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17時台の電車が意外と込む。
蓮華が専門学校への通学に使う駅は、別の専門学校や高校、オフィスビル街などもあるせいだ。自分と同じ専門学生と思しき人や部活を終えたらしい高校生、仕事上がりらしいスーツ姿の男性女性が駅に溢れかえっている。
はじめはこの人の多さに辟易していたものの、人間というのは順応性というなかなか便利なものを兼ね備えている。2ヶ月もしないうちに蓮華もこの環境にも慣れた。……もっとも、たまにあう痴漢にはだけはまったく慣れないが。
相変わらず混雑する車内で、蓮華はそれでもなんとか出口付近の場所を確保する。バッグを胸元にたぐり寄せ、揺れる車内からドア窓を通し外を眺めるのが常。
まもなく10月に入るというだけあって、さすがに陽が陰り始めていた。忍び寄ってきた暗闇に、飲食店やスーパー、コンビニに本屋など、さまざまな看板がライトアップされていく。歩道灯も点灯し、昼間とは違う明るさが町を覆う。
そんな中、ふと目についたのが塾の看板。来週から護が臨時の講師として雇われたといっていたことを思い出す。もちろん反対などするわけもない。むしろできるだけサポートできればいいと思う。
ただ、ほんの少し、ほんの少しだけ寂しいとも思った。平日学生身分の蓮華が、護とゆっくり過ごせるのは夕方から夜にかけての時間だけ。これといって何をするわけでもないが、一緒に過ごせる時間は貴重だった。とくに、あと半年しか一緒にいられないかもしれないと思えば余計だった。
わたしも、働こうかな。
それはふと思い浮かんだことだったが、よく考えてみればなかなかいい考えではないかと思えてきた。
ぽつんと一人家に残されるのはやっぱり寂しい
ならばその時間を、アルバイトなどで身体を動かすのはどうだろうか
給料はそのまま食費として使ってしまえば、少しでも護の負担を軽減できそうだし……
これは意外にも妙案かもしれない
さっそく家に帰って護に相談してみよう
上手い具合に車内に蓮華が降りる駅の到着アナウンスが流れた。
「アルバイト?」
「はい」
あれからいつものスーパーに立ち寄り買い物をし、家に帰って夕食を作り、その夕食を済ませた頃合いを見計らい、蓮華は護に切り出してみた。
茶を啜っていた護の手が止まる。
「なんでまた?」
「えっ…」
さすがに家に一人置いていかれるのが寂しいから、だなんてとてもいえない。そもそも理由を聞かれることなどないと思い込んでいたので、突然の切り返しに蓮華は思わず言葉に詰まってしまう。
「食費が足りんならもっと渡すぞ」
「いえいえいえ、全然そうじゃないんです!」
むしろ毎月食費余っています、とあわてて付け足す。
確かにこの家での家事を一切担当し始めてから、毎月食費やら雑費やらを蓮華は護から預かっている。けれど足りなかったことなど一度もなく、むしろ毎月余るほど渡されて毎月返金しているほどだ。もちろん今月預かっている金額だってまだまだ余っている。
「えっと、そうではなくてですね…」
「うん」
「あの……」
何かいい理由。寂しいからとか情けない理由であればなんでもいい。
まっとうな理由と必死に頭を回転させる。何かないか、何か。
「そ、ろそろ…社会勉強でもしたいと、思いまして…!」
土壇場ながら模範的な解答を引き出せた。と思う。
内心で汗を拭いつつ、若干引きつる笑顔を張り付けて蓮華は答えた。嘘をついたり誤摩化したりするのは、元来苦手だ。上手く笑えている自信はないが、無理矢理それを押し通すしかない。
「それに護さんも大学生の頃、アルバイトをしていらしたんですよね」
「ああ、まあ…」
「わたしもそれを見習ってみようかと思いまして」
護の顔はなんとなく納得していないようなそんな表情。けれどこれ以上つっこまれたら上手く返せるか分からないと、蓮華の笑顔は引き攣るばかり。
できればさっくりと許可がほしいと思ったものの、「けどなあ…」と護が言葉をこぼした。思わず蓮華は、身を固くして次の言葉を待つ。
「バイトつったって、学校終わってからやる感じだろ?」
「たぶん、そうなるかと」
「学校が終わるのがだいたい17時だろ? そっからやるってなると帰りは夜になるわな」
「そう、ですね…」
「う——ん…」
それきりしばらく護は唸っていたが、やがて「しゃーねえな」と息を吐いた。
「とりあえず、バイト先が決まったらまたいうこと。まずそれが条件」
「じゃ、じゃあ…」
「ただし、これ以外にも何個か条件つけるから、それを全部飲めるやつならいいぞ」
「はい、ありがとうございます!」
ようやくもらえたOKに、蓮華は心底ほっとした笑顔を漏らした。
◇◇◇ ◆◆◆ ◇◇◇
翌日から、蓮華はさっそくアルバイト探しを始めることにした。コンビニにある求人雑誌を何冊か見てみたが、なかなか良さげなところが見つからない。
コンビニやファーストフード店、それかファミリーレストランあたりがベターだろうと思うのだが、残念なことに今募集がある店舗は家からも学校からも離れ過ぎているものばかり。近場にあるものといえば俗にいう水商売がほとんどで、護が納得してくれないだろうなとため息をつく。
というのも、
一つ、門限は23時
一つ、水商売はアウト
一つ、学校か家の最寄り駅エリアの店舗
以上護が提示した3つの条件で、これらすべてを飲んだ条件ではないとダメだといわれているからだ。おかげですぐ見つかると思っていたアルバイトが、意外にも見つからない。できれば来週の護の塾努めに合わせたいのだが、このままでは厳しいかもしれない。
あの家は広い。一人でいるには、とくに2人でいることに慣れてしまっていれば、なおのこと。寂しさは不安を呼び、不安は怯えを呼び覚ます。
はあ、と帰途につきつつ蓮華はまたため息を漏らさずにはいられなかった。
目の前の信号が赤に変わったので足と止める。なんとなく視線を動かした先に入った張り紙に、蓮華の視線が吸い寄せられた。
それはアルバイト募集の張り紙だった。
止まっていたはずの足が、そちらに無意識に向かう。
喫茶『宿り木』 アルバイト募集しています
18歳より性別不問
時間は月・火・木・金曜日/17時〜23時までの間で要相談
簡素な手書きの一枚だった。
だけど温かい文字のように思えて、なんとなく惹かれた。違う、護の字に似ているから惹かれているんだと、気がついたその時。
「おや、お客さんかな」
カラン…と、どこか鈍い音を立てるドアベルと共に、声をかけられた。ハッと意識を取り戻した蓮華が顔を向ければ、少し白髪の混じった髪を短く整えた初老の男性が傍に立っている。柔らかい笑みと、黒いエプロンが印象的だった。
きょろきょろと蓮華はあたりを見回す。周囲には誰も居らず、己が声をかけられたのだとようやく理解した。
「あ、いえ……」
「時間があるなら店にどうぞ。せっかくですので何か一杯お出ししますよ」
「あのっ…」
「はい?」
「アルバイト、の募集の記事なんですが……」
「ああ、でしたらなおのこと店にどうぞ。とりあえずお話からしましょう」