亡者狩り 一 ~ 副牧師の復活
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歓声が沸き起こる。
副牧師の名を呼ぶ声、かつての聖者の名を叫ぶ声、言葉にならない嬌声。
無秩序な声の嵐に飲み込まれ、僕は圧倒されていた。
橋のたもとに現れた男は目元に包帯を巻き、白い長衣をまとい、杖を手にしていた。預言者然としたその出で立ちには、群衆の熱狂を惹きつけるカリスマ性があった。
聖ラザロの使徒、復活者、聖者……元福音派副牧師、ローベルト師。最早、ヴァルド市で彼の名を知らぬ者はいなかった。
マリアという名の女性信徒に手をとられながら、ローベルト師はゆっくりと橋の中央へと歩んでいく。普段、橋を占領している露天商や物乞いは一人も残らず退去させられ、今は彼の独壇場だった。
ローベルト師のいる橋の隣に掛かった別の橋から、僕はその様子を観察していた。僕のいる橋やその周囲には、ローベルト師の姿を目に焼き付けようと、彼を崇める群衆が詰めかけている。改革派のふりをして、ローベルト師たちを見張ってこいというのが、僕に与えられた先生からの指示だった。
彼らの行動を逐一、観察し、報告せよ、と。
橋同士の最短距離は、せいぜい大学の最も大きい階段式講堂と同じくらいの長さだった。周囲の群衆に邪魔されなければ、僕の位置からでも十分に彼の姿を確認することができる。
橋の中央には、ローベルト師の上司であった元福音派牧師、ミハーイ師が待ち受けていた。ミハーイ師は福音派の黒い法衣ではなく、現在はさらに質素な無色無地の法衣をまとっている。彼もローベルト師に従い、福音派の教えを捨て、改革派の教えこそが正しい道であると宣言していた。
ミハーイ師とローベルト師の服装からは、確かに聖典の教えを貴ぶ改革派の姿が伺える。しかし、舌を抜かれたというローベルト師の代わりに、ミハーイ師の口から語られる説教は、厳格な改革派のそれとは似ても似つかない、悪質なパロディに過ぎない。
ヴァルド市司教のヴィルジニア・オットボーニはそのように断言していた。
「皆の者! 静まれえ!」
橋の中央から、ミハーイ師が群衆に向かって大声で命ずる。群衆は瞬く間に静まり、不気味な沈黙が訪れた。
ミハーイ師は頃合いを見て宣言した。
「これより、ローベルト師の奇跡が真であることの証となる、復活の儀式を執り行う!」
ミハーイ師のどら声に、群衆が再び歓声を上げる。これから何が始まるのか、僕には皆目見当がつかなかった。しかし、群衆はローベルト師の霊力を信じ切っているようで、困惑している僕だけが取り残されている気分になった。
そう思っているうちに、橋には一つの棺が運ばれてきた。よく見ると、それは上部と下部だけ板が抜けており、人が入ると四方が覆われるようになっている。そして、棺の下部には踏み台と足枷の仕掛けがついていた。
奇妙な棺だった。一体何を始めるつもりなのだろうか。
ローベルト師が棺に入ると、ミハーイ師が彼の足を足枷に固定した。これでローベルト師は棺の中で身動きがとれない状態だ。
僕たちの見ている前で、棺は閉じられ、滑車によって橋の欄干へと持ち上げられた。これから起こる最悪の展開を予想し、僕は汗を拭った。
「ローベルト師は、これより、その聖なる魂を主の下へと捧げる!」
ミハーイ師が信じられない言葉を放つ。
「だが案ずるな! 諸君らの祈りによって、師は再び、復活するであろう!」
その言葉を合図に滑車が動き始め、棺は河へと吸い込まれていった。
泡を立てて沈んでいった棺の様子は、橋の上からでは分からなかった。だが、上下に穴の開いた棺では、内部に水が侵入してくることは明白だった。早く棺を引き揚げなければ、中にいるローベルト師は確実に溺死するだろう。
しかし、僕の周囲にいる群衆が彼を助けに行く気配は全く無かった。むしろ、彼の死――そして復活を期待している群衆は、口々に祈りを捧げている。
熱狂的な群衆に囲まれ、身動きがとれないという点では、僕もローベルト師と同じだった。ただただ、彼が溺死する瞬間まで、この恐ろしい儀式に付き合わねばならないようだ。
やがて、ローベルト師を導いていたマリアが賛美歌を歌い始めた。その美しい歌声は、春の晴れた空に相応しい清々しさがあった。
――主よ、御許に近づかん
――登る道は、十字架に
――ありともなど、悲しむべき
群衆も彼女に倣い、賛美歌を歌い始めた。歌姫の如きマリアの歌声に、群衆の声が重なり合う。
――主よ、御許に近づかん
刻一刻と、時間は過ぎていく。棺には何の変化もない。棺を早く引き揚げなければ、ローベルト師は本当に主の下へと召される。
――主よ、御許に近づかん
水面には水泡の一つも浮かんでこない。静かな河の流れと、美しい賛美歌が、奇妙に調和していた。その祈りの場は、不思議と僕の不安を和らげている。
――主よ、御許に近づかん
マリアが賛美歌をすべて歌い終えると、群衆の中には感極まって涙する者もいた。内心では、僕も何故か感動していた。それほどに、彼女の賛美歌には心に響くものがあった。
ようやく思い出したように、橋の上のミハーイ師が両手を挙げて群衆を見渡す。合図とともに滑車が動き出し、水中から棺が上ってくる。
水を滴らせた棺が橋まで戻ってくると、群衆は静まり返った。ミハーイ師が焦らすようにゆっくりと、横たわった棺の蓋を開ける。群衆の息を呑む音が聞こえてきそうなほど、緊張が高まる。
賛美歌を歌い上げるまでの長時間、棺は水中に没していたのだ。ローベルト師の命が助かるわけがない。僕はそう思った。
――主よ、御許に近づかん
賛美歌が僕の頭の中で繰り返し繰り返し、木霊している。この残酷な儀式も、聖者の死を以て終わりを告げるのだ。
僕が呆然と見つめていると、突然、棺の中から腕が突き出された。群衆が再び歓声を上げる。
その雄叫びにも似た歓声の勢いに、僕の思考は停止していた。
何が起こっているんだ?
一体、これは――
動揺する僕の目の前で、足枷が外され、棺の中からローベルト師が立ち上がった。マリアが彼に寄り添い、杖を手渡す。
ローベルト師はしっかりとした足取りで歩み、橋の欄干まで辿り着くと、高々と杖を掲げた。滴る水滴が陽の光を浴び、彼の姿は神々しいまでに輝いていた。
聖者だ――彼はまたしても《復活》したのだ。
僕は夢でも見ているのだろうか。ミハーイ師は、棺を開ける時もローベルト師に触れてすらいない。彼は応急処置をしたわけでもないのだ。
だが、今まさにローベルト師は健在だった。彼の口から言葉が語られることはないが、その姿が雄弁に彼の奇跡を物語っている。
僕たちのいる橋に、ローベルト師の信徒が献金の籠を回してきた。瞬く間に籠は硬貨や雑貨でいっぱいになって、次々と代わりの籠が回されてくる。我先にと言わんばかりに、群衆は献金の籠へと群がっている。
群衆は奇跡に目にして、その恩恵に少しでも与ろうと、幾ばくかの金を差し出していく。今宵の酒代が無くなったとしても、既にローベルト師に心酔しきっている彼らには無用な心配だろう。
「どうか御寄付を」
僕の前に、信徒の少年が献金の籠を持ってきた。
仕方ない。とにかく見ていたことは事実なのだ。僕は小銭入れから硬貨を取り出すと、籠に入れた。
「……」
まだ足りないとでも言いたいのか。少年は無言で僕を見つめている。
今、寄付金は入れてやっただろうに。僕は眉をひそめて少年を睨み返した。
「……奇跡を見たってのに、湿気てるなあ」
少年は小声で悪態をつくと、次の標的を探しに行くように去っていった。
そんなに僕の寄付金は少なかったのか。今まで教会でそんなことを言われたことは無かったのに。
「はあ……」
水を差された気分になって、僕は思わずため息をついた。緊張が解けたせいか、急に疲れが足腰を襲ってくる。
ローベルト師とミハーイ師はさっさと馬車に乗り込み、牧師館へと帰っていくようだった。清貧を良しとする改革派の指導者が、市内で馬車を使うというのは、なんとも皮肉な光景に見えた。
だが、ローベルト師は確かに奇跡を起こし、その力を証明している。この目で見たのだから、間違いない。
群衆の合間を縫って、僕は市壁のほうへと戻った。橋のたもとでは献金の籠がいくつも並べられ、彼らの奇跡を世俗の価値として誇示しているようだった。橋から離れ、その様子を傍から見ると、僕は物悲しい現実に引き戻されたように思えた。
ローベルト師たちがいた橋では、露天商たちが元の場所に荷物を戻そうと、荷車を走らせていた。水に濡れた橋で足を滑らせて転んだ一人の物乞いが、誰にともなく大声で文句を喚き散らしている。先程の奇跡など、どこ吹く風という雰囲気だ。
僕の足は無意識に、ローベルト師たちがいた橋へと向かっていた。なんとなく、何か手がかりのようなものが欲しかった。ただ小銭を寄付して、先生の下へと帰るのは気が引けたのだ。
僕がローベルト師たちのいた橋に到着すると、未だに群衆は向かいの橋で献金の籠を回していた。彼らの姿はまだ夢から覚めきっていない夢遊病の患者のように見えた。
僕は欄干の傍に立って、棺の落とされた河を覗き込んだ。なんてことはない。普通の橋と、そして水面が見える。
鞣し業がいる最下流よりも河は綺麗ではあったが、それでも水には少し濁りがあった。直上からであっても、河底を伺うことはできない。当然、棺が河底まで沈んでいったら、直上からでも目視は困難だっただろう。
だが、何故か、引っ掛かるところがあった。
よく注意して見ると、河の流れがおかしかった。
橋脚のあたりに何かが引っかかっているのかも知れない。
もう少し、欄干から乗り出せば、それが何なのか見える可能性があった。僕が身を乗り出した時、後ろから誰かが上着の裾を引っ張った。
「馬鹿なことしてんじゃねえぞ!」
振り向くと、さっきまで一人で怒鳴り散らしていた物乞いの顔があった。
「す、すいません……」
「ただでさえ少ないショバ代で退いてやったのに。真似するような奴が出てきたら、こっちで商売できねえだろうが!」
「は、はい……仰る通りです……すいません……」
僕は身を縮こませて謝罪した。物乞いは僕を欄干から引き離すと、麻袋から菰を取り出して橋に広げ始めた。
橋は往来の拠点であり、そこを生活のための縄張りにしている者も多くいる。彼らの邪魔になるようなことをしている暇は無いようだった。
また別の機会に調べたほうがよいだろう。僕は早々に、先生の下へと引き返すことにした。