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陰謀狩り 七 ~ 晩餐会

***



――主の御恵(おんめぐ)みによりて、われらの食せんとするこの賜物(たまもの)を祝したまえ……


 貴族が居並んだテーブルの中央で、司教が厳かに祈りを捧げる。使徒派ではない福音派や改革派であっても、こうした祈りの習慣に変わりはない。その澄んだ声は僕の間近で、いやでも耳に入ってくる。


 僕はひとまず先生とは離れた食卓の末席を確保したが、その隣にわざわざ司教がやってきたのだった。先程は先生と話したがっていた彼女も、アウレリオ司祭に諭されて少し考えを変えたらしい。しかし、その矛先が自分に交代しただけだと分かった途端、胃が重くなった。

 司教の隣でアウレリオ司祭が目を光らせているのが、唯一の救いだろう。


 僕の前には、これまで見たことのない豪華な料理の皿が並んでいた。王宮の料理を解説した書物でしか知らなかった本当の御馳走だった。


 野菜を混ぜ込んだ羊乳のチーズ、湯気が立ち上るグヤーシュ、芥子の実やニンニクで味付けした肉の香ばしい匂いが食欲をそそる。銀杯には先生と一緒に試飲した伯爵自慢の赤ワインが注がれている。


「司教は共和国の商家のご出身で、コルヴィナの食事には馴染みがないのです。カミル殿はアルデラのご出身と伺いました。どうかご教授を」


 アウレリオ司祭も僕に説明を促す。司教が料理に気を取られているほうが、彼にとっても都合が良いに違いない。僕は彼の言葉に同意した。


「とんでもない田舎だって聞いていたから、食事も貧相なのかと思っていたけれど、そうでもないみたいで安心したわ」


 共和国の貴族の箱入り娘。おまけに肩書きは司教。僕にとっては御馳走でも、高貴な司教にとっては田舎の未知の物体にしか見えていないようだ。

 果たして虚仮にされているのかどうかも怪しかったが、司教の神学的議論が始まるよりは良いと考えることにした。


 僕が煮込まれた具材をいちいち説明している間に、晩餐の話題は自然に新大陸に関するものになった。

 危険な航海、発見された動植物、未開の土地の先住民……。


 新大陸では獣の大きさが普通の種類の倍近くあるらしいだとか。

 先住民は屍霊術に似た儀式で、完全に死者を復活させているのだとか。

 彼らは邪神を崇拝していて、時に生贄として人間の心臓を捧げるのだとか。


 一体どこに根拠があるのか分からない噂話が次々に飛び出す。先生はその一つひとつに耳を傾けながら、決して安易に否定はしなかった。


 ふと先生の席へと目を向けると、先生は老齢の紳士と会話していた。整ったカツラのせいで気付かなかったが、僕と先生はこの紳士とは既に出会っていた。


 紳士の名前はカールマーン・ガスパール。アルデラ領内に入った際に、わざわざ最初の郵便局で先生の通行許可証を確認しに来た行政官だ。郵便局で見た、くたびれたシャツと黄ばんだ胸当て布の時の姿とは打って変わって、彼はきちんと仕立てた正装に身を包んでおり、胸元の双十字の紋章は州長官の職位を示していた。


 あの時はただの小役人だと思ったのに、まさか州長官自らが来ていたとは。先生が油断なく挨拶していなければ、僕は非常に気まずい心持ちで今を迎えていただろう。


 州長官は先生との会話で注意深く言葉を選びながら、先住民の慣習を教会の教えに沿って教化すべきだという持論を述べていた。一方で、僕の隣では司教が冒涜的だとか神の教えに背いているとか、何度も辛辣な小言を挟んできた。


 そんなことを言いながらも、自分が祈りを捧げた際に掲げたにも関わらず、司教の銀杯の中身は全く減っていなかった。


「司教殿はお飲みにならないのですか?」


「司教は強く清貧に努めておりましてな。儀礼の時を除いては、このような高級酒は控えさせていただいておるのです」


 司教の代わりに、アウレリオ司祭が事務的な口調で答えた。あえて聞かなかったが、司祭の目からは彼女の酒の弱さを隠したいという思いが見て取れた。


「勿論、口に合わないというわけではありませんぞ」


 アウレリオ司祭は伯爵や副伯の目を気にしてか、大げさに自分の銀杯をあおった。


「それでは司教殿には料理でお楽しみいただきましょう。如何ですか?コルヴィナの料理は?」


 僕は自分と司教の間に置かれたパプリカの肉詰めやスープの皿に話題を戻した。


 基本的に料理は二人で取り分けるように大皿に盛られている。僕と司教は同じ皿から料理をとった。ただ、自分からは料理に手を出さない司教のために、小皿や鉢へと料理を取り分けていると、僕はまるで専属の給仕のようだった。

 しかし、文句も言っていられない。遥か遠い新大陸の冒涜的風習から、眼前の御馳走へと注意を惹かれてもらうほうが、お互いのためだろう。


「そうねえ。この細いものは何?」


 司教が退屈凌ぎといった様子で小皿に僕が盛りつけた料理をフォークでつつく。


「この麺ですか? これはシュペッツレと言いまして、卵と粉を練って作ったものです」


「パスタみたいなものね。共和国の地元では、パスタは平民の子供がチーズをまぶして手掴みで食べるものなのだけれど」


 司教の言葉に、僕は無言のままフォークで卵麺を掬って口に入れた。農家では生地を手で千切って無造作につくるものを、わざわざ麺状にしているので、僕にとっては間違いなく手のかかった料理に見えた。


 司教の顔の奥では、アウレリオ司祭の笑顔がチラチラと視界に入ってくる。その目は険しく光っており、まだ言葉にはしていないが、今にも口を尖らせて司教を注意しかねない凄みがあった。


 司祭の気配に感づいたのか、司教も恐る恐るゆっくりとフォークを動かし始めた。


「うん。辛い……い、いえ、味は普通ね。悪い意味に考えないで。立派な料理ね」


 司教は卵麺の入ったスープを頬張りつつ言い繕うと、すぐに水で口の中の食べ物を流し込んだ。


「そんな無理に召し上がらなくても結構ですから……」


「何を仰っているのかしら。私が無理などしているわけないでしょう。こちらもいただきます」


 司教は強情な態度でスープを平らげると、僕が取り分けた他の料理にも手を伸ばし始めた。


 コルヴィナでは異教徒との交流から、辛味を施した料理も多い。共和国や帝国では香辛料と言えば胡椒だが、コルヴィナで香辛料と言えばパプリカだ。同じ辛味と言えども、舌に合わない者もいるだろうが、司教のプライドはそれを乗り越えたようだった。


「如何ですかな調査官殿? まさか本当に先住民は我々の屍人形よりも精巧に、その、蘇生の儀式を行うものなのですか?」


 赤ら顔の連隊長が先生に尋ねた。先ほどから囁かれている新大陸に関する冗談のような話を本気にしているわけでもあるまい。もう既にすっかり出来上がってしまっているようだ。


「もし、私がそうだとすれば、どうしますかな?」


 先生は悪戯っぽく笑みを浮かべた。戯けた調子だったが、その凄みのある低音の声に、場の空気が一瞬気圧されたようだった。

 連隊長は笑みを浮かべたまま黙り込んでしまっている。


「調査官殿は、一度死んだとでも? では、きっと天国には向かわれなかったのでしょうな」


 副伯のダミアーンが取り繕うように冗談を言った。一部の貴族たちが冷笑を浮かべる。その言葉に多少は場の空気が和んだようだったが、副伯の目からは底意地の悪い、先生を試すような色が垣間見えた。


「ただ酔っているのではありませんよ。では証拠をお見せいたしましょう」


 そう言うと、先生は持ってきた革袋を開いた。そして、粉末の入った小さな薬瓶を掲げた。


「私は新大陸で酷い赤痢に罹りました。もうすぐそこまで死が迫っていることは明白。その時に先住民によって、私はある儀式を受けることになったのです」


 手にしていた杯を置き、ヒルシュ氏が興味深そうに薬瓶を眺めた。


「私は幸か不幸か天国にも地獄にも行けなかったのですが、これが、その儀式で使われた秘薬です」


 粉末は黄色味がかった色で、先生の手のひらの動きとともに、細かな粒子が瓶の中で流れるように動いた。


「儀式で秘薬を飲んだ後、私はいよいよ気を失い、この身は先住民の長から、付き添いの従軍司祭に引き渡されました。従軍司祭は私の死を確認し、すぐに墓穴を掘らせました」


 先生は徐に食卓の上に置いてあった銀のナイフを手に取ると、首筋にあてた。


「しかし、墓穴に埋められるまさにその時、私は目覚めました。そう、私は既に屍者なのです」

そう言うなり、自身の白い首筋をナイフで一直線に引き裂いた。


 貴婦人たちの中から小さな悲鳴が上がる。


 しかし、流れ出るはずの赤い鮮血は見当たらず、細長い傷口はすぐに塞がってしまった。どういうことなのか、その場の誰も理解していないようだった。伯爵は開いた口が塞がらないというように、しきりに自分の首筋に指で擦っている。


 食卓は水を打ったように静まり返った。ただ、先生だけが磁力を持っているかのように、全員の注目を集めていた。


「どうですか? 先住民にも高度な技術があり、生死を分かつ哲学を持っているのです」


 先生の話の調子はまるで大道芸人のようだった。だが、そこにいるのは笑いを誘う道化ではなく、得体の知れない、(おぞ)ましい何かのように見えた。


「まさしく、不可能も可能になる。いやはや、新大陸には我々を驚嘆させる世界があるようだ」


 ようやく連隊長が口を開き、貴族たちもひとまず互いの顔を見合わせて頷きあった。


「お待ちください。ワーズワース殿。確かに貴方は先住民の儀式を受けた。そして今ここにいらっしゃる」


 納得していないというように、ついにヒルシュ氏が口を開いた。


「だが……失礼ですが、蘇生というのは、単なる勘違いなのではありませんかな? 従軍司祭殿は赤痢で貴方が助からないと考えたが、先住民は貴方を治療する術を知っていた」


 ヒルシュ氏の眼差しは医師のそれに変わっていた。周囲の貴族たちは帝都から訪れた二人の外国人の間を見交わし、続く言葉を待つように沈黙している。


「そうです! 調査官殿は死んだのではなく、薬によって仮死状態を経て治癒したのですよ。そうでなければ蘇ったところで、赤痢によって天に召されることになってしまいます」


 急に合点がいったというように司教が叫んだ。

 確かにその通りに思える。赤痢で重体だったのだから、死んだと思われても無理はない。それに、本当に蘇ったと考えても、瀕死の生前からいきなり健康体になるというのも変な話だ。


 治療の態勢も整っていない新大陸の地で、治癒の祈りも届かないとなれば、司祭が墓穴を掘って葬儀に備えることは十分にあり得た。しかし、それは死を確認したのか、死を確信したのか、現実には若干の相違があったのかも知れない。


「貴方は一度も死んでなどいないのです! ご自分の首を切って血が流れなかったのも、イカサマですね! 私の目は誤魔化せません!」


 不意に立ち上がると司教は先生を指さし、勝ち誇ったように宣言した。勢い良く立ち上がったおかげで法衣の裾が当たって、パンが僕のほうに飛んできた。


「司教!」


 アウレリオ司祭が低く唸るように小声で司教を呼ぶ。司祭の言葉に縮こまった司教を彼が座らせると、貴族たちの間に失笑が広がった。


「ご無礼をお詫びいたします。でも、やはり調査官殿は死んでないはずですよね?」


 司教が恥ずかしさから顔を真っ赤にして、小さな声で謝罪した後、先生に尋ねた。


「私のほうこそ、非礼をお許しください。司教殿の仰る通り、私は死んでなどおりません」


 先生はタネを明かす手品師のように、司教の言葉を肯定した。そして首筋に指を這わせると、白い薄皮のようなものを剥がした。


「剥製用の革です。血が通っていないのは当然」


 先生は悪戯っぽく笑った。その顔を見て、呆気にとられた連隊長が力なく笑った。あまりにも悪趣味な見世物だったが、先生の顔はそれも許せる無垢な少女の笑顔だった。副伯が分かっていたというようにため息をつくと、周囲の貴族も調子を取り戻して、わざと呆れたような態度を取り繕った。

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