亡者狩り 六 ~ 奇跡という名の暗示
考え続けても仕方ない。僕が桟敷から下りようとすると、後ろに影ができているのに気付いた。桟敷の後ろで、少尉が先生を肩車している。
「どうだったかね、辻説法は」
「先生も上から見てたんじゃないですか」
「まあね。……ありがとう、もう良いよ」
無言で先生を肩から降ろすと、少尉は大きくため息をついた。どうせ見に来るつもりだったのなら、早めに来て桟敷に乗っていたほうが良かっただろうに。少尉の疲労が報われるだけの成果はあったのだろうか。
「あの女性、病気が治ったそうですが……ローベルト師はやはり、霊力を持った本物の聖者なのでしょうか?」
「本物?」
先生が鼻で笑った。
「まあ、金を集めることに関しては本物のようだな」
そう言って先生は、ローベルト師の信徒たちが献金の籠を回す様子を顎で指した。
「長居する意味は無さそうだ。連中も帰ってしまったし」
そう言って教会がある市の南を目指して歩き始める。
「奴は聖者ではない。詐欺師に過ぎん」
先生は声を潜めて言った。
「詐欺師、ですか……」
「《復活》だか何だか知らんが、あれが聖職者のやる事か? ただの見世物だろう」
確かに、聖別したパンだと言ってカブを食わされ、女性や他の人々は道化のように扱われていた。病気の件も、たまたま居合わせた男から聞いただけに過ぎない。熱心な信徒たちの間で、彼女のことは有名なのかも知れないが、それだけではローベルト師の力の証明にはならない。
「あれは単なる暗示という名のイカサマだ」
先生は人差し指を立てて説明を始めた。
「あの女性は特に暗示が効きやすいんだろう。それで標的にされて、うまいことダシに使われていると考えるべきだ」
「ちょっと待ってください。暗示とは言いますが、それも十分に奇跡に値するのではないですか?」
「奇跡? 奇跡だと? なるほど。だったら私も簡単な暗示をかけて見せよう」
先生はニヤリと笑って少尉のほうを振り返った。
「少尉」
「何でしょうか?」
「君は戦場で命をかけて戦い、そして死ぬ覚悟があるか?」
「勿論です」
「結構。しかし、言葉だけでは信用ならない」
先生はそう言うと、ユーリヤからもらったメモを取り出した。
「これを食ったら、信用しよう」
「は?」
訝しげな少尉に、先生は何事か耳打ちした。先生の耳打ちに、少尉は口元を歪ませ、少しの間、硬直した。
だが、次の瞬間、メモを千切ると口に放り込んだ。
「素晴らしい。実に素晴らしい勇気だ」
呆気にとられた僕を後目に、先生が拍手をする。そしてパチンと指を弾いた。
「……今の音で君は暗示から解かれた。そして、こう言うだろう。この男に銀貨一枚の貸しがあるはずだ、とね」
そこまで言われて、少尉は目を見開いた。
「そ、そうです。金をやるから、紙を食えと――」
「それは暗示にかかった君の思い込みだ。君は命を懸けるという覚悟を見せるために、紙を飲んだのだ。そうだろう?」
先生の言葉に、少尉の耳が真っ赤になった。
「そ、それは……! 詐欺師は貴殿のほうです。こんなことは馬鹿げています」
「少尉の言う通りだ。実に馬鹿げている。しかし、それでも人を動かすことはできる」
先生は落ち着き払って言った。
「ローベルト師は喋っていなかっただろう。喋っていたのは全部、ミハーイ師だ。彼が暗示をかけただけだ」
これが暗示だって? いや、今の遣り取りを切り取って、都合良く見せられれば、確かに暗示と言えなくもない。
「しかし、金でどうにかしたって、すぐに失敗しますよ。連中は辻説法で、暗示の相手をその場で選んでいます」
僕は反論した。今の少尉のように、金で上手く動かすことができる相手など限られている。
「そこでだ。重要なのは暗示にかかりやすい相手の見分け方だ」
先生は説明を続けた。
「世の中には様々なタイプの人間がいるが……ローベルト師に触れられただけで泣くような、そういう感じやすい連中はカモにされる」
先生は大袈裟に肩を竦めた。
「自分が選ばれた特別な存在だと、そう思わされることに弱いのだ。彼らはいとも簡単に暗示にかかり、言葉に誘導された通りの行動をとる」
果たして、そこまで考えて、あのような見世物を用意しているのか。暗示にかかりやすい相手と、金で動くやらせ役を使い分けるなんて。そうだとすれば、あまりにも巧妙で、見抜くことは難しい。
「連中は人を騙すことに慣れている。明らかに。それが、ローベルト師が聖者でないと考える根拠だ」
先生は少尉に一枚の硬貨を弾いて渡すと、再び教会堂へと向かって歩き始めた。
***
その夜、僕たちは再び修道院付き教会に泊まることにした。他に泊まるべき宿を探そうとも思ったが、教区長がこの教会を訪れることを思い出したのだ。
少しだけ綺麗になった長椅子で待っていると、教区長は夕暮れ時に一人で教会を訪れた。その表情には思い詰めた厳しさがあった。
「……ローベルト師を名乗る者にお会いになられたそうですね」
教区長の言葉には、何か引っ掛かるところがあった。その違和感は具体的には分からないが、彼女もやはりローベルト師を疑っていることには違いないようだった。
「辻説法を見ただけです。彼は何も喋らなかったし、ミハーイ師の虚仮おどしに付き合っていただけでした」
先生は昼の出来事を振り返って、淡々と述べた。
「彼が持て囃される理由がわかりません。何故、あのように預言者ぶっているのです?」
僕は思い切って教区長に尋ねた。
「ローベルト師は、決してそのような……あの人は、そのようなことをしない人です」
教区長は声を絞り出すように答えた。
「信徒たちは……彼が天罰を受け、しかし《復活》し、人が変わったのだと言います……」
そこまで言うと、教区長は嗚咽混じりに咳き込み、黙ってしまった。
「落ち着いて話してください。我々は貴方の味方です」
先生が教区長の背中に優しく手をかける。教区長は少し落ち着いたようで、言葉を続けた。
「あれは、私の知っているローベルト師ではありません。それが《復活》によるものであるとも、私は信じられない……」
彼女の白皙とした相貌は、涙で濡れていた。その声は弱々しく、非情な現実に引き裂かれる悲しみに満ちていた。
「彼と私は、婚約していました。受難節の後で誓いを立てようと……しかし、その前に彼は亡くなったのです……」
教区長の告白は、あまりにも悲痛なものだった。
「彼が私に遺した財産は僅かです。清貧に努め、薪の一本まで分け与えていましたから……本当に殆どお金は無いのです」
教区長は持ってきた財産目録を開いて、ローベルト師の遺産を示した。それは裕福な市の副牧師としては、極めて少額の財産だった。家具や衣料品も最低限しか残されておらず、土地や不動産は一切なかった。
「ミハーイ師が訴えるように、彼の遺産を与えるのは簡単でしょう。しかし、本当に彼が遺したものは、お金に換えられるようなものではありません。以前の彼の振る舞いこそ、主が我々に遣わせた救いでした」
教区長は震える拳を握りしめた。
「私は……どうしても今の彼が……ローベルト師の、死者の名を騙っているようにしか思えないのです」
婚約者の死を認めてまで、教区長は《復活》を否定した。しかし、彼女にそう言わせるほど、今のローベルト師は、生前の彼とかけ離れているということだった。
「今のローベルト師は、偽物だということですか?」
「分かりません……私には……」
教区長は首を横に振った。
「顔貌は確かに彼なのです……ただ、変わり果ててしまった……」
ローベルト師の今の姿こそが、教区長の胸を掻き乱す最大の原因であることは間違いなさそうだ。彼女も内心では婚約者の無事を願っているのだろうが、それを上回るほどに、彼の尊厳は失われている。しかし、あのローベルト師が偽物であることを証明する手立てなどあるのだろうか。
墓は暴かれたというし、現に死体も無い。だとすれば、その死体が蘇ったと言われて、信じる者だっているだろう。その筆頭が元福音派牧師のミハーイ師なのだから、信徒が従うのも当然なのかも知れない。
「例えば、ですが……ローベルト師は屍人形なのではないですか?」
僕は場を持たせようと、一つの推理を口にした。
「何故そう思う?」
先生が即座に反応する。
「彼は一言も喋らないし、複雑な動きをしているわけでもありません。ミハーイ師が屍人形にしたローベルト師を操っているのでは?」
「フムン……つまり彼は既に死んでいると?」
残酷な話ではあるが、そういうことだってあり得るのではないだろうか。
「それは全くあり得ないのデス」
教会堂の地下の扉から、ユーリヤが顔を覗かせた。
「鐘が無ければ屍人形は動かせない。そして鐘を一度響かせれば周囲の屍人形は皆一様に反応するのデス」
ユーリヤはいつもの囁き声を奏でながら、地下から這い出てきた。
「市が屍霊術を中止させるまで市内でも屍人形は動き回っていまシタ。その中でローベルト師の屍人形だけ反応する又は反応しないということはあり得ないのデス」
「彼だけを動かす特殊な鐘があるとか……」
「そんな都合の良いものがあれば福音派教会が黙っていないのデス。今のところローベルト師に屍人形の素振りは見られないのデス」
ユーリヤは残念そうに首を振って、教会堂を後にした。
「まあ、聖痕を見せた時の腕の見た目も、屍人形のようには見えなかったからな」
先生は修道士ヤーノシュの腕のスケッチを見ながら呟いた。
「誰かがローベルト師を騙っているのか、それとも本当に人が変わってしまったのか」
先生の言う通り、そのどちらかの可能性が高いように思える。
「何故、教区長殿はローベルト師を騙る者がいると考えたのですか?」
ふと思い立ったように、先生は教区長に向き直った。
「それは……」
教区長は口ごもった。
「修道士ヤーノシュとミハーイ師以外に、ローベルト師の遺体について知っている者がいるはずです」
先生はなおも食い下がった。これは、この怪現象の正体を掴むための重要な点なのかも知れない。
「ミハーイ師が、葬儀屋にお金を渡しているのを見ました。間違いなく遺体が埋葬されるようにと」
「遺体はあったのですね?」
「……ですが、葬儀屋は彼の言う通りに仕事をしなかったようです。暴かれた棺は空でしたし、遺体が取り出せる状態ではありませんでした。棺は埋葬される前から空だったのではないかと……。しかし、葬儀屋は何も知らないとしか……」
教区長の言葉が本当であれば、遺体を埋葬前に奪った者がいることになる。つまり、それはどういうことだろうか。どうしてそんなことを。
「うーむ……いや、無いものねだりはやめておこう。今日はもう遅い。教区長殿もこの素晴らしい修道院にお泊りになっては?」
「そうですね……修道院長殿はいらっしゃらないのですか? 先にお尋ねしたいのですが」
「そういえば、どこの修道会に帰属するのか分かりませんな。別に断りは要らないと思いますが」
「分かりました……それではお言葉に甘えて、お先に失礼します」
教区長が修道院へと向かうと、僕と先生は目立ったゴミを片付けてから教会堂を後にした。明日には司教が礼拝を執り行うのだから、一応は気を遣っておくのが無難だと考えたからだ。
修道院に入ると、床が掃除され、窓も丹念に汚れが拭き取られていた。大騒ぎして掃除した教会堂よりも幾分、綺麗に見える。
「お帰りなさい」
修道院の広間には、頭にスカーフを巻いて濡れ布巾を持った卯月が待っていた。
「ただいま。もしかして、ここの掃除してた?」
「そうだけど」
卯月は几帳面に折り畳んだ濡れ布巾を片付けると、自作したらしい見取り図に丸を書き込んだ。殆どの箇所は丸が書き込まれている。既に掃除が完了したという意味のようだった。
「お疲れ様」
「先生も、カミルも、お疲れ様」
「ああ、お疲れ様」
僕たちは互いに顔を見合わせ、それぞれの部屋に戻った。




