亡者狩り 九 ~ 悪辣なる強欲
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卯月とアウレリオ司祭が巡察を行っている時、先生はひたすら薪を燃やしていた。ローベルト師の《火の試練》が行われてから、かれこれ一週間になる。
僕と先生は毎日、理屈を捏ねて、互いに炎の上を歩く役を押し付けあった。僕がローベルト師を監視するからと言って逃げたこともあったが、そんな日は先生も薪の上を歩いていたようだった。
卯月は時折戻ってきては状況を報告し、火傷に効くと言う軟膏を調合して置いていってくれた。この薬が無ければ、《火の試練》の再現は捗らなかっただろう。しかし、薬がある分、却って火傷する回数が増えたとも言えた。
先生が実験に明け暮れている間、ミハーイ師を始めとする改革派の信徒はますます増長していた。辻説法の回数が増え、あちこちでローベルト師の名が叫ばれた。大通りでは白い服を着た少年少女の信徒が徘徊し、人々から高価な工芸品や嗜好品を回収している。彼ら曰く、悔い改めのために贅沢品の寄付が必要なのだという。
ただ、捲き上げられた品々がどこへ行ったかは、多くの者が知らなかった。その一部はデヴレツィア市の市場で売買されていたそうだが、だとすれば単なる強奪である。人々がローベルト師たちに騙されていると主張する福音派の修道士もいたが、《火の試練》を避けた彼らに説得力は残っていなかった。
また一方で、司教が住み込んでいる牧師館には、様々な嫌がらせが起こっていた。窓に石が投げ付けられたり、酷い時には死んだ猫や鳥が放り込まれたりしていた。司教はどうにか嫌がらせに耐えながら、《火の試練》の実施を待っていた。
ユーリヤは嬉々として牧師館に棄てられた小動物の遺骸を処理してくれたが、それは司教にとって喜ばしいことではないようだった。彼女は必ず処理した剥製や標本を司教に見せるので、それが司教の苛立ちに拍車をかけているように見えた。屍霊術が中断されている間、他に仕事が無く仕方もないのだろうが、それにしてもやり過ぎだった。
ある日、ユーリヤは顔の潰れた猫を剥製にし、顔をくり抜いて花瓶代わりして持ってきた。ユーリヤ曰く『可愛くて実用的』だそうだが、猫花瓶を目にした司教は、その日、食事に一切口を付けなかった。
今、その猫花瓶は修道院の物置で、厚い覆いをかけられた状態で放置されている。物好きな貴族がいれば、きっと買い取ってくれるだろう。
牧師館への嫌がらせの犯人は、改革派の信徒なのだろうが、その証拠は無かった。市に被害を訴えてもみたが、市は取り合ってくれなかった。恐らく、ホルティ氏が圧力をかけているのだと思われた。
あれこれと相談した結果、先生はディンケル少尉を説得し、彼らの存在を対策にした。帝国軍の士官二人を交代で牧師館の前に立たせることで、嫌がらせを抑えたのである。
しかし、士官の姿が目立てば、今度は帝国軍が借り上げている兵舎にも被害が及ぶ可能性があり、この応急処置も長くは保ちそうになかった。
僕たちが後手に回っているうちに、ミハーイ師とローベルト師はさらなる《奇跡》に打って出た。今度は《水の試練》と言って、ローベルト師が閉じ込められた棺を河に沈めた後、引き揚げた棺からローベルト師が無事に出てくるという《奇跡》を見せたのである。眼前で起こった《副牧師の復活》に群衆は歓喜し、彼らの興奮はまさに絶頂だった。
僕がそのことを報告すると、先生は徐に顔を上げた。
いつもの無垢な少女の笑顔がそこにあった。
「頃合いか」
「頃合いって……何ですか、急に」
「薪を燃やすのにも飽きてきたし、そろそろ動こうかという頃合いだ」
市壁の外の空き地で、燻っている薪を火掻き棒で弄りながら、先生は呟いた。
「遅くないですか? 奴ら、どんどん調子に乗っていますよ」
「乗らせておけばいいのだよ。勝手にボロを出すだろう」
僕の不満気な態度も、先生は全く意に介さない。
「奴らに二度目の機会は無い。二度目はすべて我々がいただく」
先生は笑顔のまま、火掻き棒を薪の間に突き立てた。
「そのためには、どうしても市参事会に対処せねばならん」
先生が僕の肩を叩いた。
「広場の権利は市が握っている。邪魔されたら終わりだ。こちらのペースに持ち込まねばならん」
「はい」
「そのためにはどうしたらいいと思う?」
「はい?」
「権力を握っている連中を巻き込むんだ! それができなければ、君は助手失格だ」
突然、言い渡された指令に僕は唖然となった。権力を握っている連中だって?
それは市参事会、その会長のホルティ氏ではないのか?
「私の言っている意味は分かるだろう? 行って来い。私には《火の試練》の準備がある」
先生は思い切り僕の背中を押した。
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「……ナルホドそれで? 何故にワタシの下へ?」
ユーリヤはとぼけた様子で問い返してきた。
修道院のユーリヤの部屋は、目玉の瓶詰め標本が所狭しと並んでおり、常に誰かから監視されているような薄気味悪さがあった。僕はできるだけ早く話を進めようと、無意識のうちに早口になっていた。
「教えてほしいんです。この市で最も強い権力者を」
僕は焦りながらも小銭入れを取り出し、硬貨を差し出した。
「この市の権力者を知ってどうするのデス? 何をしたいのデス? 先に教えていただきたいのデス」
「えっと……それは、市参事会が僕たちの準備する《火の試練》を邪魔しないように、なんとか上手く手伝ってもらいたいんですよ」
僕は必死になって答えた。とにかく今、頼れるのはこの病的な修道女を除いて他にいなかった。
「ワタシは罪深い。それ故に知っているのデス。その権力者を知る友人の友人を」
「本当ですか!」
「あくまで知っているだけなのデス。その人物が取り合ってくれるかどうかはわからないのデス」
ユーリヤはそこまで言って口を噤んだ。
「これでは足りませんか?」
僕は小銭入れから硬貨を次々に取り出して机に並べた。それでも、彼女は動かなかった。
「どうして黙っているんですか」
僕が机を拳で叩くと、硬貨が跳ねて音を立てた。一枚の硬貨が机の上から転がり落ち、ユーリヤの足に当たって止まった。
「アナタ……強欲ではありませんデスカ?」
ユーリヤは硬貨を拾い上げ、それを机の上に戻した。
「ワタシはお金を気前良く支払いたいだけの人間を信用しないのデス。これまでワタシは善意でアナタに情報を与えてきた。それに報いるだけの準備がアナタにあるのデスカ?」
ユーリヤは乱れた銀髪を掻き上げ、目を見開いて僕に尋ねた。
「それは……」
「絶対に口を割らないという覚悟が無い人間には教えられない情報もある。それと金額次第デス」
ユーリヤはそこまで言うと黙り込んだ。そこまで言われても、こちらも引き下がれる状況ではなかった。
「全部持っていってください……。それに僕は絶対に口を割らないと、神に誓います。どうか、お願いします」
僕は小銭入れを丸ごとユーリヤに差し出し、頭を下げた。
「福音書はお持ちデスカ?」
頭を下げたまま待っていると、不意にユーリヤが尋ねた。
「いや、すいません。今は一冊も……」
「正しい情報に報いるためには福音書を持っていくのデス」
懐から真新しい黒い装丁の福音書を取り出すと、ユーリヤは僕に手渡した。
「これだけを持っていくのデス。お金と荷物は全部置いてくだサイ」
そう言うとユーリヤは机の上の硬貨をかき集め、僕の小銭入れ諸共、素早く引き出しにしまった。
「アナタはこれから北の橋に行ってこう言うのデス。『どうかお慈悲を。私は憐れな物乞いです』と」
「どうかお慈悲を。私は憐れな物乞いです……」
「それ以外は絶対に喋ってはいけないのデス。絶対なのデス。どんな目に遭っても絶対に」
***
それから、僕は夜更けまで橋で物乞いに立った。福音書を手に、ひたすら同じ台詞を繰り返した。
「どうかお慈悲を。私は憐れな物乞いです」
しかし、立ち止まる者はいない。こんなことに何の意味があるのか、不安だけが募る。他の物乞いに見つかれば、何をされるかも分かったものではない。
いよいよ止めようかと思い始めた時、辺りを見回すと、橋の両端から男が歩いてくるのが見えた。どちらも型崩れしかけた古い上着と黄ばんだシャツを身に着けており、決して柄の良くない人相をしていた。二人とも物乞いのようだった。橋の上には僕と彼ら以外に影はなかった。二人の物乞いはちょうど橋の中央に立つ僕の脇まで歩いて来ると、そこで立ち止まった。
「どうかお慈悲を。私は憐れな――」
僕が同じ台詞を繰り返そうとした途端、物乞いの片方が僕の鳩尾に拳を見舞った。僕は悶絶しながら身体を折った。そこでもう一人が僕の足に蹴りを入れた。バランスを崩した僕は橋の上に無様に倒れた。
彼らは暴力は止まらなかった。容赦なく蹴りを浴びせられ、僕は丸くなったまま耐えた。
「どうかお慈悲を。私は憐れな物乞いです!」
福音書を握りしめたまま、僕は叫んだ。誰かが助けに来る様子はなかった。
物乞いの一人が僕の髪の毛を掴んで頭を持ち上げると、橋の石畳に叩きつけた。僕の意識はそこで途切れた。
***
痛みを感じて目を覚ました時、僕の視界には低く汚れた小さな天井だけしかなかった。重い頭を少し持ち上げて辺りを見ると、僕の身体は木製の机に縛り付けられ、寝かされていた。どうやら、あの二人に打ちのめされて捕まったらしい。
これからさらに事態が悪化する予感がして、眩暈がした。
ここはどこなのだろう。一体、どれくらい気を失っていたのだろう。考えているうちに、扉の開く音がして、先程の二人の物乞いが再び現れた。すえた臭いを漂わせながら、帽子を被った物乞いが僕の頬を叩いた。
「お前、あそこが誰のもんか知ってっか?」
「え、あ……どうかお慈悲を。私は憐れな物乞いです……」
僕は先程と同じ台詞を発した。何か知恵を巡らせようと思っても、頭の痛みは止まらない。
こうなれば、頭を打っておかしくなったふりをしておくほうが楽だった。
眼帯をつけた物乞いが唾を吐きかけた。
「よそ者は礼儀ってもんが分かってねえなあ」
「どうかお慈悲を。私は憐れな物乞いです……」
「それしか言えなくなっちまったってか?ふざけんなよ」
帽子の物乞いがペンチを取り出した。僕は生唾を飲み込んだ。
「俺たちゃ慈悲深いからよ。先に聞いておく。利き手どっちだ?」
「ちゃんと答えねえと面倒だからな」
「どうかお慈悲を。私は憐れな物乞いです……」
それでも僕は震える声でただ繰り返した。二人の暴力に恐怖し、もはや為す術がなかった。
「答えねえのかよ! 本気でいかれてるのか」
眼帯の物乞いが舌打ちした。
「それじゃ俺らの優しさが分かるようにしてやるよ」
帽子の物乞いが僕の靴を脱がし、足を握った。直後、僕は足の小指の爪を剥がれた。
「ああああ!!」
僕は痛みで身体を揺さぶったが、縛り付けられた縄が食い込むだけだった。血がゆっくりと滲み出て、足を伝っていく。
「お前が答えないから、先にこっちにしてやったんだよ」
帽子の物乞いが憐れむような眼で僕を見下す。
「で、そろそろちゃんと答える気になったか?」
「ど、どうかお慈悲を……」
「よく聞こえねえな」
「私は……あ、憐れな物乞いです……」
「おい、こいつ、本当におかしいんじゃねえのか?」
帽子の物乞いがため息をついた。
眼帯の物乞いが、僕が握りしめていた福音書をもぎ取った。
「持ち物はこれだけか。本当に何もねえのか」
「まさか」
「本はダメだ。ボスに聞いてこないと」
「くそ。余計なもの持ってきやがって」
二人の物乞いは福音書を置いて、部屋から去っていった。僕は恐怖と痛みで思考が半分、停止していた。これからどうなるのか。半殺しにされて、市のどこかに捨てられるのか。
もしかして、殺されるのか。
やがて、二人の物乞いは一人の男を伴って戻ってきた。恐らく、この男が二人のボスなのだろう。僕が恐る恐る首をもたげると、男の顔が見えた。
その男は、ローベルト師が復活を見せた橋にいた、怒れる物乞いだった。




