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その日の献立は、サンマのショウガ煮、筑前煮、炒り豆腐、ナスの揚げ浸し、筍ご飯、キャベツと油揚げのみそ汁。相変わらず2人分とは思えない量の夕食だったが、そのほとんどが護の胃袋に綺麗さっぱり消え落ち着いた頃、蓮華は喫茶店『宿り木』のアルバイト募集紙を護に渡した。
『宿り木』は、家の最寄り駅前にある喫茶店だった。店を構えて早30年というだけあって、地元ではけっこう評判がいい。現にこの街で生まれ育った護は『宿り木』と名前だけ聞いたで、「ああ、あそこ」とすぐ察した。
聞けばなんでも小さいころから何度もいっていたらしく、大学時代にはレポート書きの場として通っていたこともあるという。ちなみに以前彼が買ってきたケーキもここのものだったりする。
募集紙を見る護の前で、蓮華は彼の反応を大人しく待つつ、夕方のことを思い出していた。
今から約3時間前のこと、蓮華は喫茶店『宿り木』のカウンターテーブルに座っていた。カウンター越しにはこの店のマスターだという杉村がいて、「さあ、どうぞ」とココアをいれてくれた。ふわりと漂う甘い香りに、蓮華は堪らず鼻を鳴らす。
『ではまず、お名前をお聞きしてもよろしいですか?』
『はい。杜沢 蓮華と申します』
『杜、沢さん……?』
杜沢という名字は珍しい。とくにこの『杜』を使う、モリサワの姓はそうそういない。もしかしたら杉村は、変わった名字だからと知っていたのだろうか。
そう思った蓮華を杉村が観察しつつ、首を傾げた。
『もしやソウちゃんの娘さん……』
あれ、でもソウちゃんに娘さんいたっけ。と、杉村が今度は逆に首を捻った。
たぶん、杉村がいっている『ソウちゃん』というのは、今は亡き護の実父の総司のことではないかと蓮華は思う。
総司はこの街の駐在として働いていた。それ故顔も広かったと、以前護がいっていたのを思い出す。駐在所に近いこの店のマスターの杉村ならばなおのこと、知っていてもおかしくもない。
それはそうと、杉村の質問にはどう答えたものかと迷う。素直にその総司の息子である護と婚姻関係を結んでいるというべきかのか。ただあと半年ほどで終わる関係だ、いっそ親戚といっておいたほうがいいのか。
絶対に隠さなくてはいけないことでもない。けれど、と蓮華は迷う。いろいろ考えに考え、素直に白状することにした。
『……えっと、義理ではありますが、総司さんの娘にあたります。わたしはその、総司さんのご子息の護さんと、結婚していますので』
『えええ!? 護くんと…!』
杉村に思い切り驚かれてしまい、蓮華は萎縮する。護は自分よりも8歳年上だ。不似合いだと思われても仕方がない。それはとても、悲しいことだけれど。
蓮華は目を伏せ、そのまま頭を下げる。
『あの、その、……驚かせてしまってすみません』
『いやいや、謝るのはこちらです。すみません、嫌な思いをさせてしまいましたよね』
『いえ…』
ふいに視線を上げれば、杉村と目が合った。目尻に皺を寄せながら、杉村はとても柔らかい笑みを浮かべていた。そして『そうか、そうか』と何度も頷く。
『こんな別嬪さんのお嫁さんを貰うなんて、護くんはとても幸せ者ですね。きっとソウちゃんも安心していると思いますよ』
『そんな……、護さんはむしろ、わたしに不相応なほどのすぎた旦那様です』
若干紅くなりつつ答えれば、「若いっていいですね」と杉村が柔らかく笑った。
『ああそうそう、本題のアルバイトですが』
『はい』
心持ち、蓮華は姿勢を正す。
『うちはもし蓮華さんがよければ、働いていただけると嬉しいです。人当たりもいいし、店にも合っていますので』
『ほ、本当によろしいんでしょうか…?』
『ぜひに。ただ、このことを護くんはご存知ですか?』
『……ええと、アルバイトをしたいとは話してありますが…』
『でしたら護くんの許可を貰えたら雇わせていただく、ということでどうでしょうか。お返事は……、そうですね、水曜日以外は店をやっていますので、都合のいい日にいらしていただければ』
『は、はい! ありがとうございますっ」
テーブルに額がつくほどまで、蓮華は頭を下げた。そんな蓮華に『本当に護くんはいいお嫁さんを貰ったみたいだね』と杉村が微笑み、それから『ココア、冷めないうちに飲んでください』と付け足した。
蕩けるような甘い匂いのココアは、味も非常に美味かった。蓮華はじっくりとココアを堪能しつつ、もし働くことになった場合を杉村と簡単に想定する。出れそうな曜日やら時間やらの確認をしつつ、二人で他愛のない時間を過ごした。
店に居着いて30分が経つ頃、蓮華は席を立った。『ごちそうさまでした』と会計をしようとすれば、『今日はおごりですよ』と返される。さすがにそれは申し訳ないといってみたけれど、『なら護くんの許可、頑張ってとってきてくださればチャラにします』といわれた。
そうしてこの店で働けたらいいなあと思いつつ、蓮華は店先で見送ってくれる杉村と別れた。
「い、いかがでしょうか…」
「いいよ、ここなら」
護自身もよくしっている店のせいか、アルバイト許可はあっさり出た。
ほっと胸を撫で下ろした蓮華だったが、まだ護の話は終わってなかった。
「で?」
「……え?」
「少しは向こうと話してきたんだろ? 週どれくらいで、何時から何時まで働く気だ?」
「えっと、まだきちんと決まっていないのですが…」
「だいたいでいいよ」
「水曜日と土曜日と日曜日以外の日で、18時〜23時くらいだと思います」
「……ふむ」
わかった。と護がいった。
「行きは塾の時間と被ってるときは送っていけないが、帰りは迎えにいく」
「えっ!?」
護の言葉に蓮華は心底驚いた。けれど彼は当然だろうとばかりに腕を組む。
「女が一人で出歩く時間じゃない」
「いえ、でもですね…」
「この条件飲まないなら、バイト不可」
「えええぇっ」
「俺が出す条件全部飲むって約束だろ。どうする?」
「うう…」
たしかに一人夜道を歩くのは少しばかり不安だ。護の申し出は正直嬉しい、と思う。けれどわざわざ迎えにきてもらうほどのことかと思えば首を傾げてしまう。
護だって仕事がある。その時間を割かせるほど重要ではないはずだ。
「……絶対ダメですか?」
「ダメだ」
「……絶対に?」
「絶対」
きっぱりと返された護の言葉から、譲ってくれるような感じは一切ない。
いつだって蓮華は護には勝てない。彼にいろいろ迷惑をかけているという負い目もあるし、性格的な問題もあるのだと思う。でも、彼に勝てない自分も蓮華は嫌いではなかった。
こんなに甘えてばかりでいいのかなあと思いつつ、蓮華はやっぱり折れてしまう。
「……お、お世話になります…」
こうして、蓮華のアルバイトが始まった。アルバイト時間は当初店で話した通り、週の月・火・木・金曜日の計4日の、専門学校が終わってから閉店の23時まで。
店のオーナーである杉村の人の良さもあり、蓮華は入って4日ほどウェイトレスとしての基礎をほぼ覚えた。入って1週間目には通っていた専門が調理師学校だったこともあり、キッチンで軽食を作ることも許された。2週間目に入る頃には、ウェイトレスとしてすっかり仕事に慣れた彼女が店にいた。