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陰謀狩り 八 ~ 悪寒

 晩餐会の食卓に落ち着きが戻りつつある中で、ティサ教区長が言葉を発した。


「では、調査官殿は……ヴァルド市で副牧師に起こった現象も、単なる勘違いであると。そのようにお考えなのでしょうね」


 その落ち着きを湛えた声には、氷のように冷たい響きがあった。僕は気付かないうちに冷や汗をかいていた。


「福音派の副牧師が死に直面し、そして墓穴から消え……ある日、突然まるで死が嘘だったかのように戻ってきて……途端に改革派の教えに目覚めたのも。これら一連の出来事、副牧師の復活は、我々の勘違いに起因しているのだと」


 教区長の言葉に、周囲の貴族にどよめきが広がる。どうやら既に地元では周知となっているようだが、教区長の言う《副牧師の復活》こそが、僕たちがアルデラに呼ばれた原因のようだった。


「それは、これから調査することです。そのために私と、カミル君は来たのですから」


 先生は急に真面目な表情に戻ると、至って平静を保ったまま返答した。


「左様。調査官にお手伝いいただくのは、あくまでも王立アカデミーからの委任に沿った権限の範囲までです。最後に法と正義を行うのは、領主たる者の務めとなりましょう」


 カールマーン州長官が先生の言葉を継いで答え、伯爵を見据えた。王国の立場を代表する老練な行政官は、王権の介入無しにこの厄介事が解決されることを望んでいるようだった。


 罰金刑は国庫を潤す上で貴重な機会だったが、いちいちこのような辺境で当地の判事と書簡をやりとりするには及ばないことも多い。実際、王宮の高級裁判所にまで訴追が持ち込まれることがあれば、帝国内でも話題に上る一大事であり、そのようなことは今まで聞いたことがなかった。


 しかし、もしも州長官が領主の手に負えない事態であると判断すれば、それは文字通りに王権を揺るがす事件である。伯爵の曖昧な表情を見て、僕はにわかに不安になってきた。胃が重く、キリキリと痛み始めている。


「今回の件が主の御力に与かるものかどうか計りかねるとしても、私どもは調査官殿を歓迎し、感謝いたします。できる限り御協力させていただきますわ」


 言葉とは裏腹に、教区長の白皙(はくせき)とした顔色には一向に変化がなかった。それはまるで死人のように見えた。


「ありがとうございます。私は残念ながら復活に至るまでを経験できませんでしたが、極めて死に近い世界を見てきました」


 先生はそこまで言うと言葉を区切り、立ち上がると僕のほうへと歩いてきた。


「私の助手であるカミル君も、帝都の大学において最新の屍霊術や博物学を学ぶ者です。どうかご安心を」


 そう言って先生は僕の肩を叩いた。


「えぇ、勿論です。ご安心ください」


 僕もついつい先生の軽口に乗ってしまった。

 何が最新の博物学だろうか。そんなものがあれば是非とも教授して欲しいから大学にいたのだ。僕の役目は先生の単なる助手でしかない。


 僕は震えていた。緊張のせいか。あるいは――後悔も束の間、急に眩暈に襲われた。


 先生が肩に触れている手に力を入れる。どうしたという先生の声に対して、大丈夫ですと喋ろうとした次の瞬間、僕の背中を悪寒が駆け巡った。


 そして、食卓から背を向けた次の瞬間、僕の唇から赤い液体が零れた。

 嗚咽とともに鮮血が床に迸る。


「毒よ!」


 その場に居合わせたギゼラが叫んだ。アウレリオ司祭は瞬時に席を立つと、呆然としている司教を僕から遠ざけた。


 おお、神よ。哀れな僕に救いを。しかし、聖職者二人は飛びのくように僕から離れた。その判断は正しい。だから、せめて神は僕に憐れみを。


 頭痛と悪寒で喘ぎながら僕が床に突っ伏すと、先生は吐瀉物が飛び散らないように、空にした革袋を僕に差し出した。


「この中に吐け。医者はいるんだ。心配はいらない」


 心強い先生の言葉に促され、僕は革袋を真っ赤に染めた。


 貴族たちが慌てた様子で席を立つ中で、ヒルシュ氏とギゼラが僕のほうにやってきた。ギゼラはすぐに薬を僕に飲ませた。それは甘味のある液体で、喉を通るとすぐに効果を発揮した。


 再び激しい嗚咽を漏らし、僕はさらに吐いた。革袋の中は僕が食べた御馳走だったもので満たされた。


 今飲んだ薬の効果で、食物と一緒に毒物も排出されるはずだとギゼラが説明しているようだが、正確には聞き取れない。副伯のダミアーンが誰も逃げ出さないようにと大声で召使いたちに怒声を飛ばしているのが聞こえてきて、頭の中がぐらぐらと揺れた。


「大丈夫ですか? お気を確かに」


 ヒルシュ氏が声をかけるが、僕は咳き込んで何も言葉に出せなかった。ただ頭と胸が苦しく、僕は悶えるうちに気を失った。



***



 水の流れる音が聞こえてくる。最初は雫が落ちるような小さなものだ。


 それは次第に雨音のようにはっきりとした律動を伴い始める。最後には、湖を満たす河の流れのように穏やかで、しかし同時に周囲の不気味な静けさを際立たせる音へと変わった。


 僕は大いなる海原のただ中で、一人、浮き沈みを繰り返している。


――いつもの悪夢だ……


 周囲を取り巻く水の流れが次第に大きくなり、目の飛び出た不快な魚類の影が見え隠れする。それは濁った水の中をゆっくりと行き交い、僕の周囲を何度も何度も旋回する。


 何度も何度も。


 周りで揺らめく魚鱗には幻想的な光があったが、しかし温かみは一切感じられなかった。


 魚の渦に飲まれて、僕はその一部となった。そして、仄暗い海底へと下っていく。僕は必死でもがき、海上を照らす月に向かって腕を振り回した。だが、魚の群れはやがて月光すらも覆い隠してしまう。


 僕は魚とともに、海底へと引きずり込まれていった……。



***



――我らが人を赦すが如く……我らの罪を赦したまえ……。


 祈祷の声に目覚めると、僕はベッドの上にいた。周囲を見回すと、部屋には先生とヒルシュ氏、ギゼラ、そしてすぐ傍らに司教がいる。


「病の床にある兄弟に祝福を……。おお、主よ。慈悲深い恵みに感謝いたします」


 僕と目を合わせた司教が祈祷を止め、頭を上げて窓から天を仰ぎ見た。空には僅かな星の輝きがある。気を失っている間に、すっかり深夜になってしまったようだ。


「大丈夫かね? 随分とうなされていたようだったが」


 先生が静かに尋ねた。どうやら今度は本気で心配しているようだった。今のところ、悪寒は抜けて意識もはっきりしていた。


「ええ……。なんとか、平気みたいです」


「まだ起きないでください。お身体に障りますわ」


 ギゼラが甲斐甲斐しく枕の位置を直して、僕を再びベッドに横たえた。


「ありがとうございます。御心配をおかけしてしまったようで、申し訳ありません」


「そうです。感謝は相応しく、正しいことですわ」


 何故か司教が胸を張って応える。後で聞いたところでは、僕が倒れてからずっと祈りを捧げていたようだが、果たして如何ほどの効果があったのか、僕からの評価は差し控えたい。


「もし喉が渇いておいででしたら、こちらを。ニワトコのハーブティーです」


 ギゼラがサイドテーブルに湯気の上るカップを置いた。これもまた毒素の排出を促す効果があるということだった。


「それにしても、一体誰が、どうして毒を……」


 ヒルシュ氏が眉根を寄せて俯いた。


 そうだ。誰がこんなことを仕組んだのだろうか。犯人の目的は僕を殺すことだったのだろうか。いや、あれだけ貴族がいる中で、偶然居合わせたに等しい僕を狙う意味はあるのか?


 次々と疑問が浮かんでくる。毒を飲んだ際の頭痛がぶり返してきそうだった。


「今、伯爵閣下と副伯閣下が召使いたちを尋問しているようだ。それで終わるなら良いのだがね」


 先生が立ち上がって部屋をうろうろし始めた。


「食中毒であれば、毒見した召使いは勿論、料理を分けた司教殿も毒にあたっているはず」


 先生の言葉に司教が眉をぴくりと動かす。


「しかし、現実は違う。毒にあたったのはカミル君一人だけなんだよ。これは、カミル君だけが毒を盛られたと考えるべきかな……」


 先生が腕を組んで考える素振りをしているのを見て司教は聖典を握りしめ、何か言いたげに視線を泳がせた。


「であれば、どうして犯人はカミル殿一人だけに毒を盛ったのですか」


 ヒルシュ氏が頭を掻きながら再び疑問を口にする。


 確かにそうなのだ。まだ犯人の目的はわからない。もしかすると、僕に毒があたったのは事故だったのかも知れない。


「実はカミル君に毒を盛る予定ではなかったのかも知れませんね。本当はアルデラの要人を狙っていたが、それが上手くいかず、偶々、私の哀れな助手に毒があたったのかも知れません」


 先生も僕と同じ結論に達したようで、肩をすくめながら同情する口ぶりになった。


「日頃の行いですわね。一人だけ毒にあたるなんて。しかし、そのおかげで主に感謝する機会ができたのですから、気を落とす必要はありません」


 司教は辛辣な言葉で奇妙に僕を慰めてくれた。毒にあたった人間のすぐ隣にいたのだから、自分だって危なかったのに、司教は自分には神の御加護があると信じて疑っていないようだ。


「しかし、これだけの騒ぎになったのですから、犯人は己の過ちを悔やんで、すぐに罪を告白するでしょう」


 司教は犯人がすぐに名乗り出てくることを期待しているようだった。


「いずれにしても、今夜は祈りのために気を張りすぎました。お先に失礼いたします」


 彼女は最後までマイペースな調子で部屋を後にした。


 何かあればすぐに声をかけるように言い残して、ヒルシュ氏とギゼラも部屋を出て行った。残ったのは先生と僕だけだ。


「何か心当たりはないのかね? 狙われるような、馬鹿げた真似をしたとか」


 先生は改めて聞いてきた。そんなことは思い当たらなかった。


「もしそんなことがあれば、最初からアルデラには戻ってきませんよ。それに、僕より狙われそうな人はいたでしょう」


「そうだろうな。そうだとすれば、やはり……」


「やはり?」


「わからんな。私は判事じゃないんだ。それより眠い。明日、事の進展を期待しよう」


 先生はあっけらかんとした態度で推理を諦め、自分のベッドに潜ってしまった。


 僕の身体も先生の言葉に同調して、再び疲れと眠気に包まれ始めた。先生の寝息が聞こえ始めるより前に、僕は再び眠りに落ちた。

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