亡者狩り 四 ~ 遺体安置所
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聖カタリナ修道院付き教会の世話人、ユーリヤ・オルロフ。屍霊術士。北東のツァーリの大公国の出身者で、帝国やコルヴィナ各地を転々としてきたらしい。
彼女こそが、司教が赴任した教会の世話人だった。ユーリヤが肩書きに相応しい業務を遂行していたのかどうかと言えば、答えはイエスでありノーだ。
彼女はアルデラ伯爵の代官からの指示に従い、教会の改築を試みた。だが、代官の指示書にはどこを改築するか、明確には示されていなかった。
教区住民の要望を満たすのに相応しいことなど、抽象的な文言はあったらしい。そこに牧師館の居住性の向上が意図されていたかは不明である。
結局、ユーリヤは修道院や牧師館の補修には手を付けず、教会堂の地下の拡張に専念したのだった。伯爵の寄付金や使徒派教会の予算は、高級な屍霊術の設備へと変わった。その結果、この教会は夜な夜な遺体が運び込まれ、血を啜る音や肉を引き裂く音が響く、悪夢の教会として、近所から確固たる名声を獲得していた。
市参事会からの圧力で屍霊術と人体解剖が中止になった今も、隠れて動物を解剖しているユーリヤは、修道女というよりも魔女に近かった。顔が隠れるほど伸ばし放題の銀髪を乱雑に撫でつけ、血に汚れた前掛けをして腑分けに臨む彼女の目には、愉悦の色があった。
彼女はどこか病的で、そして間違いなく恐れられている。そうでなければ、とっくに通報されて教会裁判に突き出されているだろう。
とは言え、解剖学を取り入れる福音派が優勢なヴァルド市で、ユーリヤは申し分ない人材だと思われた。人間、誰にでも少しは欠点はあるものだ。
夜中に遺体と向き合い、臓器を弄ぶ者の正体が、本当に人間であればの話だが。
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正直なところ、積極的には関わり合いになりたくない人物ではあった。しかし、修道士ヤーノシュについて知っていそうなのは、今のところこの屍霊術士くらいしかいない。
血の臭気に満ちた地下室から解放された僕は、ユーリヤを伴って先生や司教と合流した。解剖の作業現場から離れても、彼女には血と薬品の臭いがつきまとい続けた。
「世話人が見つかりました」
僕が報告するやいなや、司教の目は怒りに燃えた。
「ようやく見つかったのね。この怠慢をどう説明して――」
しかし、ユーリヤが近づいた途端に司教は顔をしかめ、口を噤んだ。
「ああ司教様ようこそいらっしゃいまシタ。このような恰好で申し訳ございまセン。本来このような罪深き姿を晒すことは望んでないのデス。よろしければ先に着替えて参りマス」
ユーリヤは血に染まった前掛けに皮手袋をしまいながら、そそくさと踵を返した。修道院へ向かうユーリヤを見送る司教の目には涙が溜まっているように見えた。
しばらくして、少しだけ臭気の落ち着いたユーリヤが戻ってくると、僕たちは牧師館に移動した。牧師館では、アウレリオ司祭と御者によって、軽い夕食の支度が整えられていた。しかし、血と薬品の臭気が漂う食卓では、パンを口に運ぶことは躊躇われた。
「オルロフ殿。修道士ヤーノシュがこちらにいると聞いてきたのだが」
他の者がユーリヤと距離を置く中で、先生はいつもの調子を崩さなかった。
「あの修道士デスカ? あれはもう死んでいマス」
呆気ない回答だった。口がきけないとはそういうことだったのか。
「フムン……。まあ、そういうことじゃないかとは思ったんだが。でもここにいるのだろう?」
先生は天井を仰ぎ見て、ユーリヤの言葉を待った。
「そうデス。死は聖なる務めの終わりを意味するものではないのデス。今でも彼は屍人形として立派に働いておりますデスヨ。ご覧になりマスカ?」
ユーリヤは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「私は遠慮しておくわ。ここから先は調査官殿の仕事でしょう。邪魔したら悪いし」
司教は早々に撤退を決めたようだった。できることなら僕もここは遠慮させてもらいたかった。しかし、先生とユーリヤ、この怪人物二人から逃れる余地はなかった。
結局、僕は血の臭気に満ちた教会堂の地下室へと逆戻りすることになった。各々防寒着を身に着けた先生、卯月、僕の三人は、ユーリヤに先導され、遺体安置所となっている地下室を歩いた。腹を裂かれた犬は晒し台でそのままにされていたが、冷気のこもった地下室ではまだ腐敗は進んでいないようだった。
「これデスネ」
一つの棺の前で、ユーリヤは足を止めた。装飾のほとんど無い、粗末な木棺だった。棺の手前に立てかけられたプレートには生年と没年、そしてヤーノシュの名前が刻まれている。
「今は市の命令で屍霊術によって彼を起こすことはできないのデス。どうか遺体を見て調べるだけに留めておいてくだサイ」
ユーリヤは囁きながら棺の蓋を開いた。霊媒特有の濃い薬品の臭いが鼻をつき、中の屍人形がまだ新しいものであることが分かった。
修道士ヤーノシュの屍人形は、恐らく生前と同じように、黒い修道服に覆われていた。先生が屍人形の顔を覆っていた仮面を取り去ると、恐怖に凍り付いた表情が現れた。
「うわー……」
流石の先生も仮面を戻そうか一瞬迷ったようだが、気を取り直してスケッチを始めた。
保存を目的とする屍人形であれば、義眼や綿を入れるなど、外見を考慮した処置も施すことが多い。しかし、労務に携わる使い捨ての屍人形に、そういった処置が施されることはなかった。屍人形は特殊な音色を出す鐘を符牒として操られるため、音にさえ反応すれば良かった。
ただし、市井に出回る屍霊術の鐘は、今も単調な動きを指示するのが限界だった。近寄らせたり、座らせたり。それでも単純作業には十分だった。そこから先は学者たちの領域であり、屍人形をより複雑に操る方法の探求は、今も熱狂的な研究の対象だった。
先生が屍人形の首の周りの布を除けると、下から帯状の痣が現れた。
「死因は窒息かね?」
「そうデス。首を吊って死んでいまシタ。ちょうどここの牧師館のドアノブで」
なんでまたそんな近くで人が自殺するんだ……。
「すぐ近くなのに、気付かなかったのか?」
先生が呆れた口調で尋ねた。
「生憎ワタシは地下におりましたカラネ。外でも酔っ払いが倒れているように思われたのデショウ。非常に残念なことデス。実に罪深いことをしまシタ」
ユーリヤの早口の囁きからは、しかし一向に罪悪感が感じられなかった。
先生は修道服をめくり、今度は手や腕を調べ始めた。白い屍人形の腕には、血の代わりに血管を巡る霊媒の青い筋がところどころ見えた。しかし、よく見ると、腕にはいくつかの引っかき傷が散見された。
「なんでしょう……引きずってついたものでしょうか」
「多分、人と争ったんだと思う。人の爪痕みたい」
卯月が傷を指出して指摘する。四本の傷に、反対側に一本の傷。皮が破れ、痛々しい傷が両腕に残っている。
それは確かに人の手でつけられたように見えた。恐らく、生前についたものだろう。人と争っていたということであれば、この男はあまり素行が良くなかったのかも知れない。
「彼は激しやすい性格デシタガ今となっては関係ないデスネ。こうして祝福を受けて大人しく素直になれたのデスカラ」
ユーリヤが囁き、小さく笑った。
「修道士ヤーノシュが誰と揉めていたとか、そういう話はないかね」
先生はスケッチを続けながら尋ねた。
「人の罪について口にできるほどワタシは赦されていないのデス。さてさてさて……」
そう言いながらも、ユーリヤは唇の動きだけで、何かを訴えているのが見えた。
誠意。
またそう来るのか。
仕方なく、僕は小銭入れから一枚の硬貨を取り出すと、無言でユーリヤに差し出した。
「またも寄付をいただき本当に感謝しマス」
ユーリヤは恭しく硬貨を受け取り、深々とお辞儀をした。
「ヤーノシュの話デスガ彼は冬季の祭りの間ずっと副牧師のローベルト師と揉めていマシタ」
「それで、ローベルト師と争ったと?」
「それがどれほどだったかは知らないのデス。ただ祭りの見世物は屍霊術を侮辱し福音派の信徒を大いに怒らせるものだったことは間違いありまセン。ローベルト師がそれを止めずに見過ごしているのをヤーノシュは不満だったという話デス」
硬貨一枚でユーリヤは十分な情報を出してくれた。
しかし、ユーリヤの話がどれほど信憑性の高いものなのか、僕はまだ信用しきれてはいなかった。僕がユーリヤに疑いの目を向ける中、先生は屍人形の修道服を元に戻した。
「もうよろしいデスカ?」
「棺も調べたい」
先生は僕に手を貸すように言い、屍人形を棺から持ち上げた。空っぽになった棺は、一見すると何の変哲もない普通の棺にしか見えなかった。
「副牧師の棺もこれと同じような棺だったのかね?」
「同じ葬儀屋で同じ職人が作っていると思いマスネ」
先生は自分で棺に入って、至る所を調べていった。
「この棺、上下が逆なんじゃないのか?」
「どういう意味です?」
「これ、きっと裏蓋だぞ」
よくよく観察すると、木棺の装飾や構造は上下の比率がおかしいように見えた。ひっくり返して上下を逆にして見ると、正常な配置に見えてくる。そして、棺の底面には、側面の板との間に何故か隙間が空いていた。今、底にあるのが本来の蓋ということだろう。
「なんで裏蓋なんて付いてる?」
「さてどうしてデスカネ? この辺りで使っているのはだいたいこういう構造なのデス」
「……死体を隠れて取り出しやすくするため、とか?」
「それにはお答えできないのデス」
ユーリヤはしらばっくれて、それ以上は答えなかった。
「まあ、福音派の愉快な趣味はこの際どうでもいい。調査はもう十分だ」
先生はある程度、納得したようで、スケッチブックを閉じた。
「皆様がワタシの贖罪に手をお貸しくださるのであれば気の済むまで何回でもお見せいたしますデスヨ」
先生が軽く流すと、ユーリヤは身体をくねらせながら先生の顔を覗き込んだ。この病的な人物の前では、先生はいくらかまともに見えた。というか、物凄くまともに調査をしているように見えた。
ユーリヤは先程から罪という言葉を何度も口にしているが、それはどうも形だけに思える。それは来訪者から寄付を引き出すための、いわば決まり文句のようなのだ。そうやって金をせびられた上に、嘘を吹き込まれてしまっては堪らない。
せめて彼女の囁きが真実であることを祈りながら、僕たちは地下室を後にした。夜が更けてしまい、市内を出歩くわけにもいかず、僕たちは修道院に泊まることになった。
外見は粗末な修道院だったが、窓は小さく、寒さも大したことはなかった。普段、ここで生活しているのはユーリヤ一人だけということで、部屋はどこも空いていた。
彼女がどうやって一人で教会や修道院を回してきたのか疑問だったが、聞く気にはなれなかった。屍霊術に明け暮れてばかりで、最初から修道生活など意識していないのかも知れない。何にしても、この奇怪な隣人さえ気にしなければ、久々の一人につき一部屋の宿泊である。
ただ、本来は女子修道院であるらしく、僕の足は小さなベッドからはみ出すことになった。クローゼットにも持ち主のいない修道女の服しか入っていない。
修道院の名前からしてそういう気はしていたが、我慢するよりほかにない。なんとも不安な居心地のまま、僕はヴァルド市で最初の眠りについた。