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亡者狩り 七 ~ 最初の火の試練

――お前に、天国の鍵を授けよう。お前が地で繋ぐ者は天でも繋がれる


――そして、お前が地で解く者は天でも解かれる


 時折、物音や欠伸が聞こえる朝の教会堂に、司教の澄んだ声が響き渡る。


 何度も聞いてきた福音書の一説だった。福音書によれば、こうして最初の教皇は、主の代理人になったということだった。使徒派教会お決まりの、天国の鍵の後継者として、教皇の正統性を訴える一説だ。


 司教の最初の礼拝には、使徒派教会の信徒だけでなく、野次馬や見物人も集まった。酒宴が苦手でもそこに参加せねばならないように、日曜の礼拝に参加するのは当然の習いだ。並べられた長椅子は人で埋まり、教会堂は(あるじ)を取り戻して息を吹き返したように熱気がこもった。

 司教は僅かに緊張しているようだったが、いつもの気高い――あるいは尊大な態度を崩すことはなかった。


 司教の御言葉(みことば)が終わると賛美歌が歌われた。子供と女性が代わる代わる歌い、明るい歌声が教会堂に響いた。それが終わると、聖体拝領が行われる。祭壇には使徒派だけでなく、福音派の信徒も並び、長い列を作った。


 赤ワインに浸した種無しパンを、司教が列を成す信徒に配っていく。真新しい祭壇掛布(アンテペンディウム)は教区長が持ち込んでくれたものだった。祭壇の体裁が整っただけでも、礼拝は十分に厳粛な雰囲気を保つことに成功したようだ。


 初めて長丁場の礼拝に参加した僕の不安は、杞憂のまま終わるかと思われた。しかし、司教が閉式を宣言しようとしたその時、扉が勢い良く開き、男が駆け込んできた。


「お慈悲を!」


 男が叫んだ。


「どうかお赦しを!」


「何事ですか?」


 司教は冷静に、膝をついた男の下に歩み寄った。


「改革派と福音派の信徒がお互い譲らず、今から《火の試練》を行うというのです!どうか、仲裁を!」

男の言葉に、教会堂は騒然となった。


「お静かに」


 司教の威厳を湛えた声が教会堂に響き、一瞬、静寂が訪れた。


「参りましょう。主の平和のうちに」



***



 市庁舎前の目抜き通りの広場へと続く道には、警備の傭兵が立ち、人通りが制限されていた。僕たちが礼拝に励んでいる間にも、既に《火の試練》の準備は着々と進められていたようだ。


 厳重な警備の中、北の道からは改革派の信徒たちが列を成して広場に入ってきた。粗末な服を来た信徒たちは口々に主の名を叫び、時折、賛美歌の一説を歌っていた。先頭を進む女性の信徒が朱に塗られた大きな双十字を掲げている。


 そして、西の道からは福音派の修道士や信徒たちが、同じく列を成して広場に集った。黒衣をまとった修道士たちは、まるで葬儀にでも向かうように、皆一様に黙ったままだ。


 彼らはそれぞれの宗派のために用意された長椅子や筵に座った。広場の中央では、群衆を阻む木の柵と、《火の試練》のための炎の廊下が築かれていた。砂を撒いて印の代わりにした区画に薪が積み上げられ、燃え盛る炎が白い煙を上げている。


 南の道から司教と使徒派の信徒、そして僕たちが駆けつけた時には、それぞれの代表者が広場の中央で対峙していた。


「待ちなさい! これはどういうことなのですか!」


 司教が叫んで広場に突入した。警備の傭兵は彼女の白い法衣を見た途端に怯んで、何もせずに後ずさりした。


「オットボーニ司教猊下。どういうことかとは、心外ですな」


 数名の改革派の信徒とともにミハーイ師が現れた。その背後には、先程の女性の信徒に連れ添われ、ローベルト師も立っている。白い長衣は膝まで捲くられており、素足の状態だった。


「福音派の挑戦を受けた我々は、市の許可により、この場にて《火の試練》に臨むのです」


「市がこのようなことを認めるわけがないでしょう」


「その答えは市参事会のホルティ会長にお聞きになってください」


「なっ……」


 司教が言葉を詰まらせた。ホルティ氏は司教の到着前から、このことをあえて認めていたのだ。

 なんという食わせ者だろう。


「貴方たちは厚顔にも、神を試そうとしている」


「すべては許可されております。この場を使用することも、我々と福音派で代表者を出し合うことも。すべて!」


 ミハーイ師が吠えた。しかし、それでも司教は怯まなかった。


「神がこのようなことをお赦しになるわけがありません。市参事会は法と正義を掲げながら、無責任にも、その義務を果たしていない!」


 市庁舎から広場を見守っていた書記官たちが、心配そうに互いに顔を見合わせているのが見えた。


「修道士たちよ!」


 福音派の修道士を振り返って、司教は叫んだ。


「修道院は一体何のためにあるのですか? 己の自由を神に捧げ、卑しい労働に励み、その日の糧に喜びを見出す。その徳を、貴方たちが知らないはずはないでしょう」


 司教の言葉にも、福音派の修道士たちは黙ったままだった。


「最初に挑んできたのは彼らなのです。これ以上の邪魔立ては無用」


 ミハーイ師は司教に冷たく言い放った。


「お黙りなさい!」


 司教は語気を荒げてミハーイ師を叱責した。


「貴方の監督者が誰なのか言ってみなさい。ヴァルド市の教区長はティサ・エルジェーベトです。監督者である彼女の意志を無視してこのような騒動を起こすとは、言語道断です」


「最早、ティサ・エルジェーベトはこの教区の教区長に相応しくない。この教区は――」


「それを決めるのは貴方ではありません! 徳も教義も敬えぬというのなら、教会を去りなさい!」


「……っ!」


 今度はミハーイ師が言葉に詰まった。預言者の片腕を気取りながら、身勝手な振る舞いを指摘されて黙るとは、聖職者の風上にも置けない男だ。


 数少ない使徒派の住民や野次馬が司教に加勢し、広場へ向けて口々に罵声を浴びせた。


「炎に焼かれてしまえ!」


「神はお前たちを焼くだろう!」


 しかし、彼らも《火の試練》の実施を中止させたいわけではないらしい。群衆はいつでも血を求めるのが性のようだ。


聖職売買(シモニア)で司教に上った小娘如きが、出しゃばりおって……そこまで言うならお前が火の上を歩いて、のたうち回るがいい……」


 ミハーイ師が小声で司教を呪った。


「なんですって! もう一回言ってみなさいよ!」


 普通の乙女なら泣いて挫けそうなところでも司教は屈せず、むしろミハーイ師に殴りかかる勢いで前に飛び出した。


「何をする!」


「司教! おやめください!」


 駆けつけたアウレリオ司祭が、あと一歩というところで司教を止めた。アウレリオ司祭に取り押さえられたまま、司教はしばらくもがいて暴れた。


「話にならんな。こうなれば、《火の試練》を行うまでだ。マリア、準備を」


 ミハーイ師の言葉に、背後に立っていた女性の信徒が頷き、ローベルト師に何か囁いた。そして、ローベルト師が杖を掲げたのを合図に、改革派の信徒たちは一斉に彼の名を叫び始めた。


 マリアと呼ばれた信徒がローベルト師の手を取り、炎の下へと導いていく。炎の廊下は相変わらず赤く燃え盛り、風に煽られた灰が辺りに散乱している。その長さは五メートルほどだが、上を歩けば確実に足を火傷するだろう。


 《火の試練》に成功すれば、一切火傷を負わずに、炎の廊下を渡り切ることができるという。しかし、そんなことができるのは本当に神の寵愛を受けた聖人だけだ。そんな力がローベルト師にあるというのか?


 群衆が固唾を飲んで見守る中で、ローベルト師は炎の廊下の端に立ち、杖を掲げた。改革派の信徒たちが歓声を上げ、広場の空気が震えた。


 杖先を頼りに、ローベルト師は炎の廊下に歩み出した。彼の姿は瞬く間に炎と煙に隠れ、見えなくなった。改革派の信徒たちからは歓声が、福音派の信徒たちからはどよめきが聞こえた。


 一歩、二歩、三歩……彼の歩みは止まらない。ローベルト師は炎の廊下を渡り切り、再び姿を現した。

 その脚には飛び散った灰がこびり着いていたが、衣服には焦げ跡すら見当たらない。


 すぐにミハーイ師と福音派の修道士がローベルト師に駆け寄り、その足の裏を確認する。その足に火傷は無かった。彼は無傷だった。


「そんな馬鹿な……」


 福音派の修道士は色の失せた表情で、ローベルト師を見つめていた。


「そ、その杖だ。何か仕掛けがあるに違いない!」


 修道士はローベルト師の手から杖をもぎ取った。焼けた薪の間を掻いた杖の先は、黒く焦げついている。しかし、どれだけ調べても、杖はただの木製の棒きれに過ぎなかった。

 火を避けるような仕掛けなど、どこにも無い。


「こんなはずでは……」


 修道士は酷く狼狽えて杖を手放した。


「さて、先の取り決めの通り、あとはお前たちが《火の試練》に失敗すれば、教区長には退いていただこう」


 ミハーイ師は勝ち誇った顔で福音派の信徒たちを見渡した。


「この取り決めは市も認めている! さあ、早く《火の試練》を受けるのだ!」


 福音派の修道士たちは何事か相談しているようだった。市庁舎との間を出たり入ったりし始める者も出てきた。杖を持ち込んだことを、規定違反にできないかとでも考えているのだろう。とにかく時間稼ぎに持ち込みたいようだ。

 しかし、ただ無情に時間だけが過ぎていく。


 その間に、改革派の信徒の一部が屍霊術の鐘を鳴らし始めた。福音派が取り止めさせられている屍霊術を、彼らの目の前で始めたのだ。


 鐘の音に合わせて、黒衣の修道服をまとった一体の屍人形が、広場に現れた。よろよろとした鈍重な歩みで、炎の廊下へと向かっていく。群衆の見ている前で屍人形は炎に炙られ、異臭を放ちながら焼け崩れていった。福音派を嘲笑うかのような屍人形の最期を見て、一部の野次馬が囃し立てて笑っている。


 これを見た福音派の信徒たちも、ついに火が点いたように罵声を上げ始めた。


「やる気が無いのか!」


「誰が《火の試練》を受けるのか早く見せろ!」


 群衆の怒りは収まりきらない。


「待ちなさい!」


 その時、司教が叫んだ。


 僕は物凄く嫌な予感がした。彼女の動機がその正義感だとすれば、この後に言うことは決まっている。


「私が《火の試練》を受けましょう」


 言うと思った。そして、彼女は言ってしまった。


「何を仰っているのですか!」


 アウレリオ司祭が先程の修道士に輪をかけて狼狽えた表情を見せた。


「この不遜な狼藉者たちに、立場を分からせてやらねばなりません」


「だ、だからといって! おやめください、このようなことは……!」


 アウレリオ司祭は懇願するように司教の袖に(すが)り付いた。


 しかし、その言葉に使徒派の信徒たちはいち早く反応し、熱狂している。全く引っ込みがつかない状況だ。一方で、ローベルト師の信徒や福音派の信徒は、司教の動きに対して、どのように対処すべきか検討しているようだ。


「まさか、司教猊下が? 神の怒りに触れれば、ただの怪我では済まされませんぞ」


 ミハーイ師は笑いを噛み殺して司教に言った。最早、自分たちの勝利を確信しているようだった。


「まあ、よろしいでしょう。我々は誰の挑戦でも受けて立つつもりです。福音派であろうが、使徒派であろうが、結果は変わらない」


 それでもまだ、福音派の修道士はひそひそと相談を続けていた。どうやら、最初から彼らにやる気が無かったことだけは分かってきた。しかし、相手を嵌めるつもりが、自分たちの首を絞めることになるとは予想していなかったらしい。


 しばらくすると、市庁舎から出てきた修道士が、《火の試練》を受ける者を、福音派の代表者から司教へと変更することは可能であると報告しにきたようだった。市の承認を受けるために署名が必要であると、司教に書類を提示し始めた。


 焦れったい書類への署名が始まり、そして終わりそうにない。


――さっさとしろ。もう昼だぞ。


 僕がそう思い始めたその時、突然、ぱらぱらと雨粒が降ってきた。


 誰もが苛々する役所仕事を目の前にして、どうやら天が先に我慢の限界に達したようだった。降り出した雨はあっという間に炎を消し、群衆の熱気まで冷ましてしまった。罵り合っていた群衆が一人、また一人と姿を消していく。


「いいかしら? 私は《火の試練》を絶対に受けるから! それまでこの取り決めは無効よ!」


 我々の勝ちだと言い張るミハーイ師に対して、司教は雨の中で宣言した。暴れる司教をアウレリオ司祭と使徒派の信徒が押さえ込み、南の道へと引っ張っていく。


 人々が去り、やがて無人になった広場で、ただ一人、先生だけが炎の廊下を見下ろしていた。

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