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陰謀狩り 十三 ~ 伯爵の決断

 伯爵は指を組みながら、何を話そうか考えあぐねいているようだった。その隣で、卯月は目を伏せたまま静かに佇んでいる。


 もし何も知らない人がこの光景を見れば、好事家な貴族が、幼い東洋人の少女を、興味本位で従僕として仕えさせているように見えただろう。しかし、実際には複雑な事情があることは明白で、僕たち部外者には深く踏み込めない領域があるように思えた。


「旦那様……」


 先に口を開いたのは卯月だった。彼女が伯爵に向き直ると、艶やかな黒髪が流れるように揺れた。伯爵は卯月に見つめられると、すぐに視線を外した。


 伯爵は、強大な領主であって、辺境随一の資産家であって、地元では恐れるものなど何一つない。そんな権力者であるはずだった。


 しかし、僕の良く知るように、彼は貴族としての務めを重責として疎んじている。自分の境遇を呪いながらも、科学の啓蒙へ情熱を注ぐ一人の小心者の若者だった。


 だが、伯爵にとって、貴族として身分を弁え、自らの責務を自覚すべき時が来ているのだろう。伯母(はくぼ)の言葉と、卯月の雰囲気から、僕はそのように予感していた。


「……カーロイ家に松本の者が仕え始めたのは先代、我が父の治世からだ」


 伯爵はようやく、重たい口を開いた。



***



 卯月の父、松本白泉(はくせん)は、北方の連邦共和国に留学に訪れた折、帰国の途上で運悪く海上で嵐に見舞われた。幸い、命だけは助かった白泉(はくせん)は帰国を諦めた。


 それは残酷な決断だった。国から逃げたと思われれば、残してきた妻や自分の主君まで罰を受けるだろう。しかし帰国できる見込みはなく、どこかに身を落ち着ける必要があった。


 そして、連邦共和国から郵便夫の伝手で、東洋書の翻訳家を探していた当時のアルデラ伯の下へと仕官することになった。帝国を横断してアルデラ伯領にやってきた白泉(はくせん)は外国語の知識を吸収し、優秀な翻訳家として働いた。


 当時から博物学が盛んになっていた西方のガリアの王国や北方の連邦共和国に先んじて、白泉(はくせん)のような逸材を手に入れたことに、当時の伯爵は満足し、自信をつけた。そして、彼を甚く気に入り、家内騎士に抜擢しようとした。


 それは即ち、貴族への仲間入りを意味した。しかし、白泉(はくせん)は丁重にその申し出を断り、一使用人としての立場を貫こうとした。その態度は東洋人特有の謙遜から来るものだったのだろうが、一人の使用人すら自由にできない伯爵には不満が残った。


 この時にはまだ、白泉(はくせん)にも帰国の希望があったのかも知れない。だが、伯爵もそこにある本当の目的を見抜いていた。


 伯爵は富める権力者として、あらゆる手段に打って出た。時には金を払い、時には脅し、時には頭を下げ……。白泉(はくせん)を家内騎士に推す計画には忍耐が伴ったが、伯爵の意志は固かった。


 そして、異教徒との外交事情が怪しくなり始めた頃になって、ようやく計画を成し遂げた。白泉(はくせん)は辺鄙な異国の地で、国に残してきた妻と再会したのだ。


 それは同時に、白泉(はくせん)にとっては、新たな主君に従う瞬間にもなった。彼は伯爵の下で家内騎士となるという申し出を快く受諾し、アルデラ伯領で貴族となった。


 周囲には当然、反対する者もいた。伯爵夫人のイザベラ、甥のダミアーンもその中に含まれていた。しかし、伯爵の権勢はあらゆる反対を押し切り、アルデラ伯領で初めての東洋人貴族を誕生させた。


 その後、白泉(はくせん)は妻との間に子をもうけ、伯爵はその名付け親となった。四月に生まれたその子の名前は、卯月であった。


 すべては順調に思われた。異教徒との戦争が始まるまでは。



***



「……」


 伯爵はそこまで語ると、青白い額の汗を拭った。


「父が戦死した日、白泉(はくせん)は父の後を追った。別にそんなことをしてまで、忠義を尽くす意義があったのか、私には分からない……」


 伯爵は困惑を隠しきれない面持ちで、話の最後に自分の思いを付け加えた。卯月は沈痛な面持ちで、伯爵の話を聞いていた。


 東洋人は、汚名を被るような出来事があると、自ら腹を切って絶命すると聞いたことがあった。あまりにも悲惨なので詳細は知らなかったし、知りたいとも思ってすらいなかったが、恐らく白泉(はくせん)も主君の死に責任を感じて、自ら命を絶ったのだろう。


「ただ、父はやはり急進的すぎた。東洋人を貴族にしたのだから……その反動が、今の状態だ」


 伯爵は肩を落とした。


「卯月もしばらくは彼女の母と、城にいられたのだが……庭の隅まで追いやられて……彼女の母が病死したのも、すべて私が、あまりに力不足だったせいだ……」


「そんなことはありません」


 先生が穏やかに、励ますように言った。


「すべてを自らの力で思いのままにできる者などいない。しかし、何もしないよりも、何かを成すために足掻く者にこそ、人の上に立つ資格があるのです」


「ワーズワース殿……」


 伯爵は涙を流した。僕はこれまで、彼の涙を見たことが無かった。いつも人前でぎこちなく笑い、失敗に焦燥し、たとえ精彩を欠いても、それを受け入れてきた伯爵の緊張の糸が、今、切れたのだと思った。


「母上は、卯月が城の、客の目に触れる場所に入らないようにと言い渡していた。もしそれが破られるようであれば、彼女に暇を出すと。私は……それを犯した」


 伯爵は意を決したように言った。


「だが、私は……卯月自身の希望を叶えたい。たとえ、母上や副伯と対立することになっても」


「旦那様……」


 今度は卯月が意を決したように、静かに言った。


「私のことは、お気になさらないで良いのです。大旦那様と旦那様のおかげで、ここで生まれ、暮らしてこられたのです。旦那様のためなら、喜んで身を引きます」


「卯月……」


 伯爵と卯月はお互いに手を取り、泣いていた。領主と庭師。しかし、その間にあるのは、主従を超えた信頼だったのかも知れない。


 先生は僕のシャツの袖を引っ張ると、二人に声をかけることなく、静かに隣の荷物部屋へと引っ張っていった。


「なんですか、いきなり」


「なんだかものすごくシリアスな展開になっているようなんだが」


「そうですね……」


 先生がひそひそと僕に耳打ちする。事件を解明して一件落着という気分にはなれそうにない。


「君は伯爵閣下の友人として、何とか力になってやりたいとは思わないのか」


「それは、それができるなら何でもやりますよ」


「それでは、どんな解決策が妥当だと思う?」


 先生が僕に意見を求めるとは。僕はまたしても試されているようだ。しかし、何もこんなに真剣な事情の時でなくても良いではないか。


 僕は頭を捻って考えた。駆け落ちか? 独裁か? いや、本当にそれで良いのか?


 結論は、意外にもすぐに出てきた。



***



 翌日、伯爵の居城の前に二台の四輪馬車が乗り付けた。カーロイ家の家紋をつけた馬車の広々とした室内は、同時に大人六人程度が座れるだけのスペースがあった。


 二台の馬車のうち、一台には司教、教区長、アウレリオ司祭の聖職者一行が乗り込んだ。残るもう一台には、僕たち調査官一行が乗り込む予定だ。さらに、それぞれの馬車に帝国軍の士官が一人ずつ、護衛として乗り込む。


「本当に……ワーズワース殿には色々と世話をかけてしまいました。それに、これからも……本当に申し訳ない」


 見送りの時まで、伯爵は蒼褪めた顔で終始恐縮していた。


「いいのですよ。うちの助手はまだ万全ではないですし、手は多いほうが良い」


 先生が三角帽(トリコーン)を被り直しながら応える。


 馬車には僕と卯月が乗り込んでいた。卯月は伯爵から暇をもらい、怪現象の調査に協力することになった。その一方で、先生は調査に必要な費用を一名分上乗せし、伯爵から前借りすることも忘れていなかった。


 伯母(はくぼ)も副伯も何も言ってはこなかった。すべては伯爵の決断として、伯爵自身もまたカーロイ家から承認を得たのだった。


 連隊長と州長官も、僕たちの予定通りの出発を歓迎し、事件の真相について深く聞いてこなかった。ただ、一夜のうちに一人増えた調査官の助手については、どうにも正体が気になって仕方ないという面持ちだった。先生は二人に、人手不足なので緊急に招き入れたとだけ伝え、興味を刺激しないことに努めた。


 護衛に割り当てられた帝国軍の士官は、先生と卯月の顔を見て何か言いたげだったが、命令に忠実に直立して待機している。僕はどこにでも気の毒な者はいるものだと思ったものの、士官の緊張を和らげられるのが自分しかいないことに気付くと、結局はお互い様なのだと自虐的な気分に陥った。


「それより、新しい庭師を手配したほうがよろしいでしょう。私のほうからも分かる者をあたってみますので、近いうちに便りを出します」


「それは、ありがたい……。あの庭園を維持するのは大変な仕事なので、是非」


 先生は別れの最後まで気遣いを忘れず、自分の印象を完璧に仕上げ切ったようだ。待機していた士官を馬車に乗り込ませると、先生は御者に合図を出した。


「カミル君、卯月のことをどうかよろしく頼む」


「任せてください」


「旦那様も、どうか息災で」


 御者の鞭がしなり、四輪馬車が進め始めた。伯爵の居城が、庭園が徐々に離れていき、やがて朝霧の中に消えた。


「彼女の東洋の知識は、我々にはない視座を与えてくれるだろう。いやはや、実に楽しい調査になりそうだ」


 馬車の中でも先生は相変わらず呑気な調子で笑っているが、士官の仏頂面からは、どうしてこんな奇妙な同乗者と楽しく仕事ができるのかという声が聞こえてきそうだった。


 そうだ。これからようやく、僕たちは《迷信狩り》の仕事に取り掛かるのだ。ここに辿り着くまでに二回ほど死にかけたような気もするが、できる限り早く忘れよう。しかし、忘れようと努めた途端に、教区長の白皙(はくせき)とした顔が思い出され、僕は思わず身震いした。


 いずれにしても、この先あまり楽はできそうにないと、僕は不安を拭い切れずにため息をついた。

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