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大女
それは幼稚園時代から今にまでついて回っている、忌々しい呼び名だった。
彼女は幼稚園生のことから、いつだって人より大きくかった。それも男女含めての結果だ。10年経ってもそれは変わらず、高校3年生の今に至っては174cmまで成長した。しかも今なおまだ少しずつ伸びている。本当に忌々しい。
背が高いことがずっとコンプレックスだった。だから本当はヒールのある靴が好きなのだが、実際履くのはいつでもローヒール。それでもこの時点ですでにクラスの男子と同じくらいの背丈という始末。
ハイヒールを履いた日には、たぶんクラスで一番大きくなってしまうだろう。考えるだけで憂鬱だ。
小さく可愛らしい女の子に生まれたかった。大女と呼ばれるような長身で生まれたくはなかった。すらりとしたモデル体型だといわれているが、だいたいの男が自分と同等かそれ以下だという現実のほうがよっぽど嫌だった。
どうして母のように小柄に生まれなかったのだろうかと、何度思ったか知れない。母は156cmと平均より少し小さいくらいだった。けれど父が長身だった。180cm越すその血が、残念なことに強く現れてしまったらしい。
父と母と同じくらいの身長差ほどは求めはしないが、やはり隣を歩いてくれる人には自分以上の高さをもっていてほしいと思う。それは仲の良い両親に対し、知らずのうちに憧れを抱いていた彼女故の願望だった。
けれどそうそうに彼女より高い背の男はいなかった。いいなあと思っても、自分より背が低いと思えばすぐ気持ちは薄れてしまう。おかげではっきりと初恋といえる代物もまだだった。
◇◇◇ ◆◆◆ ◇◇◇
「あーあ……、つんまんないなぁ」
それは今日が面倒臭い塾の日であるということもあるし、3日後から期末テストだということもあるし、雨が降っていてなんとなく気分が沈んでいるということもある。あとはやっぱり、彼氏がいないということが大きい。
恋がしたい。恋人がほしい。切実にそう思う。
雨宿りがてら寄った部活帰りのコンビニで、今立ち読みしているような少女コミック的な出会いは、いったいいつやってくるのだろうかと思わずにはいられなかった。優しくて格好がよくてヒロインに一途で甘やかす、そしてなにより背が高いヒーローに出会いたい。ついでに一目惚れとかもしてみたい、両親がそうだったと聞いたことがあるし。
でもそう上手くいかないのが世の中だ。ため息一つついて、読んでいたコミック雑誌を閉じる。
読んでいた漫画はいろいろとコンプレックスを抱えたヒロインが長身イケメンと出会い、それらを克服しつつお互いに恋心を抱き、そして愛していくというもの。けっこう長く続いている今人気の漫画なのだが、所詮漫画なのだと急に虚しくなって閉じた。いいなあと、漫画のヒロインに嫉妬する自分が悲しい。
またため息を一つしつつ、携帯を取り出して時間を確認。14時35分を少し過ぎたところだった。塾開始は15時だから、そろそろいかなくてはいけない。
ちらりと外を見る。まだ雨は降っている。残念なことに傘はない。ちなみに傘なしでいけるほど、柔な降りっぷりでもない。まったく降水確率が30%だから平気!イケる!と踏んだ朝の自分が忌々しかった。
ただでさえ気分が盛り下がっているのに、加えてビニール傘という無駄な出費。塾サボっちゃおうかなあと思いつつ、それでも傘を買い店を出て、さて傘をさそうかなという時だった。手元で差し掛けていた傘を見遣っていた視界が陰ったように感じた。
ふいに視線を上げる。隣にいたのは上着についた雨粒を軽く払う男だった。それも、自分よりも背の高い男。180cmは優にある、もしかしたら190cm近いかもしれない。
思わず見つめてしまった男の顔は、それこそ漫画に出てくる華々しいイケメン、ではなかった。間違いなくその男は、地味といわれる類いの顔立ちだろう。が、それなりに整っているのも本当だった。
いうなればキラキラオーラ全開の王子さまでこそないものの、男らしさのワイルド感抜群の傭兵。これだ。体つきも細いというわけでもなく、むしろがっしりとした大柄な男だった。
ドクン、と心臓が大きな音を立てた。ような気がした。思わずごくりと喉を鳴らす。
見られていることに気がついていない男はさっさとコンビニに入り、迷うことなく奥の冷蔵エリアにいった。たぶん飲み物でも買っているのではなかろうか。
背の高いその男は、無論店の棚よりも大きい。店の外からでもよく分かる。そのままそそくさと男は買い物を済ませ、出入り口のあるこちらに向かってきた。相変わらず向けられている視線には気がついていないようだった。
やっときた、待ちに待った出会いだ。そう思ったら鼓動が一層ひどくなった。それでいて急に周りの雑音も気にならなくなった。というか耳に入らなくなった。聞こえるのは、うるさいくらいに高鳴っている己の心音のみ。
話しかけねば、そう思うのに喉が張り付いて声がでない。ならばせめて追いかけねば、けれど足も地面に張り付いてしまって動かない。
一目惚れの衝撃はこれほどまでに凄まじいらしい。
結局、男は黒い車に乗り込み走り去った。彼女は男を引き止めることが出来ず、そもそも男は彼女に気づくこともなかった。
彼女はしばらくその場を動けずにいた。
それから彼女を襲ったのは、ものすごい後悔だったことはいうまでもない。
あの一時ですっかり彼の男に惚れ込んだ彼女は、まったく行動できずに突っ立ったまま男を見送った、数十分前の自分を呪いに呪っていた。それも塾の学習机に座って。
あれから塾にはやってきたものの、もちろん何も頭に入らなかった。現在進行形でホワイトボードに数学の講師が計算式を見事に披露していくが、あれが数式だということだって認識出来ない。ただ考えるのは、さきほどコンビニで出会ったあの男だ。
彼はいったいどこの誰だろう。どうしたらまた会えるんだろうか。
名前も知らない。年齢も知らない。どこに住んでいるのかも分からない。乗り込んだ車は黒いセダンだったが、車に詳しくないため車種なんて分からない。分からないことづくしだ。
男の特徴といえるのは背が高く、地味ながらもそこそこに整った顔。ありきたり過ぎて特徴ともいえやしない。だいたいそれだけでは人を捜すことだって不可能だ。堪らずに机に突っ伏す。
せっかくのチャンスだったのに。これだけもう好きになっちゃったのに。もう一度会いたい。会いたい会いたい会いたい。
ひどい焦燥感に駆られ、10回目のため息を吐いた頃、数学の講義時間が終わった。
「あ、次の英語の講義なんだけども」
部屋から出ようとしていた数学講師が、もう一度部屋に顔を向けてきた。
正直どうでもいいと、顔を反らす。一応その英語も受けるのだが、どうせその英語だって頭にははいってくるまい。そんなことよりあの男のほうが大事だ。どうしたら会えるか考えるだけで精一杯。
「先週で英語担当の谷村講師が家庭の都合で止めてしまったので、今週から新しい方になります。今から先に紹介しますから、それから休憩とってくださいねー」
どうでもいいよ、そんなこと。まったくもって興味が湧かないものの、とりあえず視線をやっておく。
数学の講師はもう一度入り口のほうに身体を向け、手招きをしている。たぶんその、新しい英語講師を呼んでいるのだろう。
おばさんかおじさんか、もしくはじーさんか。まあ、そのどれだったとしてどうでもいいけれど。
そんな気持ちで半眼になっていた視線の先に入ってきた、その新しい講師。
一気に、意識が覚醒した。
あの男だった。コンビニで出会ったあの男。こんな出会いなど、少女コミックスだってそうそうない。もはや運命の相手なのかもしれない。いやきっと、運命の相手だ。そう思った。
男はホワイトボードに名前を書き始める。そのまもなくに書き終え、男が振り返って生徒たちを見渡した。
「杜沢 護です。今日からこの塾でお世話になる、英語担当の臨時講師です。昔は教師をやっていたこともありましたが、数年ブランクがあります。なんでどうぞお手柔らかによろしくお願いします」
それが護と、コンビニで彼に一目惚れした高校生、美空 一瑠の2回目の再会だった。