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陰謀狩り 十二 ~ 証拠

「まさか、ヒルシュ先生がそんなことを! ああ! 信じられません!」


 僕が犯人を指名しようとした直前、突然、ギゼラが顔を手で覆ってしゃがみ込んだ。それは師に失望した弟子の悲痛な叫びだった。


「何だって? いや、違う! 私は――」


「いくら先生でも、毒を使ってまで、自分の技能を見せつけようなんて! あんまりです!」


慌てて否定するヒルシュ氏の言葉を遮り、ギゼラはヒルシュ氏の胸を掴んで涙ながらに訴えた。その様子に動揺した伯爵は二人を遠ざけられず、額に汗を浮かべたままただ狼狽している。


「違う! 私は――彼女の東洋医術を信頼しているし、こ、こんなことはしない!」


ヒルシュ氏がギゼラを突き飛ばし、ギゼラが悲鳴を上げて倒れた。倒れがかってきたギゼラを司教が受け止め、司教の手から離れた聖典が音を立てて床に落ちた。


「お止めなさい!」


 普段はたしなめられる側の司教が、珍しく威厳を以て部屋の動揺を鎮めた。


「違うんだ……。私じゃない……」


 ヒルシュ氏は茫然自失として、蒼褪めた表情で助けを乞うように僕を見た。


「犯人は、ヒルシュ先生ではありません」


 僕は平静を保って言った。


「申し上げにくいですが……ギゼラさん」


 ギゼラは司教の腕の中で今もすすり泣いている。


「貴方が犯人です。ギゼラさん!」


 僕が語気を強めて再度指摘すると、ギゼラは目を見開き、司教の腕から離れた。その目は赤く充血していたが、既に先ほどまでの悲痛な光は無かった。


「何を仰っているのですか、カミル様? どうして! 貴方を助けたのは、私ですよ?」


 ギゼラがすぐさま反論する。その声には、これまでの穏やかで慈悲に満ちた響きは無かった。


「その助けこそが、貴方の目的だったからに過ぎません。別に僕でなくても良かった」


「そんなことはありませんわ。私は、誰であっても命を救いたい! そのために医術を学んできました」


 芝居だ。今更開き直ったところで、僕の推理では、犯人は間違いなくギゼラのはずだ。甲斐甲斐しく看護してくれた相手に、こんなことを宣告するのはあまりにも心苦しかった。だが、それとは別に、人を陥れようとした彼女の行動は許されるものではない。


「本当のことを話してください。罪を告白するべきです」


「まさか私一人で、こんな複雑なことを思いつくわけがないでしょう?」


 ギゼラは必死に反論し続けた。ギゼラの目には失意も悲しみも無かった。ただ、狂気の光だけが宿っている。


「そうです! ヒルシュ先生が、そこにいる庭師の売女を誑かして、一緒になってこのようなことをしたのです! そうに違いありません。だって、その売女は教会の洗礼も――」


 ギゼラの言葉に、不意に司教がギゼラの頬を平手で(はた)いた。


「恥を知りなさい! 軽々しく洗礼について口にするなど!」


「……」


 無言になったギゼラの、赤く腫れた頬を涙が伝った。


「全くこれだから、使徒派の敬虔な牧師が足りていない地域は……」


 司教は心底うんざりしたという口調で一頻り愚痴ると、僕を睨みつけた。


「証拠が無いわ。確かにこの侍女は疑わしいけれど、貴方の推理には反論に値する穴がある」


 司教の青い瞳が鋭く僕を射抜く。指摘通り、手元には何一つ証拠が無かった。


 僕は、ギゼラの性格を見誤っていた。きっと追い詰められて、罪悪感に駆られて自ら罪を告白すると、楽観的に考えていたのだ。その目論見は脆くも崩れ去った。

 ここに来て、僕は手詰まりになった。


「まあ、皆さん。どうか落ち着いてください」


 僕の焦りを感じたのか、それまで黙っていた先生が優しい声色で述べた。


「まずは落ち着くのが一番です。少し喉を潤しながら……」


 呑気に言いながら、鞄から酒瓶を取り出す。


「ワーズワース殿、今はそんな場合ではありません」


 伯爵が呆れ顔で先生を問い質す。


「いいから、いいから。こんな雰囲気ではいけません。パール殿! パール殿!」


 そう言って、初老の召使いの名を大声で呼ぶと、人数分の杯を用意させた。


「何のつもりかしら?」


 司教が苛立たしさを隠さずに先生に問いかけるが、先生はそれを無視して、順に酒を杯に注いでいく。


「おっと、カミル君。君は養生しないとな。我慢してくれ」


 先生は僕以外に酒を用意すると、それぞれの前に杯を並べた。


「お酒は結構よ」


 司教は杯を先生のほうへと押し返した。


「それは残念」


 先生は悪びれる素振りも見せず、杯の酒を酒瓶に戻した。


「さて、乾杯と行きたいところですが、先に私からも皆さんにお教えしたいことがあります」


 先生は卯月からもらったヒトヨタケを取り出した。それは既に萎びて色も変色していた。笠だった部分からは黒い汁が滴っている。先生は一瞬、顔をしかめたが、気を取り直して無邪気な少女の顔に戻った。


「カミル君は、毒を盛られるのは誰でも良いと言っていましたが、そうであれば、同じ料理を食べた司教殿も、同じように毒の症状が出てもおかしくない。そうですよね?」


「はあ? 何を言っているの?」


 司教は首を傾げた。

 まさか。しかし、確かにその通りだ。本当に料理に毒が盛られていればの話だが。


「私とカミル君、そしてヒルシュ先生は晩餐会の前日にワインを試飲させていただいております。もしヒトヨタケがワインに入っていれば、味の変化に気付いたでしょう。しかし、そうではなかった。だとすれば、やはりヒトヨタケは料理に含まれていたと考えるべきでしょう」


「どういうこと?」


「司教殿も、カミル君が取り分けたヒトヨタケ入りの料理を口にしていた。しかし、司教殿には毒の症状が現れていないということです」


 そんなことがありうるのだろうか。しかし、疑問を差し挟む隙を与えず、先生はさらに語る。


「この茸について、どこかで見たような記憶があったのですが、つい先ほど思い出しました」


 そう言うなり茸を放り出し、今度は伯爵に貸していた植物図鑑を取り出した。


「これです。ヒトヨタケの毒について考察が書かれております」


 先生が指し示した植物図鑑のページには、ヒトヨタケの情報が詳細に載っていた。


「《ヒトヨタケは酒類と同時に摂取すると、嘔吐、目眩などの症状を生じる。その後も毒素は三、四日の間、体内に残る……》と。ワインを口にしなかった司教殿に症状が出なかったのは、誠に幸いでした」


 そこまで言うと、先生は改めて酒の入った杯に腕を差し伸べた。


「ヒルシュ氏の論文には、毒を生じるための肝心の量が記載されておりませんし、毒が生じるのに必要な酒についても記載されておりません。破り棄てられたのは、その条件でしょう」


 先生は論文のページを指で叩き、欠損した部分を補うように植物図鑑を置いた。


「残念ながら、この植物図鑑にも量に関する記載がない。しかし、これほど綿密な計画において、毒が本当に効力を発揮するかどうか分からないというのは、片手落ちも良いところでしょう」


「調査官殿、つまり貴方は何が言いたいのかしら?」


「犯人は文字通り毒見したということですよ。事前に、自分で手当てができる範疇を予想して。ヒトヨタケを食べ、酒を飲み、自分の身体で毒の症状を発現させたのです」


 先生はわざと音を立てて酒瓶をテーブルの中央に叩きつけるように置いた。その音を最後に部屋は静まり返った。


「さて、如何ですかな?」


 先生は杯を掲げ、愉快そうに微笑んだ。

 真っ先にヒルシュ氏が自分の前に置かれた杯に手を伸ばすと、一気に飲み干した。自分は無関係であると言わんばかりに。


 続いて伯爵が、そして卯月も杯に口をつけた。誰にも毒の症状は出ない。


 ただ一人、ギゼラだけは身動ぎもせずに杯を見つめている。


「……」


 ギゼラの呟きは誰にも聞き取れなかった。


「…………」


 その言葉が反省であっても、悔恨であっても、呪詛であっても、受け入れることができる者は神だけだった。


 彼女の頬を伝わった涙が杯に落ち、僅かに水面を揺らした。



***



 先生は、ギゼラが杯に手を付けないまま固まっているのをしばらく見守っていた。しかし、やがて杯を手に取ると、窓を開けて中身を捨てた。


「もう、よろしいでしょう。お開きです」


「あら、あら。何をしているのかしら?」


 先生が宣言した直後、初老の召使いが部屋の扉を開き、伯母(はくぼ)のイザベラが顔を出した。


「母上……!」


 伯爵の表情が曇る。見られてはいけないものを見られたとでも言うように。初老の召使いが申し訳なさそうに伯爵に頭を下げ、部屋から退出する。


「これは、一体どういうことかしら、ジグモンド?」


 部屋を見回した後、いつもの柔和な表情を崩さず、伯母(はくぼ)は伯爵に問うた。そこには子供の悪戯を優しくたしなめる母親の温情があった。だが、ここで起こった一連の出来事は、子供の悪戯という域を明白に逸脱していた。


 酒で落ち着きを取り戻したヒルシュ氏が、残念なお知らせがありますと切り出し、事情を説明し始めた。それは彼女の日頃の体調を気遣ったもので、最大限ショックを与えないように配慮した簡潔な説明になった。それを頷きながら聞く伯母(はくぼ)の表情は、相変わらず柔和なものだった。


「……事情はわかりました。ギゼラには、しばらく謹慎してもらいましょう」


 事情を聴き終えた伯母(はくぼ)は伯爵よりも先に裁定を下した。


「さあ、他の皆さんも、早くお部屋に戻って頂戴。ジグモンド、それに卯月。貴方たちは残りなさい」


 司教とヒルシュ氏が早く早くと、部屋から追い出される。初老の召使いに付き添われ、ギゼラも部屋から出て行った。


 伯母(はくぼ)の指示で、部屋には伯爵、卯月、先生、そして僕が残された。後味の悪い空気も未だに残されたままだ。


「さて、どうしたものかしらねえ」


 伯母(はくぼ)がため息交じりに呟く。


「ヨハネスは医者としては優秀なの。だけれど噂好きで、少しだらしないところがあるわ」


 伯母(はくぼ)は最初にヒルシュ氏について言及した。


 言われてみれば、そうかも知れない。晩餐会でも参加している女性ばかりについて教えてくれた彼のことが思い起こされた。


「だから、帝都で不純ないざこざに巻き込まれていた彼を、ここで雇うことにしたのよ。でも、相変わらずみたいねえ」


 伯母(はくぼ)は言葉とは裏腹に些かの失望の表情も見せてはいなかったが、そこには長年、カーロイ家に君臨してきた如才ない貴族としての器が表れているように思えた。


「ギゼラには不憫なことをしたわ。ヨハネスはここに来て、東洋医術に夢中になったの。伝統的な内科医療と、東洋医術を組み合わせよう、なんて言って。自分の看護助手の献身を忘れていたのね」


 そこまで言うと伯母(はくぼ)は一息ついて、水を飲んだ。


「そこまで大きな不満ではないと思っていたのだけれど……私たちも彼女の気持ちをちゃんと考えてあげるべきだったわね」


 そう言って伯母(はくぼ)は伯爵を一瞥した。伯爵は恐縮したまま、肩を落として俯いている。


「ジグモンド。卯月のことは貴方から話してあげなさい。私は戻るわね」


 伯母(はくぼ)は最後まで柔和な表情を崩さず、穏やかな物腰のまま部屋から出て行った。

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