OTHER SIDE
その電話は夕方、自室で仕事をしている最中にかかってきた。スマートフォンの画面に表示されている名前は、城島 亮太。学生時代からの友人で、塾の経営をしている男だ。チャラっぽい言動が目につくが、実際はそこまでチャラくもない。………と思いたい。
「もー無理!無理無理! 護がいないと無ー理ー!」
電話をとった途端、亮太に情けないほどに泣きつかれた。思わず若干引いた。
どうやら亮太の話を聞く限りでは、経営している塾の英語の講師が急遽止めたらしいのだが、その後釜が見つからないということ。今まではなんとか別科目の講師に頼んでいたのだが、それももう限界だという。それで護に白羽の矢が立ったらしい。元教師かつ、担当が英語だった護に。
「なあ、頼むよぉ護〜…」
「頼むっつわれても……」
「留学で培ったバリッバリの発音活かして、久方ぶりに教鞭とかとっちゃいましょうよ〜」
「留学って……、いつの話だしてんだよ。もう8年近く昔のことだぞ……」
「俺よりいいじゃんか!」
「そりゃ古典担当のお前よりはな。にしても必死だなー、なんかウケるわ」
「そうですか、受けてくれますか、この話!」
「そうきたか」
まあ、最近はようやく翻訳の仕事が安定してきて、少しは時間に余裕ができたのはたしかだ。だから亮太の頼み事は出来ないことはない、とは思う。思うけれど、楽でもないだろう。
護は唸りながら腕を組む。考え込む時の癖だった。
「ホント、お願いします! 頼まれてくださいマジで!!」
「う——ん……」
「出来るだけ融通きかせますから! 長くても半年くらいだと思うから! 頼むッ!!」
「………」
どうにも自分は人に頼られると弱い。まったく、きついと分かっているならば断ればいいものを、と思いつつ護は一つ溜め息をつく。
「も——……、わーったよ。引き受ける」
「おお、やったサンキュー! マジ助かったわー!!」
「……くっそー、自分の性分が恨めしい…」
「俺にとっちゃあ大助かりだから安心して! ちょう扱いやすい!!」
「……この話、蹴るかな」
「嘘ですごめんなさい!!」
んでさっそくで悪いんだけど、打ち合わせがしたいと亮太に切り出され、「しゃあないな」と護は答える。
待ち合わせ場所は駅前の喫茶店で即決。とくに大学時代に、お互いよく通った喫茶店だった。護にいたっては今も仕事の打ち合わせでよく使わせてもらっている。
時間は今から各自店に移動。というアバウト設定だが、護も亮太もその辺り頓着しないタチなのでちょうどいい。そうそうに護は電話を切り、蓮華の見送りをもらって家を出た。
◇◇◇ ◆◆◆ ◇◇◇
喫茶店『宿り木』といえば、駅前に店を構えて早30年を迎える店だ。どこか懐かしさを覚えるレンガ作りのレトロな外観で、地元ではちょっと有名な喫茶店だったりする。この地で生まれ育った護ももちろんよく知った店だ。父親がこの店のマスターと同級生だったこともあり、小さい頃から数えきれないほどに通っている。
カウベルのような低音が印象的なドアベルを鳴らして店に入れば、まずは似合った雰囲気のジャズがお出迎え。次いでドアベルの音に気がつき、対面式のキッチンから首を伸ばしたマスターの杉村からゆったりとした笑みを貰い受ける。
「いらっしゃい、護くん」
「こんにちは、マスター。今日もお邪魔します」
「どうぞどうぞ。奥のテーブルですでにお待ちかねですよ」
緩やかに移動した杉村の視線の先には、奥のテーブル席から身を乗り出した亮太が手を振っていた。
「護こっちこっちー」
「はいはい、今いく。それじゃあマスター、奥借ります」
「どうぞごゆっくり」
杉村の言葉を背に受けながら、護は亮太と向かい合わせになるように席に着いた。
テーブルにはアイスミルクティーが入ったガラスコップが一つ。まだコップが汗をかいていないあたり、頼んでまもなくといったところか。
「とりあえず、何飲む? 俺、軽食頼むからついでに注文するよ?」
「んじゃ、モカ」
「軽食は?」
「いや、それはいらん。嫁と家で一緒に食う約束してきた」
「嫁と家で一緒とか!」
負け組の俺に対する宣戦布告かコノヤロウッ!!
いきなりテーブルに突っ伏しながら、ものすごい勢いで亮太が食いついてきた。そういえば常時彼女が出来ないと嘆いていたっけ。面倒臭いなあとげんなりしつつ、ほっとけばもっと面倒臭いことになるのも目に見えているというもの。
護はしぶしぶ亮太をなだめつつ、本題を切り出すことにした。
「んじゃ平日15時〜22時半、来週からってことでいいか?」
「十分十分、助かりまっす!」
亮太本人が経営者だけあって、護の講師としての出勤時間があっさりと決まった。しかも『前もっていえば休みも自由』という好条件付きなのは助かった。
あくまでも自分の本職は翻訳なのだ。おそろかにするわけにはいかない。
ふと時間が気になって、護は時計を見た。すでにここに来てからかれこれ1時間以上経っているではないか。なのにそんなに仕事の話をしていた気がしないのは、絶対なだめていた時間のほうが長かったからだろう。亮太は悪いヤツではないのだが、時たまやたらめったに女々しくなるのが玉に瑕だ。
なんだか急に気が抜けたら、ぐう…と腹がなった。早く家に帰って蓮華の作った飯が食いたい。
残っていた珈琲を飲み干した護は、「んじゃそろそろ帰るわ。ついでに支払っとく」とまだ軽食を食べきっていなかった亮太を置いて席を立った。
亮太の「ゴチでーす」という言葉を背に受けながら、会計を済ませる。ちょうどその時、レジカウンターの隣に置かれた小さめの対面ショーケースが目に入った。中にはこの店自慢の、カッティングされた自家製チョコレートシフォンケーキ。このケーキを買うためだけにやってくる客もいるほど美味い一品だ。
そういえば蓮華は甘いものが好きだったなあと、つい緩む表情で杉村に包んでもらうように申し入れた。買ったケーキのために、帰りの運転は行きよりよっぽど安全運転だった。
家に着いてそうそう、玄関が開けられる気配。見れば車のエンジン音を聞きつけたらしい蓮華が、そこから顔を出していた。車を降りれば、「おかえりなさい」というほっとする温かい言葉が飛んでくる。
やっぱり家に誰かがいるというのはいいなあと思う。こうして迎えてくれる人がいるのは本当に幸せだ。
戻った挨拶もそこそこに、蓮華に土産のケーキを渡す。彼女はくんくんと鼻をならし、その匂いがお気に召したのか途端に破顔した。まるでおやつを貰った子犬のようだ。堪らずにその頭を撫でる。柔らかい彼女の髪が心地いい。
……きっと全身も柔らかいんだろうなあ。と護は思うものの、そこはぐっと堪える。そんなことをすれば100パーセント蓮華はビビるに違いない。超えてはいけない一線だと護は苦笑しながら家に入った。