亡者狩り 十一 ~ 二度目の火の試練
翌日から、ヴァルド市では混乱と流血が立て続けに起こった。どこから湧いて出てきたのか、橋とその付近の市門は物乞いに埋め尽くされた。突然現れた物乞いたちによって橋は封鎖され、馬車は立ち往生した。
物乞いは口々に叫んだ。
「真の預言者を出せ! さもなければ、我らにパンを寄越せ!」
不条理で滅茶苦茶な要求を盾に、彼らは市の活動を妨害した。
しかし、荷運びを邪魔された商人も黙ってはいなかった。物乞いの封鎖を突破するため、商人はそれぞれ剣や鈍器などの武器を持ち出した。一般人は市内には武器を持ち込めないため、橋の周辺は一触即発の状態に陥った。
そのうちに、商人と取っ組み合いになった物乞いの一人が橋から落ちた。衆人監視の下でありながら、誰も憐れな物乞いを助けることはできなかった。名も無き物乞いの死体は東の要塞の近くまで流され、やがて沈んで消えた。
今となっては、それが人だったのか、あるいは人形だったのか、定かではないが。
物乞いとは言え、住民の死に市内からも怒りの声が上がった。一向に行われない《火の試練》の延期に苛立った群衆が物乞いの列に加わり、通りを跋扈していく。そして、目抜き通りの広場では怒れる群衆が市庁舎を取り囲み、市参事会を罵った。
不幸にも、何も知らない書記官が広場を横切ろうとして、群衆に袋叩きにされた。広場では《火の試練》の代わりに、商人が準備した商品が燃やされかねない勢いだった。物乞いに煽られた群衆は、何もしない市を相手に、行き場のない怒りを発散し続けた。
「誰が始めたんだ。この騒ぎは……」
「そんなことはどうでもいい。早く事態を治めねば……」
市庁舎の大会議室で、ホルティ氏や他の市参事会会員は狼狽えていた。
司教とともに、先生と僕は再び市庁舎に呼び出されていた。
「私は何度も申し上げた通り、いつでも《火の試練》を受ける準備があります」
居並ぶ市参事会の会員たちを前に、司教は高らかに述べた。
「この事態を治められるのであれば、私はすぐにでも《火の試練》を受けましょう」
石工、酒造、薬種、毛皮、織物、鍛冶、錠前……それぞれ工房の親方を兼ねる会員たちは互いに顔を見合わせた。
市参事会の会員の多くは、市内の商業に携わる職人組合の長だ。彼らは市政を動かす名士であると同時に、職人組合の利益の代表者でもあった。それ故に、市参事会は商業活動の動向には敏感だった。
「……であれば、是非、司教殿にご協力を」
市参事会の古株と思しき、白髭の会員が周囲を見回しながら言った。その目には、職人組合の利益と無関係な連中のせいで、商売の邪魔をされるのは御免だという意志が、はっきりと見て取れた。他の会員も黙って頷き、賛意を伝え合う。
物乞いには職人組合など存在しない。彼らは市に保護される立場であって、市にとっては取るに足らない連中のはずだった。しかし、そこに、本来は親方たちの配下にあるはずの職人や徒弟まで加わり始めれば、話は変わってくる。職人組合会員としての特権を享受できず、鬱屈としている職人にまで反旗を翻されては、市はお手上げだ。
議長席に座っているホルティ氏も、周囲の空気に押されているようだった。ホルティ氏の隣に座っている伯爵の代官は、しきりに首を縦に振って頷いている。最初から、司教が《火の試練》を受けることが正しい解決策だと言わんばかりだ。
代官にとっては、市内で治められる問題について、領主に伺いを立てることは回避すべきことだった。市政の運営が順調でないと見なされれば、自分の首が飛びかねない。先生は万全を期して、代官に予め金を握らせていたが、どうやら杞憂だったようだ。
「よろしい。公示人に《火の試練》の日程を予告させましょう」
ホルティ氏は表情を隠すように、指を組んで顔を伏せた。
「できる限り早くです」
「それでは……明後日、木曜でよろしいですかな。いくら早くと言われても、準備の時間が必要です」
その後、ホルティ氏は書記官を呼び、公示の台本を口述筆記させた。公示はすぐに公示人たちの手に渡り、広場や辻で《火の試練》の公示が行われた。市の徽章を付けた馬に跨り、トランペットをけたたましく鳴らす陪審とともに、公示人は張り裂けんばかりの大声で群衆に呼びかけていった。
「親愛なる市民よ! いざ聞くがよい! 法と正義に則って、市参事会においては、明後日に《火の試練》が行われることを決定した! 繰り返す! 親愛なる市民よ……」
***
果たして、約束の日がやって来た。
再び改革派と使徒派の信徒が、南北それぞれの道から広場に入場し、相見えた。群衆は既に興奮を抑えきれない様子で、広場に歓声や罵声を送り続けている。しかし、前回と打って変わって、西側に位置する福音派の信徒の席だけは、冷めた空気が漂っていた。いよいよこれで、ローベルト師率いる改革派が優勢になるのではないかと、恐れているようだった。
広場の中央に、使徒派の代表である司教とアウレリオ司祭、そして、ちゃっかり使徒派の修道士に化けた先生と僕が歩み出た。それに対して、改革派からは、前回と同様に、ミハーイ師とローベルト師、そしてマリアと数名の信徒が歩み出た。今回も福音派の長である教区長は広場にはいなかったが、教会で祈りを捧げていたいというのが彼女の意向だった。
「わざわざ神の火に焼かれることを選ぶとは、愚かな過ちを犯しましたな」
ミハーイ師が不敵な笑みを浮かべながら、司教を嘲笑うかのように言った。
「福音派の修道士のように、怖気づいても帰っても構わないのですよ?」
彼は最初から、司教が炎の廊下を渡れるとは思っていないようだった。
「私は、神を試すようなことはしません。私は預言者でもない。ただ、貴方たちを裁くために来たのです」
司教は冷徹な口調で言い返した。
この日のために、数々の嫌がらせや、名前は伏せるが――誰かのお節介な解剖趣味にも耐えてきたのだ。彼女の心は既に決まっている。
司教は踵を返すと、すぐに炎の廊下の前へと向かって歩き始めた。司教の冷静で強気な態度に、ミハーイ師は怯んだようだった。
「ま、待て!」
ミハーイ師は司教の背中に向かって叫んだ。
「その法衣は実に物々しい! その下に何か用意して、隠しているに違いない! そうではないか?」
ミハーイ師は司教の法衣を指差して難癖をつけてきた。確かに使徒派の司教の法衣は長くゆったりとしたもので、何かを隠していると思われても仕方は無かった。しかし、聖職者の着物に対して、同じ聖職者がケチをつけるとは馬鹿げているにも程がある。
「分かりました。いいでしょう」
しかし、司教は立ち止まり、振り返ってミハーイ師を睨みつけた。彼女は首から掛けた聖布を解き、それを外すとアウレリオ司祭に手渡した。
さらに、司教は双十字のロザリオを外し、法衣にも指をかけた。司教が司教たる者として身に着ける物が、その身から次々と取り払われる。そして、衆目の前で、法衣の下の法服まで、彼女は脱ぎ始めた。その様子を見て、群衆は下卑た歓声を上げた。
「お、お止めください! 会衆の前ですぞ! 調査官殿も、止めてください! ああ……」
アウレリオ司祭は慌てていたが、彼の両手は既に司教の聖布や法衣で塞がっている。誰も彼女を止めることはできない。薄い下着を残して、司教の白い肌を覆う物は無くなった。
風が吹きつけ、豊かな胸としなやかな肢体が、下着越しにくっきりと浮かび上がる。恐らく娼婦よりも不純な、しかし純粋なその姿に、僕は思わず俯いて視線を逸らせた。
「これで文句はないでしょう」
そう言って、司教は再び炎の廊下に向かって歩き始めた。
司教は周囲の視線など意に介していないように思えた。どんなに群衆が下品な言葉で囃し立てようとも、彼女の決意は揺らがないのだろう。その姿勢が、ミハーイ師をさらに動揺させているようだった。
彼の脂ぎった額は汗に濡れ、醜く皺に歪んでいた。
司教が炎の廊下の前に立った。両手の指を組み、一時、神への祈りを捧げる。
物乞いたちは予め打ち合わせた通り、人夫として《火の試練》の舞台作りに潜入していた。彼らは橋の物乞いに依頼した通りに、炎の廊下を作り上げていた。燃え盛る炎の光は、群衆の目に強く焼き付くように、巧妙に準備されている。しかし、その一方で、入念に準備した新品の薪は、火柱の裏でゆっくり炭化していた。
すべて、先生の指示通りだった。祈りを終えると、司教は炎の廊下へと歩み出した。その姿は、ローベルト師の時と同様に、すぐに煙と炎に隠れて見えなくなった。今度は使徒派の信徒たちが歓声を上げ、改革派の信徒たちがどよめいている。
司教は炎の廊下に入った時と同じ姿で、再び姿を現した。司教が炎の廊下を渡り切ると、ミハーイ師、先生、アウレリオ司祭、そして僕が確認に駆けつけた。
司教の白い足には、傷一つついていなかった。
「いやいや、ご無事で何よりです。これも神の御加護ですな」
先生は少女の笑顔で司教を迎え、長布を彼女の肩にかけて肌を覆った。
「……す……」
「どうしましたか?」
「す、す、すべて……主のみ、み、導きの……」
一気に緊張が解けたのか、司教は言葉の途中でよろめき、僕に倒れかかってきた。
彼女の鼓動が直接伝わり、僕は思わず自分が火に焼かれたような気分になった。司教はそのまま僕の胸にしがみ付いて、しばらく離れそうにない。僕は彼女を抱えたまま、天を仰いで立ち尽くした。
「な……何故……! 馬鹿な……!」
ミハーイ師が驚愕して後ずさりした。
「こ、これは何かの妖術だ……この、魔女が……」
だが、ミハーイ師の呪詛の言葉は群衆の歓声にかき消された。
使徒派だけでなく、福音派の信徒たちも司教の名を叫び、歓声を上げている。少なくとも、これで福音派も面子を保てたことになる。
「さて、どうしますかね? まだ続けますか?」
先生はニヤニヤしながらミハーイ師を見つめている。
「ローベルト師が再び渡れば、よろしいのではないですかね?」
「い、言われなくとも……」
だが、ミハーイ師は炎の廊下を間近で見て、ようやく前回との違いに気付いたようだ。
「うっ……」
ミハーイ師は言葉を詰まらせ、拳を震わせている。先生はミハーイ師の反応を確認して、群衆に大声で呼びかけた。
「《火の試練》は使徒派の代表者、ヴィルジニア・オットボーニ司教が成功させた! 改革派はこれ以上の代表者を出せない! ヴァルド市の教区長は、依然としてティサ・エルジェーベトだ!」
使徒派と福音派の信徒が歓声を上げ、勝利の雄叫びを上げ始めた。群衆も先日までの怒りを忘れたように歓喜し、司教を預言者であるかのように称えている。その中から、ローベルト師は偽預言者だという罵声が響いてきた。これまでの熱狂は、一瞬で風向きが変わってしまったようだった。
「か、勝手なことを言うな!」
「牧師殿がぼんやりしているからです。いや、今はただの説教師でしたね。それとも貴方が《火の試練》を受けるのですか?」
「そ、それは……」
ミハーイ師はまたも口ごもり、そのまま黙ってしまった。
その様子を見ていた改革派の信徒は口々に司教へと罵声を浴びせ始めた。しかし、どこからか現れた物乞いたちが、改革派の信徒に目掛けて爆竹を放った。
「お前たちには火がお似合いだ!」
慌てた改革派の信徒たちはお互いに押し退け合いながら逃げ出した。
物乞いたちは罵詈雑言を叫びながら、再び群衆の中へと分け入って逃げ去った。撤収していく信徒たちに遅れまいと、ミハーイ師もローベルト師を連れて広場から逃げ出した。
「私たち、勝ったの……?」
司教がようやく顔を上げた。
「そのようです」
「本当に? 本当に? やった! おお、主よ! ああ、私はやったのです!」
司教は我を忘れたように歓喜した。長布とともに僕を突き飛ばすと、天を仰いで神への感謝を述べながら飛び跳ねた。
「先に服を着ないと。風邪を引きますよ」
僕は見ていられなくなって、再び司教の肩に長布をかけてやった。
「そういえばそうね。ありがとう」
僕の心配と恥ずかしさをよそに、司教は思い出したように、ようやく服に袖を通し始めた。




