陰謀狩り 作者注
本連載作品「迷信狩り」の第一章「陰謀狩り」について、設定上の注釈をまとめた。
後書きとしては長くなってしまうため、一編分を以下に記載する。
この注釈が、読後の読者の皆様における疑問の解消、細かい表現への理解の手助けとなることを期待する。
歴史および国家、舞台:
本作は十八世紀初頭から中葉の中東欧をモデルにした帝国および王国、その周辺地域を舞台に、博物学者とその助手が活躍する物語である。
ここでいう帝国とはオーストリアのハプスブルク帝国、王国とはハンガリーを示している。
当時の欧州はオーストリア継承戦争の最中であり、ハンガリーではマリア・テレジアが女王に即位し、ハプスブルク帝国の一部となった。
作中で言及される皇女、後のコルヴィナ女王はマリア・テレジアをモチーフとしている。
また、作中で言及されるジェピュエル総督府は当時、主権を失い、総督府となっていたトランシルヴァニアをモチーフとしている。
東方の異教徒の君候国はオスマン帝国をモチーフとしている。
マリア・テレジアは吸血鬼に関する調査を博物学者に依頼し、トランシルヴァニアに派遣している。
この事実は本作のコンセプトとして、そのまま利用されている。
なお、より直接的にこの事実を作品化したのがブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」である。
当時の欧州は南北アメリカ大陸の植民地を介した海洋交易時代を迎えており、その中で最大の覇権国家はオランダだった。
一般のイメージでは植民地を築いた覇権国家と聞くと、イギリスが真っ先に思い浮かばれる方も多いと思う。
しかし、そのイメージとは裏腹に、イギリスは十八世紀末までフランスとの植民地戦争に明け暮れており、経済発展の途上でアメリカの独立を招くなどの外交的失敗も冒している。
当時のオランダは北海、バルト海、地中海、大西洋、アジアのいずれの海域でも交易、海運業を営み、また植民地経営でも成功を収めている。
一方で、ヴェネツィアやジェノヴァを始めとするイタリア地中海の都市国家は海洋交易において大きな遅れをとり、やがて衰退していった。
作中で言及される新大陸は南北アメリカ大陸をモチーフとしている。
そしてそれぞれの国、アルビオンはイギリス、北方の連邦共和国はオランダ、西のガリアの王国はフランス、司教らの出身国の共和国はヴェネツィアをモチーフとしている。
オランダは日本とも交易を行っていたことから、松本白泉は連邦共和国に留学したという設定とした。
農業と内政:
ハンガリーでは牧畜に関しては牛と羊を柱に、馬や豚など主要な家畜の放牧を行っていた。
当時、イタリアにおける穀物不足による食糧難や、戦争による糧食の必要性から、急速にハンガリーの畜産業の需要は高まっていた。
しかし、その一方でオーストリア・ロシア・トルコ戦争での戦後の領土分割のため、村落は荒廃から立ち直りきっておらず、十分に需要を満たすだけの肉を輸出することは困難であった。
このため、食糧生産を後押しする狙いから、作中では屍霊術によって労働力を補うという政策を推進したことにしている。
また、既に新大陸と接触しているため、帝国や伯爵の庭園ではジャガイモの栽培が行われているという設定にした。
植生、生物:
作中の季節は早春としている。
最初にカミルが狼に襲われるシーンがある。
本当に狼は人間を襲うのか。それがどのくらいの頻度なのか。
特に参考となる記録や数字はないが、フランスではジェヴォーダンの獣を始め、多くの事件が記録されているため、このように描写した。
作中でバラの茎を這うイモムシが描写されている。
これはオーストリア東部に生息するヤママユガの一種を想定している。
また、ワーズワースが新大陸で見たという近縁種はオオミズアオである。
ワーズワースは新大陸で赤痢によって死にかけたと告白している。
当時、ブラジルなど新大陸で見つかったトコンが、アメーバ赤痢に有効であることが分かっていた。
治療に用いられたのはトコンと、何らかの薬草や鉱石を用いた霊薬(考証不足)だったという設定とした。
また、トコンは催吐剤としても用いられており、ギゼラが処方した薬も同様の調合薬だったという設定である。
ギゼラが毒を飲んだカミルにニワトコのハーブティーを勧めるシーンがある。
セイヨウニワトコには利尿作用がある。
よって、毒素の排出を促す効果が期待できると考えられる。
ヒトヨタケは春から秋にかけて、腐葉土の上に自生する。
ヒトヨタケは一晩で枯れて黒い液を生じる。
また、アルコールと同時に摂取すると、嘔吐や眩暈の症状が現れる毒茸である。
ヒトヨタケが毒を持つことは十八世紀初頭に既に知られていた。
ただし、その毒の効果に関しては、大きく脚色している部分があることをお断りする。
文化、宗教:
ワーズワースは三角帽を被っている。
これは十八世紀を通じて欧州において一般的な帽子の一つだった。
オーストリアの首都ウィーンは音楽の都として有名だが、十八世紀にその基礎が作られた。
また、フランスなど諸外国でも文芸誌や新聞、雑誌が販売され、首都圏では多くの情報が伝達された。
当時はもちろん劇場もあり、有名な女優が新聞で浮名を流すということもあり得たのではないだろうか。
登場人物のうち、カーロイ・ジグモンドを始め、カーロイ家の人々は家名が先に来ている。
これはハンガリーにおいて姓名の順番が日本と同じく、苗字、名前の順だからである。
教区長のティサ・エルジェーベト、州長官のカールマーン・ガスパールも同様。
その他の登場人物は一般的な記名の順番を踏襲し、名前、苗字の順に記載している。
晩餐会でチェンバロが演奏されている。チェンバロはピアノに似た鍵盤楽器である。
十八世紀末にはピアノの興隆を受けてほとんどが消えているが、それまではこちらも現役だった。
当時のハンガリーおよびトランシルヴァニアは信教の自由が保証されていた。カトリック、プロテスタント、カルヴァン派、ユニタリアン主義、正教会の各宗派が存在し、それぞれが自由に牧師を教区に置くことができた。ただし、イスラム教は除外されている。
作中で言及される使徒派はカトリック、福音派はプロテスタント一般、改革派はカルヴァン派、月教はイスラム教をモチーフとしている。
晩餐会で出された料理は主にハンガリーの郷土料理である。
グヤーシュは肉の煮込み、シュペッツレはドイツやハンガリーで食される卵麺である。
また、ハンガリー料理では香辛料としてパプリカがよく使われている。
これらは現代の知識にも基づくため、実際に当時の晩餐で振る舞われたかは不明である。
洗礼という言葉を聞いて司教が怒りを露わにするシーンがある。
当時のカトリックでは、魂や洗礼という単語を日常で使うことは憚られることだった。
これに因んで、突然、司教はキレた。
フィクション:
屍霊術は当然ながら完全にフィクションとして加えた要素である。
屍霊術は大学で専門の学部ができるほど、体系化されているという設定としている。
ただし、その内容については化学的根拠のないフィクションである。
本作の執筆の際して、主に下記の書籍、作品を参考とした。
そのため、一部のシーンでは、その影響が大きく出ている個所がある。
また、今後も参考とする可能性が高い。
・「近世ハンガリー農村社会の研究 宗教と社会秩序」著:飯尾唯記
・「年貢を納めていた人々 西洋近世農民の暮らし」著:坂井洲二
・「海洋帝国興隆史 ヨーロッパ・海・近代世界システム」著:玉木俊明
・「ジェヴォーダンの獣」著:ピエール・ペロー 訳:佐野晶
・「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」著:ウェンディ・ムーア 訳:矢野真千子
・「トランシルヴァニア その歴史と文化」著:コーシュ・カーロイ 訳:田代文雄
・「屍者の帝国」著:伊藤計劃・円城塔
・「薬屋のひとりごと」著:日向夏 https://ncode.syosetu.com/n9636x/
(作中で他の方の作品へのリンクを記載してよいのかわかりません…。問題があれば、ご指摘をよろしくお願いいたします。)
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