亡者狩り 二 ~ ヴァルド市
※本日2回目の更新になります。
僕が《副牧師の復活》を目にした日から、遡ること九日。僕は初めてヴァルド市に入った。
伯爵の居城からヴァルド市までは、四輪馬車で一日がかりの行程だった。途中、王冠直轄都市――領主貴族の権限が及ばない自由都市のデヴレツィア市で替え馬と宿をとり、それからさらに半日。大荷物を積んだ商隊のような速度だった。
先生の調査道具に、急遽、卯月の薬箱や道具箱が加わり、荷物は増えていたが、伯爵に預けた書物の量を考えれば、その総量は減っていたはずだった。しかし、ヴァルド市に新任するヴィルジニア・オットボーニ司教の荷物が明らかに多過ぎた。
上下関係の発達した使徒派の礼拝儀式は肥大化し、そこに付随する典礼書も他の宗派より多い。印刷技術の発達は典礼書の規格化に一役買ったが、輸送コストについては寄与しなかった。司教用の典礼書、聖務日課の典礼書、主の日の典礼書、洗礼の典礼書……司教はそれらを一切合切すべて積み込ませた。
それは司教の意欲の表れなのか、お目付け役のアウレリオ司祭の行き届いた気配りなのか。どちらにしても、現地で印刷所が使えるかどうか分からない以上、自分たちで典礼書を持ち込む他になかったのだろう。膨大な典礼書と訪問者用の予備の聖典は二台の四輪馬車に分乗させることになった。
周囲に葡萄畑や放牧された羊の群ればかりが見える平和な街道を、二台の馬車は順調に進んだ。護衛として同乗していた帝国軍の士官も、警戒を解いて流れる雲を眺めていた。
馬車の中で会話はほとんど無かった。僕と先生を除けば、ほぼ他人なのだから仕方がなかったのかも知れない。
先生はデヴレツィア市で購入した新聞を繰り返し読んでいる。
「小麦の値上がり……続く……か……はあ……」
しかし、特に目ぼしい記事は無かったようで、時折、欠伸が聞こえてきた。
卯月のほうはと言えば、何となく先生から目を背けているように思えた。先生との初対面の遣り取りから、未だに警戒心を解いていないようだった。むしろ、この怪人物と違和感なく接している僕のほうが異常なのかも知れない。
僕は士官と何気ない世間話をして、適当に時間を過ごした。アルデラ伯領付近の軍政国境地帯の連隊から派遣されてきた士官、ハンス・ディンケル少尉。彼は帝国では地元の地主だったそうだが、あえて志願して軍に入ったとのことだった。
富農の若旦那が、わざわざ危険と隣合わせの軍に入った理由は、帝国の誇りのためだという。
若い少尉の御立派な入隊理由は、実に青臭いものだったが、その情熱は羨ましくも思えた。
ただ、彼はあまりにも生真面目で、会話の面白みに欠けるという大きな弱点があった。隣で会話を聞いているはずの先生は、まるで興味無しといった様子で、反応を示さなかった。普段、少女の笑みを絶やさないはずの先生が、会話に参加しないという状況は、かなり深刻に思えた。
とは言え、目の前の人間を差し置いて興味の赴くままに喋ることもできず、僕はただ当たり障りのない話題に終始した。そのうちに、二台の四輪馬車は大量の典礼書を運ぶという聖なる務めを全うし、日暮れ前にはヴァルド市に到着した。
ヴァルド市は北端と南端、二箇所に東西に伸びる河が通っており、河に囲まれた市の東の高台には要塞が築かれている。この要塞を巡り、戦時には異教徒、帝国、あるいは独立を画策したジェピュエル公国の貴族が争ったという。
交通の要衝であるヴァルド市は商業と手工業が盛んであり、辺境の中では栄えた市に数えられる。賑やかな市門に着くと、数少ない敬虔な使徒派の住民が司教を出迎え、その到着を細やかに歓迎した。
司教はその出迎えに感涙していたが、僕はかけるべき言葉が見つからなかった。内心では「本当にこれだけしかいないの?」という司教の嘆きが聞こえてきそうだった。
まず、市庁舎が閉まる前に、市参事会の面々に挨拶を済ませておくという段取りになった。午後五時に教会の鐘が鳴れば、市庁舎も裁判所もその日の業務は終了し、次の日まで開かない。早めに到着できて正解だった。
ヴァルド市に市長はいなかったが、領主である伯爵の代官と、住民の代表者からなる市参事会が組織されていた。代表者と言っても、彼らは裕福な商人や特権を持つ貴族であり、代官と同等、あるいはそれ以上の権力を持っていた。
代官には伯爵の伝手でいくらでも話を通してもらえそうだが、市参事会のほうはそうもいかない。彼らを差し置いて調査を始めでもしたら、領主である伯爵の立場が悪くなる可能性もあった。
要塞まで続く目抜き通りに面した市庁舎の前に馬車を横付けし、僕たちは馬車を降りた。市場の開催日ではなかったためか、商店は開いているものの人通りは疎らに思えた。大学が無く、外部から若者の集まらない辺境の市ではこれくらいが普通なのだと、僕は思い出した。
市庁舎に入ると、書記官たちが議事録や裁判記録を手に、整然とした様子で廊下を行き交っていた。
「何か御用ですかな?」
気を利かせた書記官の一人が声をかけてきた。
「こちらはヴァルド市に新任されたヴィルジニア・オットボーニ司教です。私は王立アカデミーから派遣されて参りました、調査官のワーズワースと申します」
一歩前に出た先生が三角帽を取って挨拶する。
「どうか市参事会の皆様にお目通りを願いたく、お伺いいたしました」
「これはこれは。司教殿に調査官殿。少々お待ちいただけますかな」
書記官は先生の顔も見ず、片手でメモを取りながら、王立アカデミーの委任状、司教の任命書や特許状に目を通し始めた。福音派が主になっている市だけあって、使徒派の司教の待機時間は、かれこれ一〇分にも及んだ。
しかし、やがて書記官の手がアルデラ伯爵の封書に伸びると、急に彼の動きが慌ただしくなった。代官を通さず、領主から直接、封書が届くということは普通ではなかった。煩わしい役所仕事をかわすため、先生が伯爵に頼んだものだが、どうやら効果はあったようだった。
司教の威光が発揮される前に、僕たちは市参事会の会員と顔を合わせる機会を得られた。先生、僕、司教の三人は、早々に市庁舎の会議室へと案内された。
「お初にお目にかかります。市参事会のホルティ・フェレンツです。市参事会を代表して、ご挨拶を」
一人の若い市参事会会員が、毅然とした態度で、広い会議室の窓際に立っていた。きちんと束ねられた茶色い髪の毛と、銀縁の眼鏡が、抜け目のない顔立ちを形作っている。
「お知らせいただければ、こちらから馬車をお出ししましたが。ご到着されたばかりですかな?」
「ええ、できるだけ早く仕事に取り掛かるべきであると、考えておりまして」
先生がにこやかに応じる。先生の深い低音の男声と少女の笑みに対峙して、ホルティ氏は一瞬虚を突かれたようだったが、辛うじて無表情を保っていた。
「なるほど。その熱心な心構えには敬意を表しますが……ヴァルド市での滞在を楽しんでいただきたいものですな。どうぞ、皆様もお座りになってください」
ホルティ氏は長テーブルの議長席に腰掛けた。そこが彼の定位置のようだった。
「申し遅れましたが、私が市参事会の会長です」
それが頼もしい協力者としての言葉なのか、面倒事はお断りだという宣言なのかは、まだ判断しかねた。若き市参事会会長が、すべての実権を握っているとは思えない。それに、現に怪現象が起こったからこそ、先生と僕は呼ばれているのだ。
「教区長から既にお聞きかと思いますが、私からも改めてご説明申し上げましょう」
全員が腰掛けると、ホルティ氏は勿体ぶるように語り始めた。
「今年の冬に、我が市の福音派教会、副牧師のローベルト師が亡くなったと、修道士のヤーノシュから知らせを受けました。彼は焦燥した様子で、牧師のミハーイ師とともにすぐに葬儀を執り行い、ローベルト師を埋葬しました。しかし、その後、ローベルト師の墓が暴かれ、棺が空だったと教区長が報告してきたのです。そして、春になってローベルト師は再び我々の前に現れた……」
「彼は《復活》したのだと聞きましたが?」
先生が噂の通りに尋ねた。
「ミハーイ師や信徒たちはそう言って憚らないようですな。ヴァルド市の福音派に天罰が下り、ローベルト師が身代わりになったとか。彼らにとっては、福音派の教えを捨てるほどの《奇跡》だったようですが……私には判断のつきかねる事態ですがね」
ホルティ氏は司教を意識してか、かなり言葉を選んでいるように思えた。
「ミハーイ師は、ローベルト師の遺産を彼の下へ返すように、市に要求しています。そうでなければ、聖務を行わないとまで言っている」
ホルティ氏が迷惑そうに手を振りながら言った。
「しかし、教区長が頑なに彼らの要求を拒んでいましてね。それで、調査官殿、貴方が呼ばれたのですよ」
ホルティ氏の話しぶりを聞くと、教区長が悪あがきで領主まで訴えかけたように聞こえた。
「聖務に関しては、ちょうど司教殿がいらっしゃったおかげで、一部の住民は満足するでしょう」
ホルティ氏は司教に向き直った。
「しかし、長くは保たない。ミハーイ師やローベルト師の影響もあって、最近は改革派になびく住民も多いのです。当面は彼らを刺激しないように、福音派教会には屍霊術や人体解剖を取り止めるように圧力をかけておりますが。どうか、お忘れなく」
司教は先程の出迎えから立ち直っていないらしく、無言のままだった。
「なるほど、なるほど。だいたいの状況は分かりました」
先生は貼り付けたような笑みを浮かべて喋り始めた。
「裁判を避けて、最初に王立アカデミーにご相談されたことは、実に賢明であったと言えますね」
「と、申されますと?」
「これ以上、話が拗れる前に、中立な立場の人間が、科学的な調査に入るのです。実に幸いでしょう」
「市は法と正義に則って市政を執行しております。貴方がただけが中立というわけではないでしょう」
ホルティ氏が眉をあげた。余裕を見せてはいるが、先生の挑発的な言葉に警戒しているようにも見えた。
「では、市はローベルト師が死んだという決定を取り消すのですか? それとも《復活》を認めると? どのような前提で彼の財産を扱うのですか?」
先生は相手が窮するような問いをすぐに思いつくようだった。
「それは……ここで私の口から申し上げることではありません」
ホルティ氏は一瞬口ごもり、回答をはぐらかした。
聖職者の前でその場凌ぎの見解を述べるほど、ホルティ氏は迂闊ではなかった。しかし、彼の信仰がどうあれ、改革派に傾きつつある市内で、福音派の教区長を庇うほど、彼が協力的な立場ではないことは明白だった。
「まあ、いずれにしても、誰かから詳しく話を聞かねばなりませんね」
先生も深く追及しなかった。市参事会の会長を敵に回しても良いことはない。
「先程、名前の出ていたヤーノシュという修道士に話を聞きたいのですが」
先生は努めて穏やかな態度に戻った。
「残念ですが、彼は今、口がきける状態ではありません」
「それでも会うことは叶いませんか?」
「できるにはできますが、会ってもご期待には添えないでしょう。それでよろしければ、ご自由に」
ホルティ氏はやや呆れた様子で答えた。
それでも、ホルティ氏は修道士ヤーノシュのいるという修道院付き教会の案内図を書記官に持ってこさせ、そこで会談を打ち切った。
「またお会いできる機会を楽しみにしております。勿論、良いご報告もね」
ホルティ氏は不敵な笑みを浮かべながら、僕たちを見送った。
外に出ると、御者と士官がそれぞれ手持ち無沙汰に雑談していた。卯月とアウレリオ司祭は互いに何か話していたが、教区長は晩餐会の時と同じく、誰とも会話を交わしていないようだった。
彼らの下に戻ると、教会の鐘が鳴り響いた。背後で市庁舎の正門が閉ざされ始め、役人たちが覇気のない顔で帰路に散っていくのが見えた。