は存在していた。
だが、一八世紀にはまだ安全な麻酔は開発されていなかった。
外科医は消毒の概念を知らず、傷口を素手で触った。
その結果、戦場では感染症によって、手術を受けた者のほうが、受けなかった者よりも多く死んだ。
鎮痛剤としてアヘンチンキが扱われていたが、麻酔としての効果は気休め程度のものだった。
作中で描かれる野蛮な手術シーンは、以上のような事実に基づいたものである。
卯月が火傷に効く軟膏を渡したという描写がある。
熱傷、炎症に効く漢方薬としては、「紫雲膏」が恐らく最も有名な薬ではなかろうか。
ただし、重度の熱傷に対しては効果がないとされているので、実際の利用には留意していただきたい。
人間の面皮を剥がして移植するという描写がある。
顔面移植は極最近、実用化された技術であるため、この時代には当然存在しない。
粘着剤に関しては、この時代から既に外科手術に利用されてきた。
文化、宗教:
副牧師の棺が聖布に巻かれて埋葬されたという描写がある。
実際に棺に布を巻くことは珍しいことではなかったようである。
副牧師の棺が水中に没した際、信徒が賛美歌を歌うシーンがある。
歌われた賛美歌は三二〇番「主よ御許に近づかん」である。
映画「タイタニック」で、タイタニック号の甲板上でバンドメンバーが演奏している。
また、アニメ「フランダースの犬」の最終話のラストシーンでも流れる。
この賛美歌は一九世紀に作られたため、一八世紀当時には存在していない。
しかし、上記の作品のシーン(いわゆる死亡フラグ)にリスペクトされて、この曲を選んだ。
(一部の賛美歌は著作権が存続しているものがあります。日本語歌詞について著作権上の問題があれば、ご指摘いただきますよう、よろしくお願いいたします。)
卯月がアウレリオ司祭とともに、巡察へ行くというシーンがある。
巡察とは、キリスト教の改革派において、主席牧師と助役牧師が担当教区を巡り、住民の日常生活の聞き取りや、教会設備の視察を行うことを目的とした実態調査である。
巡察の記録は多くの教会に残っており、主に教会設備の不備や備品の不足、細々とした日常の相談が記されている。
ただし、あくまで改革派の取り組みであり、カトリックで組織的に行われていたというわけではない。
司教が《火の試練》を受けるシーンがある。
《火の試練》は、一五世紀末にフィレンツェ共和国を牛耳った修道士ジローラモ・サヴォナローラの失脚の原因となったことで有名である。
サヴォナローラは敵対するフランチェスコ会の挑戦を受け、弟子のドミニコに《火の試練》を受けさせた。
しかし、両修道会は直前になって議論を始めてしまい、結局、試練は中止された。
これに怒った群衆は暴徒化し、サヴォナローラは民衆の支持を失ったと言われている。
記録されている《火の試練》では薪に火薬や油が撒かれ、歩けば確実に火傷する状態だったらしい。
なお、年代史によれば、《火の試練》を受けた修道士は、直前に服を脱いで何も隠していないことを確認させられたという。
司教の脱衣シーンは、一応、こうした歴史的な考証に基づいたものである。
当時の下着についても設定は存在するが、この先は読者の皆様のご想像にお任せする。
ユーリヤが猫花瓶の剥製を作るという描写がある。
また、ユーリヤの部屋に目玉の瓶詰標本があるという描写がある。
当時、博物学はアマチュア学者が多く参加していた分野であり、見世物に近い標本も多く制作されていた。
彼らは解剖学的な研究よりも、見栄えの良い標本を作り、高く買い取ってもらうことを目的としていた場合もあった。
イギリスでアルコールを用いた液浸標本の技術が開発されると、博物学者たちはこぞって瓶詰標本を作った。
その中には様々な臓器、奇形の動物、さらには人間の胎児までもが含まれている。
また、当時の博物学者はヒュドラやドラゴン、ユニコーンなど、今では架空の存在だと知られている生物を、剥製で再現しようと試みていた。
こうした事実に因み、奇妙で悪趣味な剥製や標本の描写を行った。
フィクション:
屍人形を動かすためには鐘を鳴らすという設定がある。
中世ではハンセン病患者が外に出る際に、自分がいることを周囲に知らせるために鐘を鳴らしていたという。
これは、ハンセン病が伝染力の高い感染症だという誤解に基づくものである。
しかし、本作において鐘を鳴らすという設定は、こうした習慣にもインスピレーションを受けている。
また、ゲーム「Bloodborne」において、一部の敵キャラが「鐘を鳴らす」ことで倒した敵を復活させることにも影響されている。
ティサ・エルジェーベトが作中で囁いている祈りの言葉がある。
これはゲーム「Bloodborne」の登場人物、教区長エミーリアの日本語版の台詞の一部である。
教区長繋がり。
https://www.youtube.com/watch?v=V_8jc61TTLQ
教会の世話人ユーリヤ・オルロフの台詞や登場シーンは「Re:ゼロから始める異世界生活」の登場人物、魔女教大罪司教のペテルギウス・ロマネコンティを参考にしている。
また、彼女の名前は、カードゲーム「マジック:ザ・ギャザリング」の登場組織、拝金主義に染まって腐敗した偽りの宗教団体ギルド、オルゾフ組をもじったものである。
彼女の拝金主義の聖職者としての性格はオルゾフ組の設定に大きく影響を受けている。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%BE%E3%83%95%E7%B5%84
没ネタ:
当初、市参事会のメンバーは全員名前ありの設定で、それぞれが陰謀に加担していた。
しかし、ストーリーが複雑になりすぎてしまい、構想中に破綻した。
そのプロットは全て破棄され、ホルティ・フェレンツを除く市参事会はネームレス・モブになった。
ハンス・ディンケル少尉の同僚の士官にも、ルドルフ・ミュラー曹長という名前や設定があったが、こちらも没に。
無念。
本作の執筆の際して、前章に追加して、主に下記の書籍、作品を参考とした。
そのため、一部のシーンでは、その影響が大きく出ている個所がある。
また、今後も参考とする可能性が高い。
・「キリスト教の礼拝」著:J.F.ホワイト 訳:越川弘英
・「神の代理人」著:塩野七生
・「目玉と脳の大冒険 博物学者たちの時代」著:荒俣宏
・「ハンガリーの市場町」著:戸谷浩
・「ブダペシュト史 都市の夢」著:南塚信吾
・「鍵穴から見たヨーロッパ 個人主義を支えた技術」著:浜本隆志
・「十三世紀のハローワーク」著:グレゴリウス山田
・「メンタリズムの罠」著:ダレン・ブラウン 訳:DaiGo
・「Re:ゼロから始める異世界生活」著:鼠色猫/長月達平 https://ncode.syosetu.com/n2267be/
(作中で他の方の作品へのリンクを記載してよいのかわかりません…。問題があれば、ご指摘をよろしくお願いいたします。)
また、本作は以下のゲームから主要なコンセプト、設定およびヴィジュアルに関わるモチーフを得ている。
・「Bloodborne」開発:フロムソフトウェア
・「ダークソウルシリーズ」開発:フロムソフトウェア
・「マジック:ザ・ギャザリング」開発:ウィザーズ・オブ・ザ・コースト
最後に、作者が唐突にどうしてもサービスシーンを入れたいと考えた際に
直接的描写を減らしてシチュエーションを重視する、分かりやすく風呂イベントを入れる、雰囲気を壊さないように自然な流れにする、そもそもエロは不要など
細かいアドバイスをくださった某掲示板の皆様にも、この場を借りてお礼を申し上げたい。
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よろしくお願いいたします。