05 トラウマ
そして数日後。俺は使用人としての仕事を少しずつ覚えていった。慣れない小さな体で働くのは正直つらいところがあったが、使用人が親身になって手助けしてくれたお陰で何とかなっている。
ここへ来てから、今のところ暴力を受けたりすることはない。カーティスも使用人も、俺に対しては親切にしてくれている。というか、奴隷の扱いをされることがないのだ。
ここにいる人らは、皆優しい。少しは信用してもいいんだろうか――。
カーティスに言われていた通り、吸血鬼は夜行性のようだ。朝早く起きるのは、確かにつらい。寝るぐらいの時間が一番体の調子が良いのだ。
調子のいいときに床へ着くのは、吸血鬼の体内時計的にはあまり良くはないのかもしれない。
ただそれで眠れるのならいいが、実はほとんど眠れていないのだ。これは体の習性とかの影響の話ではない。
ここへ来る前に受けていた暴力の光景が、悪夢として毎晩襲ってくるのだ。よく眠れたのは、ここへ来た日の夜だけ。眠れたのは疲れていたからなのかもしれない。
あの経験がトラウマとなって襲ってくる状況に、俺はゆっくり眠ることができずにいた。
その晩、眠った後にまたいつもの悪夢を見てしまう。目が覚めると涙がこぼれ落ちていた。
体を起こすと涙は頬を伝い。嗚咽の声が俺の口から漏れ始める。
本当にこの体は涙脆い。女になってしまったことが原因かとも思ったが、それだけではなく――心が弱くなってしまったのかもしれない。
ふいにギイと部屋のドアが開かれる。入ってきたのは――カーティスだった。
こんな顔を見せられないと思ったが。涙も、嗚咽も止めることはできなかった。
最初は静かに入ってきたカーティスだったが、俺の様子に気付くとパタパタと早歩きで俺に近づいてきた。
「リリス、どうしたんだい? どこか痛むのかい?」
カーティスはオロオロとしながら俺にそう言ってきた。俺はそうじゃないということ、ここへ来る前の経験が悪夢として毎晩夢に出てくることを、嗚咽を抑えながら何とか伝えた。
それを聞いたカーティスは、前触れなく俺を抱きしめてきた。突然のその行動に体を強ばらせる。男への恐怖心から体がガタガタと震えてしまう。カーティスを引き離そうと思ったが、しっかりと抱きしめられていて逃れることはできない。カーティスは俺に語りかけるように、ゆっくりと話してきた。
「大丈夫……。ここにリリスを苦しめる連中は誰もいない。安心していいんだよ」
体の震えが徐々にではあるが収まっていくのを感じた。カーティスは俺に容赦なく暴力を振るった連中と同じ『男』のはずなのに。抱きしめられ、背中に手を回されていると何故か心が落ち着いていくような、そんな気分だった。
再び俺の両目から涙が大量にこぼれ落ちてきた。嗚咽の声も抑えずに泣き叫んだ。カーティスはそんな俺を、背中をポンポンとしてくれていた。カーティスの胸の暖かさと相まったその心地よさに、俺は強烈な眠気を感じた。カーティスの胸に頭を預け、俺はそのまま微睡んでいった。
目が覚めると、俺はベッドの上で丸まって寝ていた。まだ部屋の中は暗い。頭に何かが当たっている。顔をずらしてみると、カーティスがベッドの縁に座ってうつらうつらとしてしていた。
「ご主人様……?」
俺が声を掛けるとカーティスが目を覚まして、心配そうに俺を見てきた。
「リリス、大丈夫かい? 途中で眠ってしまったようだけど、悪い夢は見なかったかい?」
そう言われてみると、目を覚ますまではよく眠れていた気がする。どれくらい眠っていたかは分からないが、辺りはまだ暗く朝にはなっていないようだった。
「はい……大丈夫です」
カーティスの問いに対して俺はそう答える。
ふいに眠ってしまう前のことを思い出して、恥ずかしさがこみ上げてきた。お、男の胸で泣き疲れて眠ってしまうなんて――。元男としてはかなり複雑な気分だ。しかし、実際に安心してしまったのは事実だった。
毎晩眠れずに、相当精神が参ってしまっていたに違いない。俺はそう自分に言い聞かせて納得させた。
「しかし、眠れないのは困ったね……。さっきので落ち着いたのならいいんだけど、どうだろうね」
カーティスにそう言われるが、実際のところは分からない。また眠ったらあの悪夢を見てしまうかもしれない。どう返答しようか迷っていたら、先にカーティスが口を開いた。
「そうだ、しばらく僕が添い寝してみようか。……って、さすがにそれは君が嫌がるかもしれないか……」
腕を組んだカーティスは、そう言ってウンウンと呻っていた。
男に添い寝されるなんて、正直あまり良い気分ではない。しかし、さっきはカーティスのお陰で短いながらもゆっくりと眠ることができた。もしかしたら、カーティスが添い寝してくれると眠れるのかもしれない。
安眠と元男としての尊厳を秤に掛けたが、安眠の方が僅かに重量で勝ったようだ。――尊厳はこの際横にやっておくことにした。これは、仕方のないことだと。
「あの……ご主人様がよろしければ、添い寝して欲しいです……」
面と向かって言うのも恥ずかしさがあったので、失礼だと思いつつも目を逸らしてそう言った。
「そ、そうか……。分かった、とりあえず今日は添い寝してみようか」
カーティスはそう言うと、ベッドの中に入りこんできた。
まあ、添い寝といっても隣同士で寝るだけだ。だが、カーティスが横にいるだけで不思議と安心感があった。
また悪夢を見たらどうしようかと不安を抱えつつも、眠りについた俺。
ところがカーティスの目論見は、見事的中することとなる。この日俺は朝までぐっすりと眠ることができたのだった。
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