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其の二




 入社式を終え、希望部署での研修の説明と今後の日程を詳しく聞き終えたころには、すっかり夕方だった。待ち合わせを思い出し、帰路に着こうとする匡雄の肩をポン、と誰かが叩く。振り返れば長身、黒髪、眼鏡と凡庸な男性がいた。


「さっきはどーも」


「……ああ!いやいや、大丈夫でした?その後」


「ええ、おかげで上司にどやされずに済みました」


 微笑む男に「よかった」とつられて匡雄も笑う。


 昼ごろのことだ。式典が行われた場所から少し離れたビル街にある、笠神エンタープライズに向けて匡雄が一人歩いていると、車がエンストしたのか、路肩に止めてボンネットの中を覗き込み首をひねる男がいた。


「何か、お困りですか?」


「っ!?……えと、はい。車が止まってしまって……恥ずかしながら、機械には明るくないもので。これも、友人に選んでもらったのですが、最近どうにも調子が悪く……」


 声を掛けると、一瞬ひどく驚いたように眼を見開いてから、戸惑いがちに男は答える。


「ちょっと見せてもらっても?」


「え?あ、はい」


 男に断り、スーツの袖を捲って匡雄もボンネットの中を覗く。


「あー……やっぱりディストリビューターかな」


「は?」


「この、電極に汚れが溜まってるでしょ?これを落とせば多少はよくなると思うんですけど。よかったら、やりましょうか?」


「え、いいんですか?」


「以前、自動車販売所でバイトしていたので、腕に自信はありますよ」


 結局、積んであったらしい工具を借りて問題個所の洗浄と、ついでにプラグの点検をしてあげること三十分弱。車内にいた男に声を掛けると、ブスブスとぐずっていたのが嘘のように威勢よく、黒塗りの車はエンジン音を発した。


「いやあ、ありがとうございました!」


「いえいえ……あっ」


片手を振ってこたえていると、ふと見た腕時計が示す時刻に思わず悲鳴を上げそうになる。


「どうしました?」


「いや、実は入社式が終わって本社に移動する途中だったんですけど時間が……すみません、多分それで車は治ったと思うのでっ」


だっと駆け出す匡雄の手を取った男は、微笑む。


「待って。君の向かう先は、笠神エンタープライズだろ?僕もなんですよ」


「え……」


 驚く匡雄に、にんまり顔で男は「君の会社の……重役の秘書なんです。直してくれたお礼に送りますよ、木野下匡雄くん」と言った。


 なんで名前を知っているんだ、と突っ込む間もなく匡雄は、男の車に乗せられた。エンストが嘘のように、ブルルン、と快調なエンジン。男の華麗なハンドルさばきもあり、予定時間ぎりぎりに到着すること叶った。匡雄を入口で下ろした後、止める間も、お礼を言う間もなく男は去ってしまったが……。


 「こちらこそ、ありがとうございました!就職一日目から遅刻したくなかったので、助かりました……」


「いえいえ。車を直してもらった、ほんの些細なお礼ですよ。それより、この後お暇ですか?よろしければ改めて、お礼としてお食事でも……」


 穏やかな笑みと声音で言い寄られ、しかしこの後は予定がある、と断ろうと匡雄が口を開いたとき。


「悪いが、そいつは俺が先約だ。手を出さんでくれ?玉緒たまお


軽い調子で、肩を掴まれながら


「‥‥‥‥社長、社内は禁煙ですよ」


「ケムついてねえから、いいだろ」


火のないタバコを唇で上下させる白夜を半目で見、ややあってため息混じりに「いつもながら、社長がそんなことでは困ります」と男は右手人差し指を立てながら言い募る。それを適当に流しながら、白夜は匡雄の肩を叩いた。その手がさりげなく指すのは、玄関扉のガラス越しに見える白夜所有のリムジンと、その車体に持たれるようにしてこちらを見、待つ小柄な少女の姿。


『一緒に待ってろ』無言で落とされた指示に、黙って匡雄は従う。せめてもの抵抗にゆっくり歩こうとしたら、肩甲骨の隙間を拳で抉られた。


「いたた‥‥‥‥」


嘆息しながら外に出れば、春先というのにまだ寒い。


「はっ。そのまま、風邪を引いて寝込めばいいのに」


スーツオンリーの匡雄を嘲笑うように、暖かそうなカシミアのコートの裾を翻しながら少女が歩み寄ってきた。実際、例えでなく彼女の唇にはその愛らしさに似合わない、醜い笑みが浮かんでいた。


「なんで、あんたが、ビャクさんのコート着てるんですか―――マオさん」


「見て分からない?貸してもらったのよ、シロちゃんに」


自慢げに、ダークワンピースに包まれた無い胸(本人に言ったら鼻血が出るまで殴られそうだ)を張って乾真桜は唇を目繰り上げる。


普段なら白夜の手前堪えるが、今は解禁とばかりに、応えるように匡雄も大きく舌打ちした。


「分かりやすいくらい薄着して同情引いて、ですか。痴女だなあ」


「黙りなさい、発育不良のくせに。あんたなんか、シロちゃんのお情けがなければろくに就職も出来なかったじゃない。馬鹿よりましよ」


「ビャクさんの家政婦気取りの実際押し掛け女房に言われたくないですー」


「あら、お褒めいただき恐悦至極」


「は?」


眉間に皺を寄せて鋭く問い返す匡雄に、余裕たっぷりに毒をまぶして、真桜は答えた。


「あんたのいう通り、あたしはシロちゃんのお嫁さんになれるわ。あんたには逆立ちしたって、シロちゃんの本当の家族は作れない。成れない。あんたの気持ちは、シロちゃんにとって迷惑でしかないのよ」


たっぷり余ったコートの袖で口元を覆い、さながら童話の悪役妃のように笑う舞桜は、しかしそれでも美しい。自身の美貌を知り尽くしたメイク、衣服、幼さをカバーするために前髪を巻き上げ、額を出した髪型。ウェーブの茶髪はくどくない染め方で、栄養失調のせいで変色した白に近い自身の髪色とは大違いだ。


細い体、ふんわりとしたフォルム、ほどよい肉付きの脚。大きな瞳と愛らしい面差し、全てが妬ましい。


なにより、彼女の胎には愛しい男の子を産むための、揺り籠がある。どんなに望んでも手に入らない、白夜がもっとも渇望するものが。


「‥‥‥‥そんなこと、俺が一番分かってるよ」


「何がわかってるって?」


足元のコンクリを見つめ呟く匡雄の背後から、話し合いが終わったのか白夜がのっそり現れた。髭面とガタイのよさからまさに熊の様である。


「っビャクさ―――」


「シロちゃん!お疲れさま!!!」


 途端、まばゆい少女の笑みを浮かべて白夜に抱き着いた真桜。その変わり身の早さに匡雄が唖然としている間に、白夜のエスコートで恋敵は助手席に座る。


「入社式とかで、疲れたろ?マサは後ろで少し休んどけ」


笑顔でそう言われては断れず、渋々と匡雄は後部座席に乗り込んだ。それを見届けてから、運転席に座った白夜はエンジンをかける。緩やかに社内駐車場を発車する車の中、匡雄が最後に見たのは社の入り口でこちらを丁寧な御辞儀で見送る黒髪の男だった。







 「木野下くん、悪いけど、この書類を秘書課まで届けてくれないか?」


 仕事にも大分慣れてきたころ、入社してから一週間が経とうとする日の金曜日。午後の仕事中、隣りの教育係である先輩に頼まれ、匡雄はビルの階段を上る。九階建ての最上階はエレベーターで行くべきだが、匡雄の属する部署のフロアはその一つ下。ならば階段を利用した方が、デスクワークで疲れた自分の体にも良い。無心で登っていると、踊り場で携帯を弄っている男がひとりいた。避けようと匡雄が目線をそちらに移せば「あ」と声が重なる。男は、先日の黒髪の男だった。


「木野下、匡雄くん」


「えーっと……タマオさん、でしたっけ」


「そうそう。玉緒たまお康貴やすたか。君の養父、笠神社長の第一秘書をしています」


 携帯をポケットに仕舞い、丁寧に名刺まで渡され慌てて匡雄は受け取る。もちろん、自分の名刺を渡すことも忘れない―――新品印刷したてのそれを、まさか社内の人間に渡すことになるとは思わなかったが。


「というか、なんで俺…じゃなかった僕、の名前を知っているんですか?」


「秘書ですから。御家族のことも把握している必要がありますし、雑談で何度か伺ってましたからね。三年前の、あなたとの出会いも」


 そう玉緒に言われ、つい、俯いてしまう。書類を抱えた自分の手が、急に汚れていく幻覚に襲われた。


『あんな大きな拾い子を』


『笠神さんはすでに真桜さんを育てているのに』


『笠神さん自身も確か孤児でしょう、きちんと子育てできるのかしら』


 さんざんマンション内で言われた陰口が、脳裏をよぎる。匡雄にとって白夜は救世主で、けれど周囲にとってそれは危険な人形遊びにしか見えないのだ。非営利法人で成り上がりの資産家が、自分の生まれを売名に使って浮浪児たちを使いつぶしているなんて悪し様に三流記者には書かれていることを、匡雄も、白夜自身も知っている。それでも彼は、彼や真桜が生まれ育った孤児院を守るために、スタンスを変えたことはない。


 成人していようが、働き始めようが、十歳の年齢差は大きい。何かにつけ、攻撃の的とされやすい己の生まれが恩人を傷つけていることも、それを知られないように巧妙に白夜が隠そうとすることも、どちらももどかしい。


 この男も、その手の嫌味を言うのだろう。と、無表情で「ええ、それが何か?」と答えると、


「社長は、あなたに不自由させていませんか?アレはなかなか気が利かない男ですから、何か不満があれば私に言ってくださいね。これでも五年の付き合いです、多少は手綱を引ける自信はありますので」


「……は?」


 気負って固まっていた背中の筋肉が、予想外の言葉に別の意味で硬くなる。


 というかこの男、仮にも上司に対して「アレ」とか言わなかったか。


「……あ、もしかして、あなたの育ちに関して何か言うと思いました?お忘れかもですが、ここはあなたのような恵まれない子供たちの手助けするためにある会社、といっても過言ではありません。ゆえに、この社内においてあなたやあなたと社長の関係性について、悪く言う者は居ないと言い切れますよ。見つけ次第、そんな不届き者は排除しますし」


 無言で顔を凝視していると、手をぽんと漫画のように打ち合わせ、何度も頷いてから玉緒はそんなことを平然と言う。『排除する』と笑顔でのたまった時の表情は妙に甘い笑みで、スーツの下の両腕と背筋に鳥肌が立った。


 とはいえ、そこまで明確に太鼓判を押されて「そうですか」で別れるのも仁義に反する。そう思い至り、匡雄は「ありがとう、ございます」と礼を言った。ビジネス用の形式ばった言葉ではなく、本音からの台詞になってしまったが、そこは新社会人ということで大目に見てほしい。気を張っていた反動で、口元と目元もふにゃりと、笑んで、コンマ一秒で鉄仮面モードに戻れたのは義父の厳しい養育ゆえだ。


 それを、珍しいものでも見たかのように目を丸くして玉緒は見、やがて笑みを返す。


「もっと笑えばよろしいのに」


「う、すみません……」


「はは、社内では別に構いませんよ、木野下君の部署ではあまり接客もないでしょうから……でも笑った方が、女の子にもモテますよ?」


 無邪気に、男はその言葉を放ったのだろう。けれど匡雄には深く、それは突き刺さる。


「……そう、ですね」


 うまく、笑えているだろうか。取り繕えて、いるだろうか。


「気になる人は、いないんですか」


 問われて、答えに詰まる喉と舌を叱咤して、「今のところは」と何とか答える。それで終わればいいのに、好みの女性のタイプだの、初恋の相手だのと根掘り葉掘り聞かれ……所用を済ませて戻るころには三十分も経っていて、上司に体調でも悪くしたのかと逆に心配されてしまった。


 誤魔化して、座席に戻ればデスクトップにメールの通知。開くと、先程なかば無理やり連絡先を交換してきた玉緒のフルネームと携帯番号、ラインのIDが記載されていた。


 再度、大きな溜め息をついて匡雄はスマートフォンを取り出す。見れば、ラインの通知が一件。タップして開けば、「玉緒と仲良くしてくれて、ありがとうな」とのメッセージ。


 溜息すら出せず、犬がお辞儀をするスタンプ一つ返した。



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