亡者狩り 十 ~ 影の権力者
橋の物乞いが、二人の物乞いのボスだったようだ。しかし、それがどうしたというのか。物乞いが一人、部屋に増えただけだ。今のところ、彼が話の通じる相手なのか全く分からなかった。
橋の物乞いは僕を見下ろして、福音書を手に取った。
「で、何だ。このガキは」
「俺たちの縄張りで勝手に商売を……」
「それで、分からせてやってたわけか」
「はい」
橋の物乞いの後ろに立つ二人の物乞いは、若干、緊張しているように感じられた。
「ありがたい説教垂れ共の本だけ持って、橋に立っていた、と」
福音書の紐を解いてページを開きながら、橋の物乞いは僕の周りを悠然と歩いた。
「見上げた根性だな。もしくはただの馬鹿か」
「どうかお慈悲を……。私は憐れな物乞いです……」
僕は意を決して、泣きながらこれまでと同じ台詞を発した。最早こうなれば、なるようになるしかない。遅かれ早かれ半殺しにされるに決まっている。
橋の物乞いは無言のまま、福音書を丁寧にめくっていく。二人の物乞いは何も言わず、直立したままその様子を見ている。
薄汚れた部屋で、彼の時間だけが動いているかのようだった。
やがて、最後のページまで辿り着き、橋の物乞いは福音書を閉じようとした。しかし、そこでその指が止まった。
「おい、お前ら」
橋の物乞いは、二人の物乞いに部屋から出るように顎で示した。二人の物乞いは顔を見合わせ、すぐに部屋から出て行った。僕と橋の物乞いだけが部屋に取り残された。
「ど、どうかお慈悲を……。私は憐れな物乞いです……」
僕は声を振り絞って、無駄な抵抗を続けた。
橋の物乞いは僕の拘束を解くと、部屋の隅から背の低い小さな椅子を引っ張り出して腰かけた。
「いつまで馬鹿のふりをしていたいか知らんが、先に教えておいてやるよ」
そして、福音書を僕に投げ渡した。受け取り損なった僕の胸の中で、福音書のページが開いた。
そこには何も書かれていなかった。白紙のページが延々と続いている。
「どういう……ことだ……?」
「お前、何を吹き込まれたかは知らんが、要するに騙されたんだな」
「まさか……」
「この状況で他に何が言える? その惨めな顔をお前自身に見せてやれないのが、実に残念だよ」
橋の物乞いは嘲笑うように自分の膝を打った。
「お前はこの本が何の役に立つと思ったんだ? なんで、物乞いの真似事なんてしていた?」
橋の物乞いは愉快そうに僕を眺めていた。
「そ、それは……」
――いや、そうじゃない
「どうかお慈悲を……。私は憐れな物乞いです……」
「おいおい。まだ続けるのか? 本当に、本気で? 物乞いに、物を乞うのか?」
「どうかお慈悲を。私は憐れな物乞いです」
「……」
橋の物乞いは僕の拘束を解いて、それから、語り掛けてきた。彼には、何か用意があるのだ。
「だいたいの奴はこのへんで、送り込んできた奴の名をゲロっちまうんだがな。裏切られたとか何とか怒り狂って」
橋の物乞いは感心したように手を叩いた。
「まあ、ただ同じことを繰り返すしか能のない馬鹿のほうが使いやすいとも言えるわけだがな」
そう言うと、橋の物乞いは上着から黒い手帳を取り出した。
「うちはローベルトのせいで商売あがったりだ。儲けが奴らに流れちまって、だいぶ困ってる。どっかの腰抜け共が《火の試練》だなんて言って邪魔してくれたせいで、奴らは有頂天だ。誰かが奴らを潰してくれないかと、随分と待っていた」
「僕は、王立アカデミーの委任でやってきた怪現象の調査官……の助手です」
「知ってるよ。この市を出入りする人も物も、俺の耳に入らないことは無い」
橋の物乞いの黒い手帳は、ユーリヤが持っていたものとよく似ていた。恐らく、この橋の物乞いこそが、ユーリヤの言うヴァルド市の影の権力者なのだろう。市内に溢れる情報を集め、物乞いたちの頂点に立つ男。
見た目こそただの物乞いだが、彼の頭脳には市を動かす鍵である情報が隠されているに違いない。
「どっかの腰抜け共と違って、うちは確実に事が運ばないと気が済まない、慎重な性質でな」
橋の物乞いが僕の目を見据えた。
「どうやって奴に勝つつもりなんだ? 先に教えてもらおうか」
「それは……」
これまでの《火の試練》の実験で分かったことがあった。それは、灰になりつつある炭の上を歩いても、火傷しないということだった。しっかりと湿り気のない薪を燃やし、準備しておけば何の工夫も要らない。見た目こそ赤く燻る炭であっても、踏み締めたところで痛くも痒くもなかった。
つまり、ローベルト師は本当に何も特別なことをしていなかったというのが、先生の結論だった。問題は、それを如何に悟られずに、上手くカムフラージュするかということだ。もし、カムフラージュに失敗して、本当に燃え盛る炎の上を歩いてしまえば火傷は免れない。最初の《火の試練》では枝や草が投入され、群衆から見える範囲だけに火柱が立っていたというのが先生の推測だ。
「なるほど……できるかどうかは分からんが、まあ学者先生の考えることなんて俺らの分かることじゃねえ」
橋の物乞いは幾分、訝しげな表情をしていたが、一応、説明に理解を示してくれた。
「《火の試練》を成功させるためには、市参事会を納得させる必要があります。どうにか、こちらの予定通り広場のセッティングを行えるように……」
「それなら、手伝えないこともないな」
「ほ、本当ですか」
僕は思わず前に乗り出した。
「いいか。先に言っておくが、ここから出たら俺とお前は無関係だ。何も知らない間柄、お前を送り込んだ奴も。外には報告するな」
橋の乞食も椅子から立ち上がり、前に乗り出した。
「知りたいことがあれば今のうちに言え。やってほしいこともだ。お互いの利益のためにな」
「分かりました。ありがとうございます」
僕は痛みも忘れて、橋の物乞いと相談すべきことを考えた。市内で盗まれた物、運び出されるはずが運ばれなかった物、密会した者。
恐らく、そこには本来、知るべきでは無い情報もあったのだろう。しかし、ここまで来て気にしている余裕は無かった。
改革派教会で盗まれた大鏡は、被害届が出されていなかった。誰が盗み出したのかは不明だったが、市外には出ていなかった。市内でやりたい放題の改革派が、自分たちの被害を市に届けないのは理由があるはずだった。
市内から不作の村へ小麦が運ばれる予定だったが、取り消されていた。誰がその決定を下したのかは不明だったが、小麦は代わりにデヴレツィア市に運ばれていた。卯月が巡察した村では、小麦不足のせいで手遅れになった病人が出ていたという話だった。
ミハーイ師が修道士ヤーノシュ、さらに冬季の祭りで雇われていた興行師の一人とともに、辻医者の一行と会っていた。卯月の情報では、辻医者がミハーイ師に頼まれて、誰かの手術を行ったという。これも、今回の一件と無関係ではないに違いない。
ミハーイ師はさらに、ローベルト師の葬儀以降も度々、同じ葬儀屋と会っている。何かやりとりがあったのだろうが、その内容までは分からなかった。また、ホルティ氏とも面会を行っているようだった。
「あとは……興行師の一行のうち、一人だけ行方が分からんな」
「興行師は冬季に追い出されたんですよね?」
「そうなんだが、一人だけ市内から消えた。辻医者とも会った奴だ。春季の祭りでも誰も見ていない」
「興行師の一人が行方不明……」
「これくらいでいいだろう。もう、夜も明ける」
橋の物乞いが黒い手帳を上着に慎重にしまいながら言った。
「火曜と水曜と土曜は市場が開かれるからな。一番早く準備できるのは木曜だ。そこで始末をつけろ。わかったな」
そう言うと、橋の物乞いは部下の物乞い二人を呼び出した。二人の物乞いは僕に傷の応急処置を施すと、目隠しをして大きな麻袋に詰め込んだ。僕は為されるがままに、袋で揺られながら運ばれた。
そして、見知らぬ路地裏で解放された。
痛む片足を引きずりながら、通りを目指して騒音の聞こえる方向へと歩いていく。やがて僕は以前、ユーリヤから教わった定食屋『三頭の獅子』の前に来ていた。僕は疲労と安堵から、店先で座り込んでしまった。
***
「大丈夫……ですか……?」
道端で蹲っている僕に声をかけてきたのは、ティサ・エルジェーベト教区長だった。
「ええ……いや、少し大丈夫ではないです……」
身体の節々が痛み、悲鳴をあげていた。僕は教区長に支えられ、よろめきながら立ち上がった。
「どうしてこんなことに……」
「調査ですから、こういうことも……ありますよ……」
僕は空元気を出して笑顔を作った。気恥ずかしさから、内心ではあまり心配されたくなかった。
「しかし……無理はよくありません。教会で休んでいってください」
僕は教区長に促され、福音派の教会堂へと案内された。多くの住民から寄付を受け、手入れの行き届いた福音派の教会堂は、使徒派の教会堂とは比べ物にならない清潔感に満ちていた。装飾は地味で内装もほとんど無かったが、それが却って落ち着いた雰囲気を醸し出している。
僕は教区長に案内され、牧師の待合室にある長椅子に寝かされた。
傷に湿布や包帯を巻かれ、水を飲むと、僕はようやく一息ついた。
「私が調査を依頼したせいです……。カミルさん、申し訳ございません」
教区長の白皙とした顔は、今も憂いが影を落としている。
「そんなことないですよ。気にしないでください。これが僕の仕事ですから」
「カミルさんは意志がお強いのですね。このような大儀にも、責務を果たそうとしていらっしゃる」
「大袈裟です……僕はそんな、できた人間じゃありません」
「いえ、貴方はご自身で思っていらっしゃる以上に、主の望む精神を心得ていますわ……私も、教区長としての務めを果たさないと……」
教区長としての務め。それが、どのような事を意味しているのか、僕は思いつかなかった。しかし、思いつめた彼女の顔を見ると、それは取り返しのつかない、何か重大な決断のように思えた。
しばらく休んでから、僕は教区長に礼を述べて教会堂を後にした。普段、教会や修道院の近くに居座っているはずの物乞いたちの姿が、今日は見当たらなかった。それに気付いている者は誰もいないようだった。
再び定食屋『三頭の獅子』の前を通り過ぎ、僕は聖カタリナ修道院付き教会を目指した。二日酔いのまま、さぼり癖のある職人たちが定食屋に入り浸って、昼から酒盛りを開いている。憂鬱な月曜日には、よく見られる光景だった。




